二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

身の丈で世界を見るということ

2012年06月30日 | Blog & Photo
<タチアオイとミツバチ>


子どものころよく遊んだような場所へいって「あれれ、こんなに狭い場所だったか?」と意外に思った経験はないだろうか?
あるいは遊園地の遊具や、坂道や、その周辺の建築物などの風景。
それはそういった場所が狭くなったのでも、高さが縮んだのでもなく、こちらが大きくなったのである。
あるいは「ガリバー旅行記」という書物は、子どものころは、単なるファンタジックな童話だったが、大人になってから読み返すと、まことに辛辣かつグロテスクな、社会・政治風刺となっていることに気がつく。

人はほんとうは自分の身の丈に合わせて世界を眺め、それを絶対的なものと思い込む(~o~)

いまはタチアオイの花が咲くシーズン。
この花はいまではわが家では絶えてしまって見ることができないけれど、小さかったころ、屋敷の門口に、かなりの数が咲いていて、“あのころに時間”に連れ戻してくれる花のひとつ。
子どものわたしは、この花を見あげ、その背景にあった空のまぶしさを思い出す。
あのころのわたしの身長は、どのくらいだったのだろう?
北関東の農家では、麦刈りと田植えがあって、仕事に追われ、わたしも学校から帰ると農作業業に従事させられたものであった(=_=)

現在のわたしは、わたしの「アイレベル」で対象を見つめている。身長172cmという、わたしの世代ではごく平均的な高さとなる。
ところが、たとえば、明治の日本・・・鴎外や漱石は皆、160cmあるかないか、そういう人物だったということを本で知って、「ははあ、そうなのか!」とびっくりしたことがあった。
あるいは、歴史人口学なるあまりメジャーとはいえない学問があるが、その本(名前は忘れた)を読んでいたとき、かの空海の時代、つまり9世紀なかばにおける、日本列島(北海道は含まず)の総人口は、600万人代であったと推計されていることを知り、やっぱり驚いた記憶がある。

人間は自分の身長や、収入や、“現在という時間”を基準にしてものを見たり考えたりする。それは仕方がないことだろうが、それを絶対視すると、判断を間違える。
タチアオイのそばまでいって、そこにしゃがみ、その高さでタチアオイを見あげて撮影する。子どもと話すとき、相手の気持をつかみたかったら、しゃがんで、子ども目線で向き合いなさいとよくいわれる。見下ろしたのでは、相手のこころの奥へは入ってはいけない。

ウエストレベル・ファインダーで外界を見たわたしが「まあ、なんとフレッシュな視覚だろう」という感想をいだいたのは、このことと関連している。
ハッセルもローライも、レンズは鳩尾(みぞおち)あたりに構えるし、
その高さに映りこむ外界を眺めている。
もちろん、アイレベルファインダーでもいいが、普通にいわれるアイレベルから身を解き放ってみると、外界は少し違って見えてくる。

コンデジの場合でも、わたしはずいぶんOVF(Optical View Finderの略)にこだわってきたし、いまでも多少はそれにこだわりがある。なにか“基準”がないと不安だし、混乱するからである。だけど・・・、ルミックスのLX5によって、アイレベルから解放され、ファインダーに相当する背面液晶を顔から離し、腕を伸ばして塀の向こう側や、地上10cmの高さで撮影してみると、これがなかなかおもしろく、外界は千変万化する。
わたしはなかば無意識に絶対視していた自身の“身の丈”という「ものの見方」から解放されたのである。

この場合、タチアオイがキーワードかも知れない。
あるいはあの花の背後にあった、夏空が・・・。
あのころのわが家や、あのころの日本を思い出す。
あれから、約半世紀という歳月が流れたとは、なんだか信じがたいことだけれど。




<枯れ姿が美しい>
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「すきま写真」がおもしろい | トップ | 天空の城を撮る »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Blog & Photo」カテゴリの最新記事