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靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

最近の「書くこと」

2011-09-19 00:59:03 | 思うに
小説「砂漠の紅」(仮題)、あれをこっちに動かし、これをこっちに持ってき、とあれやこれやとなかなか時間がかかりそうです。ゆっくりじっくり煮詰めていきたいと思ってます。

その間、以前書いた小説を少しずつ手直ししながらここに載せていこう、一度仕上げた形を磨くことが、今書いているものにも生かされるだろうし、と思って見てみたら、こりゃひどい! 当時はいける!と思いながら書いていたんだなあ。(笑) かなり手直し必要かも。こうやって見えるようになることも進歩ですね。一年後に振り返り同じことを言っているのかな。

小説をポツリポツリ続けながら、どうしても今まとめておきたいことも出てき。フィクションとノンフィクションの間を行き来し、境界がなくなっていくようにも感じながら、一歩一歩進んでいます。最近はほとんどリサーチとノンフィクション浸りの毎日になってますが。

時間を搾り出すこと、時間のやりくり、鍛えられる日々です。

読んでいただくことで大きな励みとなっています。

心よりの感謝を込めて。

綱渡り師曰く、

2011-09-15 23:44:07 | 思うに
シベリアの強制労働収容所(gelug)でMendel Futerfasというラビと綱渡り師がこんな会話を交わしたという話を聞いたことがある。


ラビ:   「綱渡りをマスターするには何が必要なんだい?バランス?スタミナ?集中力?」

綱渡り師:「秘訣は常に行き先(destination)に集中すること。
      綱の反対側の端に目を据え置かなければならない。
      ところで一番難しいのはどんなときだと思いますか?」

ラビ:  「真ん中あたりにきたときかな」

綱渡り師:「違うんです。ターンするときなんですよ。
      なぜならほんの一瞬行き先を見失うから。
      行き先を見失うときが最も落ちる可能性が高くなるときなんです。」


この話を聞いたとき、体に稲妻が走ったような気がした。(大げさでなく;笑) 自分は綱渡りをしているようだと感じることがよくある。まあ色々な面で実際日々綱渡りなのだけれど、象徴的な意味での綱渡りということ。(笑)

現実的に目に見える「行き先」というのも様々決めてあるわけだけれど、それらを統合するような本当の「行き先」は目の前の外ではなく、内にある。目の前の「様々な現実的行き先」はその「内の行き先」の「表れ」のようなもの。

綱渡り師のように「行き先」を見据えて、一歩一歩。

何度も戻る言葉

2011-09-15 23:42:15 | 思うに
何度も戻る言葉に、マザーテレサの「The Final Analysis」の最後の部分がある。

“You see, in the final analysis, it is between you and God;
It was never between you and them anyway”

「お分かりのように最終的に分析すると、それはあなたと神との間でのことなのです。
決してあなたと彼らとの間でのことではなかったのです。」

この「神」は「自身の中心」「内の無限」という言葉に置き換えると自分にはしっくりとくる。自身の奥にある自身という枠組みを越えた存在。

修道院を飛び出し、嵐のような否定的反応にあいながらも、一心に活動し続けることで結果的に多くの人々の心に影響を与え新しい流れを生むことになったマザーテレサ。マザーテレサの心の奥底には常に「私と彼らとの間」を超えた「私と神との約束」のようなものがあったのだろう。「私と彼ら」を超えたところに拠るからこそ、現状を変えていくこともできるのかもしれない。

こんなマザーテレサの言葉もある。

"Do not wait for leaders; do it alone, person to person."

「リーダーを待たないで。自ら一人でやってみなさい。」

リーダーは一人一人の内に。



「The Final Analysis」は元々「The Paradoxical Commandments」 としてKent M. Keithによって書かれたものを、マザーテレサが最後の部分を書き加えるなどして、カルカッタの「子供の家」の壁に貼ったもの。

以下「The Final Analysis」全文。

People are often unreasonable, illogical, and self-centered;
...Forgive them anyway!

If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives;
...Be kind anyway!

If you are successful, you will win some false friends and some true enemies;
...Succeed anyway!

If you are honest and frank, people may cheat you;
...Be honest and frank anyway!

What you spend years building, someone could destroy overnight;
...Build anyway!

If you find serenity and happiness, they may be jealous;
...Be happy anyway!

The good you do today, people will often forget tomorrow;
...Do good anyway!

Give the world the best you have, and it may never be enough;
...Give the world the best you've got anyway!

You see, in the final analysis, it is between you and God;
It was never between you and them anyway.

一昨夜の体験に思う

2011-09-01 23:19:21 | 思うに
一昨夜のこと。

いつものようにキャンドルを囲みそれぞれが感謝の言葉、そして子供たちと抱き合いおやすみの挨拶を交わすと、ブランケットの温もりに潜り込んだ。

出張へ行っていた夫も戻って少しリラックス、夜集まったレゴ・リーグもわいわいと楽しかった、小説もほんのちょっとずつだけど進めて、教育関係のリサーチをもっとしたいな、しかし「観る」ということは本当にパワフルだなスカンとぬける、明日は久しぶりの「作って食べる会」ああ楽しみだあ、今日も一日ありがとうございます・・・、そんなことを思いながらいつしか眠る。

顔には笑みを浮かべながら。


深夜にバチリと目が覚める。時計をみると2時少し前。

圧倒的な重さがあたりに立ち込めている。「不安」と言う言葉にはもう入りきらない。「自分の不安」と囲ってしまうのならば、自分というものなど一気にぐしゃりと潰れてしまうような重さ。

以前なら一気に気が狂ってしまっていたかもしれないほどのもう「不安」とも呼べない「感覚」。重い闇。それでも、今ではとても静かな気持ちで眺めている自分がいる。

思う、一体全体これはどういうことなんだろう? 


何人かの知り合いの顔が浮かび、そして見知らぬ人々の姿が次から次へと通り過ぎる。

「観る」ということで私は何かを置き去りにしていたのだろうか? その置き去りにしてきたものが忘れ去られた反動でとてつもない力となって溢れ出しているのだろうか? それとも「観る」というトゥールを得たことによって溶かしていくためのより大きな課題がやってきているのだろうか? 今まで気がつかなかった奥深くに隠されたトラウマのようなものとか?

やがて圧倒的な温もりがやってくる。その温もりの光に包まれ、圧倒的な闇は小さな点に集約され温もりの中心に収まっていく。闇の点は消えないまま、それでも圧倒的な温もりに包まれている。


朝目が覚めると、少し重い。しばらく身体を動かし、まだ半分寝ぼけたような子供たちと話しているうちに、温もりが湧き起こってくる、その温もりは以前に増して強く、その日何度か涙が流れる、何だか嬉しくてありがたくて、といったような涙。



「隙」という言葉が浮かぶ。隙のない武士、というようなイメージが。

光と闇のバランスが崩れると、「隙」ができる。

私はあの「観る」ことで闇を消し去ったと、光だけみてうっとりと隙だらけになっていたのかもしれない。


「観る」ということは自身を「使いものにする」ためにあるのかもしれない。

まずは不安や闇に自身が飲み込まれないよう整え、自身を闇と対峙させておくために。



闇はなくなりはしない。多分、世界中に苦しむ人々がいる限り。

思考の外

2011-09-01 23:11:32 | 思うに
「不安」は思考にはまることからくる 思考の「外」が抜け落ちた状態から

「外」に触れることで 思考は恣意的なものだと気がつく 選択できるものだと


そのはまっている思考を違う思考で置き換えることは 

そのはまっている思考の「外の思考」にいる状態に過ぎない


思考の外とは 圧倒的な静であり 平安であり 無限であり 肉体の死即ち個の死であり

肉体をもって生きるとは思考することだ 思考は消えない 肉体が死なない限り


ただ 肉体を持ちながら即ち思考しながら 肉体を超えた存在即ち思考の外と共にあることはできる

「観る」はそこへ至るトゥールの一つに過ぎない


では 思考の外に触れることに どんな意味があるのか? 

より必要な思考を選択していけるようになる ということなのではないだろうか 

「七つの実り」余談

2011-08-21 23:26:02 | 思うに
オリーブやナツメヤシや、普段あまり馴染みのない中東の食べ物。これらを身近な食べ物に置き換えてみたらどうだろうと、妄想してみた。

1の小麦は、なんと言ったって「米」だろう。

2の大麦は「粟」や「ひえ」だろうか。

3のグレープは、アルコールにもなるからまた一層「喜び」ともいえるのかもしれない。ユダヤの人はワインを飲んで歌って踊りまくったりするし。とすると、また「米」になってしまうから「梅」というのはどうだろうか、梅酒美味しいし。

4のイチジクと5のザクロはそのままでもいいかもしれない。子供時代祖母の家の庭で、イチジクとザクロを取って食べたのを思い出しながら。

6のオリーブは難しい。「栗」というのは。熱く火にあぶられながら美味しくなっていく。ちょっと無理がある気も。

7のナツメヤシは「桃」とか「柿」。「桃」より「柿」の方が実るのに時間かかるから「柿」だろうか。桃3年柿8年、70年どころではないけれど。


これをアラスカで言うと、サーモンにベリーに、と妄想は続く・・・・。(笑)

「七つの実り」

2011-08-21 23:25:37 | 思うに
ある見方や考え方に出会うことで、それまで内にもやもやとあったものに、パッっと光があたった気がすることがある。形を成さなかったものが、一気に形を表す瞬間。「七つの実り」を知ったときも、そんな瞬間があった。

宗教に入っていない人のほうが珍しいこちらに暮らして12年、入っていても入っていなくても色々な人がいると身にしみて思う今日この頃、「宗教に入っている」ということに対する偏見や抵抗感は日本にいたときにくらべ自身の内にもうほとんど残ってないと思う。だからわざわざ書く必要もないとも思ったのだけれど、念のため私は今のところ特定の宗教には入っていない。


出エジプト後40年間砂漠をさまよい、結局「約束された地」にたどり着くことなく亡くなったとされるモーセ。死の直前、モーセ自身は足を踏み入れることのなかった「約束の地」について、こう言い残したと伝えられている。

「かの約束された地では7つの実りに恵まれるだろう」


その7つの実とは、

1. 小麦
2. 大麦
3. ブドウ
4. イチジク
5. ザクロ
6. オリーブ
7. ナツメヤシ

ユダヤ神秘主義カバラではこの「7つの実り」を「神」から与えられた人生における恵みとして、こう解釈する:

1. 魂(個を超えより神に近づこうとする魂)
2. 魂(個の生存をかけた動物的魂)

主食である小麦と大麦、人にとっての根幹に当たる魂。人の中心にある無限の魂に、神的、動物的の二つあるとし、動物的魂も神的魂同様、大切に磨いていく必要があるとする。


3. 喜び (joy)

同じことをするにしても「喜び」があるかどうかでは切れや勢いが随分と変わってくる。


4. 積極的参加、関与、熱中 (involvement)

アダムとイヴが食べた「善悪の知識の実」はイチジクだったと言われる。「神」が定めたこれ以上立ち入ってはいけないという境界さえも越えて首をつっこんでいきたいという象徴としてのイチジク。もっとも破壊的であるけれど建設的にもなりうる力。


5. 善行 (good deed)

ザクロは一つ一つ仕切られた実で詰まっている。ぎっしりと詰まった善行も、全体性を欠いていれば数だけは多い単なる一つ一つの孤立した行為でのみありうる、というパラドックスを象徴している。


6. もがき (struggle)

オリーブが押さえつけられ潰されることでオリーブ油を生み出すように。生活に、生活の糧を得るために、人間関係に、仕事に、子育てに、もがいてあがいてギュウギュウと絞られるからこそ、力強く成長していく。


7. 穏やかさ、平安、完全さ (peace, tranquility, perfection)

もがきの渦中でさえも、魂の根幹にある完璧な平安にあることができる。また平安の極みにありながらも、より大きな達成をかきたてる挑みを常に見つけることができる。ナツメヤシは70年後にやっと実をつける種類もあるという。



この「7つの実り」の解釈について知ったとき、すんなりと納得できたのを覚えている。

ついつい、

小麦だけあれば、

ナツメヤシさえあればもう何もいらない、

人生はオリーブだ、

などと思いがちなのだけれど、「7つとも必要な恵み」という見方が新鮮だった。7つのバランスをとり続ける限り、「神」の禁じたイチジクでさえ欠かせないというのも感慨深い。

少し距離を離して自分を眺めてみると、どれかひとつでいっぱいいっぱいになっている状態のなんて多いことか! もがいていたって喜びや平安に在ることができる、完全に静けさに満たされた平安にありながらもがいていくこともできる。


7つをまんべんなく食べてみる。

口中に広がる7つの実、「生きる」ということを思いっきり味わっていきたい、そんな風に思う。

金曜日の夜に

2011-08-15 00:38:07 | 思うに
毎週金曜日の夜に 皆シャワーを浴び 少し着飾って 食卓も普段より少し飾り 

感謝の言葉を言い合い 歌をうたい ささやかな晩餐をする というのをここ8年ほど続けている


この晩餐を子どもたちは楽しみにしていて この晩餐を軸に一週間が回っているようなところがある 


変わらない軸のようなものがあると 変わっていくものがくっきりと浮かび上がって見えてくる


晩餐のキャンドルに照らされる顔も 4人から今は7人 (笑)

抱っこされていた子どもたちが 今は自分の足で立ち上がり 感謝の言葉を言い合っている (次男はまだ真似っこだけれど)
 


いつか 子どもたちが大きくなり 家を出て行ったとしても 

またこうして再び集まり 共にキャンドルを囲む日も来るのかもしれない 

その時は また新しい家族も 増えているのかもしれない


そんなことを思いつつ     

日々の膨大な積み重ね

2011-07-08 23:59:49 | 思うに
マウンテン・マラソンの走者

当たり前のことだけれど、レース当日に表われたのは、普段からの膨大な積み重ねのほんの少し。

何人もの人々を後ろに完走した83歳の男性は、毎日のように山道を走っていると、彼の知り合いの友人が言っていた。食べ物にも気を遣い、日々身体の声に耳を澄ます必要もあるだろう。もちろん、丈夫な身体に恵まれたという先天的な要素もあるだろうけれど。

レース当日の軽やかな足取りは、普段からのトレーニングの積み重ねがあるからこそ。

何でこんなことが可能なのだと驚嘆する「結果」の背景には、表に出ない日常の膨大な積み重ねがある。


そしてその普段の一歩一歩に、結果などもうどうでもよいと思えるような、目指しているはずの結果をも超えた瞬間瞬間があるのかもしれない、そんなことを思う。

何だかSFの世界みたいだけれど

2011-07-08 23:58:33 | 思うに
「言葉」による繋がりである以上、分断は必ずある。

分断を最小限にする「言葉」を発するようにすることが、個々の多様性を消し去る方向へと動いていくのならば、「言葉」以外のコミュニケーション方法を確立していく方向を向いたほうが賢明なのかもしれない、と思うことがある。

何だかSFの世界みたいだけれど。(笑)

「サイレンス」では、全てが繋がる。

「サイレンス」にありつつ、「言葉」を発していけるよう。

その境地は独自の形で

2011-06-27 00:00:49 | 思うに
自身の内にもぐっていくと、たどりつく境地がある。

意識しているにせよしてないにせよ、誰もが知っている境地。


その境地は、様々な「形」で表される。宗教的スピリッチュアル的な形であったり、音楽、絵画、文学などの芸術といわれる形であったり、スポーツや科学などの形であったり。生活に体現された思いやりや他への共感などの形であったり。

人の数だけ表される「形」がある。

その境地が表された形に触れると、人は感動し、忘れていた何かを思い出したような気持ちになる。


その境地につながる「管」のようなものがある。人の数だけあるその「管」を通ることで、その人独自の形は自ずと生まれる。「管」はその境地を、その人の生い立ちや運んできた命に合った表し方へと加工する。

その管を詰まらせるのが「エゴ」。

「エゴ」を掃除し、管の通りをスースーにしていくこと。それが誰にも与えられている「才能」を磨いていくということでもあるのかもしれない。


管を掃除すればするほど、多様に突き抜けた形が生まれる。

そんな「独自の形」にあふれ、「その境地」があらゆる分野に表された世界、そんな世界がこれから必要なのかもしれない。

コギト・エルゴ・スム

2011-06-24 23:58:52 | 思うに
近代以前の 「神思う、ゆえに我あり」


「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」 で始まった近代


これからは 「神思う、ゆえに我あり、我思う、ゆえに神あり」 でどうだろう


私がここで「どうだろう」、てったって何がどうなるものでもないんですが。(笑)


個々の「我」というフィルターを通して表された「神」は個々独自の形をしており、
それでも形を超えたところではひとつであり。

そしてその形を超えひとつとなる場は、「我」一人一人の中心にある。

我と神 ひとつに

 

「エゴ」を溶かしていくには、

2011-06-16 03:14:11 | 思うに
では、日常から「エゴ」を無くしていくには?

ひたすら内観し、「恐れ・不安(fear)」を感じるたびにその元を観る。どんな小さなものでも。

元には必ず「エゴ」がある。

「恐れ・不安」自体を消そうと思っても消すことはできない、それは「幻想」だから。幻想をこねくりまわしても何も起こらない。元を消す、そうすれば「恐れ・不安」も消える。

元を消すには、「恐れ・不安」を抱く自身を受け入れ抱きしめるのが有効。「恐れ・不安」をエゴごと受け入れ抱きしめる。まだ「恐れの芽」の時点ならこれができる。


エゴが溶けていく。

「闇ーエゴ」と「光ー無我」が統合され、「力」が湧き起こる。

この動きに終わりはない。それでも繰り返すうち、「エゴ」を察知しやすくなる。そしてエゴを溶かすたびに、また少し「力」も強まっていく。