一日中走り回ってクッタクタ。照明を落とした部屋、いつものようにキャンドルを前に家族一人一人が感謝の気持ちを言い合う。子供たちと抱き合い休みの挨拶を交わすと、ベッドに横たわり温もりに包まれる。10時前。今日も色々あったけれど、声を荒げることもあったけれど、ああ「幸せ」とはこういう感覚なのかもしれないなあ、と思いながらウトウトと眠りに落ちる。
バチリと目が覚める。目の前にはデジタル時計の数字がクローズアップしたように迫る、「2時36分」。
闇が迫っている。前身を重い闇が包んでいる。覚えのある感覚。
以前の私は、この圧倒的な「闇」を前に、恐怖におののき、振り回され、飲み込まれていった。
今は違う。何度か体験するうちに、どうしたらこの状態から抜け出だせるのかが分かる。
闇を「観る」、ひたすら。
すると自身の内を流れる思考、感情が闇と繋がっているのも観えてくる。
闇を肥大させる思考や感情の源が「エゴ」。
「エゴ」のない状態が「観る」自分。
観ることを続け、「エゴがなくなるー無我」になるにつれ、別の「力(force)」が湧き起こって来る。呼吸が変わる。
闇はエゴ、無我は光の状態。闇と光が対峙し、統合されたところに力が湧き起こる。
エゴが大きいほど闇も肥大し、無我になるほど「光」が満ちる。
私がするのは「観る」ということ、「エゴ」を無くしていくということ。そうすれば自ずとコトは起こる。
この「闇」には古来よりいくつもの名前が与えられてきた。「悪魔」「悪霊」「呪い」。もうそんな「恐怖」を植えつけるような「教え」もいらない。「恐怖の想念」の膨大な蓄積が「形」を作ってしまっている。人々の目を自身の内にある「エゴ」からそらさせ、闇に力を与えているだけだ。
「闇」を肥やすのは自身の内にある「エゴ」。
闇に対峙するために外在の偶像で防備する必要などない。そんな偶像は圧倒的な闇を目の前にしたら足手まといになるだけ。そんな偶像も手放し、ただ自身がいかに無になれるかだ。
闇に本当に対峙できるのは自身の内からのみ。自身の内の闇はあらゆる闇に繋がっている。自身の内からのみ、その巨大な闇に対峙できるのではないか。
「闇」は常にある。闇とバランスをとっていくには、一人一人が「日常から」いかに闇を肥大させないかにかかっている。それは日常からいかに自身の「エゴ」を無くしていくかということ。
最後に、なぜ「闇」が存在するのか? それは「光ー無我」へと人を方向づけ鍛えるため。そして闇と光が統合されたときに湧き起こる「力」を生み出すため。昨夜力に包まれ、強くそう思った。
これが「私」という「フィルター」を通した今の時点での世界観、宇宙観だ。
バチリと目が覚める。目の前にはデジタル時計の数字がクローズアップしたように迫る、「2時36分」。
闇が迫っている。前身を重い闇が包んでいる。覚えのある感覚。
以前の私は、この圧倒的な「闇」を前に、恐怖におののき、振り回され、飲み込まれていった。
今は違う。何度か体験するうちに、どうしたらこの状態から抜け出だせるのかが分かる。
闇を「観る」、ひたすら。
すると自身の内を流れる思考、感情が闇と繋がっているのも観えてくる。
闇を肥大させる思考や感情の源が「エゴ」。
「エゴ」のない状態が「観る」自分。
観ることを続け、「エゴがなくなるー無我」になるにつれ、別の「力(force)」が湧き起こって来る。呼吸が変わる。
闇はエゴ、無我は光の状態。闇と光が対峙し、統合されたところに力が湧き起こる。
エゴが大きいほど闇も肥大し、無我になるほど「光」が満ちる。
私がするのは「観る」ということ、「エゴ」を無くしていくということ。そうすれば自ずとコトは起こる。
この「闇」には古来よりいくつもの名前が与えられてきた。「悪魔」「悪霊」「呪い」。もうそんな「恐怖」を植えつけるような「教え」もいらない。「恐怖の想念」の膨大な蓄積が「形」を作ってしまっている。人々の目を自身の内にある「エゴ」からそらさせ、闇に力を与えているだけだ。
「闇」を肥やすのは自身の内にある「エゴ」。
闇に対峙するために外在の偶像で防備する必要などない。そんな偶像は圧倒的な闇を目の前にしたら足手まといになるだけ。そんな偶像も手放し、ただ自身がいかに無になれるかだ。
闇に本当に対峙できるのは自身の内からのみ。自身の内の闇はあらゆる闇に繋がっている。自身の内からのみ、その巨大な闇に対峙できるのではないか。
「闇」は常にある。闇とバランスをとっていくには、一人一人が「日常から」いかに闇を肥大させないかにかかっている。それは日常からいかに自身の「エゴ」を無くしていくかということ。
最後に、なぜ「闇」が存在するのか? それは「光ー無我」へと人を方向づけ鍛えるため。そして闇と光が統合されたときに湧き起こる「力」を生み出すため。昨夜力に包まれ、強くそう思った。
これが「私」という「フィルター」を通した今の時点での世界観、宇宙観だ。