人々が見向きもせず「周縁」に追いやられたモノに、溢れる力、溢れる光を見出すとき、自身の内で固定化された価値観から解放されることがある。
私は物心ついたころから、メジャー・王道からそれた「周縁」に興味があった。
自分はメジャーにはなれないというコンプレックスがあったからかもしれない、どこにいても自分は境界にいると感じていたからかもしれない。
私は「周縁」の力を信じることで、画一的な価値観にがんじがらめとなった自身の状況から、自身を解放しようとしていたのかもしれない。
30代後半、もうセンチメンタルなコンプレックスもどこへやら、厚かましくなりすぎないよう気をつけようと思う今日この頃、メジャーか周縁か、など構わず好きなものは好き、というスタンスになりつつある。(笑)
それでも「周縁」とされるモノを観る自身の目に愕然とすることがある、いかに固定化した価値観にどっぷり浸っていたかと、はっとさせられる。
「周縁」に力を見出すとき、より豊かにより自由になると感じている。
私は物心ついたころから、メジャー・王道からそれた「周縁」に興味があった。
自分はメジャーにはなれないというコンプレックスがあったからかもしれない、どこにいても自分は境界にいると感じていたからかもしれない。
私は「周縁」の力を信じることで、画一的な価値観にがんじがらめとなった自身の状況から、自身を解放しようとしていたのかもしれない。
30代後半、もうセンチメンタルなコンプレックスもどこへやら、厚かましくなりすぎないよう気をつけようと思う今日この頃、メジャーか周縁か、など構わず好きなものは好き、というスタンスになりつつある。(笑)
それでも「周縁」とされるモノを観る自身の目に愕然とすることがある、いかに固定化した価値観にどっぷり浸っていたかと、はっとさせられる。
「周縁」に力を見出すとき、より豊かにより自由になると感じている。
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