もうかなり以前に刊行されている。
関心がないわけではなかったけれど、いざとなると、手がのびなかった。
音楽的な素養がまったくないから、読んでもおもしろくないだろうと、ためらっていた。
高校時代に、ブラスバンドで活躍している友人がいた。
彼がはじめてわたしに「クラシック音楽とはなにか、その魅力とは」を語ってくれた。
武満徹さん、小沢征爾さんの名も、そのとき、友人から聞いている。
「交響曲第1番巨人(花の章つき)」「春の祭典」「弦楽のためのレクイエム」「ノヴェンバー・ステップス」といった名前が、さかんに彼の口から出てきた。
わたしが最初に小遣いで買ったのは、たしか、ベートーヴェンの第5番とシューベルトの未完成がカップリングされたLPで、レコード・ショップではなく、本屋で買った。
発行者がたしか河出書房社。
それから、チャイコフスキーの「悲愴」、ドボルザーク(ドボルジャーク)「新世界」。
モーツァルトの40番41番も、むろんそのころ買った。1960年代の終わりころで、ベルリンフィル+カラヤンのブームが、わが国に到来していたのだ。
これらのシンフォニーは、あまりに何回も、レコードがすり切れるほど聴いたため、
その後、まったく不感症になってしまったほど。
クラシック音楽熱は、30代半ばに、オーディオを買ってからまた再発(笑)。そのころは、CD時代が到来していて、60枚くらい集めたところであきてしまい、だんだん聴かなくなっていった。
いま調べたら、武満さんは、1996年に亡くなっている。この国内でよりも、海外で評価の高い作曲家は、ほとんど聴いたことがなかった。
このあいだ、図書館から借りてきて、CDを一枚聴いてみたが・・・どうもまだピンとこないものがある。
小沢さんも、日本でというより、海外で、その本来の力量が認知された指揮者。
お二人とも、日本占領下の中国で生まれ、育ったところがよく似ている。本書は対談集だが、幾度となくそのころの話に言及され、幼年期の記憶がいかに決定的だったか、想像にあまるものがある。
小沢さんのCDは、4、5枚もっている。
2002年のウィーン、ニューイヤー・コンサートのCDや、プロコフィエフの5番シンフォニーなど。その中国で開催したボストン響の演奏がいかに感動的だったかを、小沢さんは、熱っぽく語っている。中国人が奏でるモーツァルトやベートーヴェンのおもしろさ、愉しさ。
武満さんは、美術評論家で、シュールレアリスムの詩人として知られる滝口修造さんのお弟子さん。このお二人が、のべ10時間以上にわたって対談しているのだから、むろん、おもしろくないわけがない。武満さんは、想像以上に、理知的に周到で、音楽に対し、意識的な作曲家であることが、よくわかる。
小沢さんが、師匠で指揮者の斎藤秀雄をはじめ、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインを語るあたりも読みどころ。
「ジャーナリズム全体がきっと悪い。考えたり感じたりする余地をあたえないのね、時間をね」(小沢)「ニューヨークはアメリカじゃない」(小沢)「音楽する興奮」(小沢)「狭い日本を離れると作曲ができなくなっちゃう」(武満)「もう時間がないんだよ」(武満)
こういった発言の一つひとつが、値千金の重みをもっているし、いまだ少しも古びてはいない。
クラシック音楽界における世界の頂点にのぼりつめて数年、小沢さんが食道ガンにかかっているのがわかったのは、まだ最近のことだ。
本書が文庫化されたのは、昭和59年。もう26年が経過している。
昭和の日本が生んだ、世界的なこの二人の天才について、わたしも遅ればせながら、本書によって、理解を深めることができた。小沢さんのナマのコンサートにふれるチャンスは、もうないのかも知れないが・・・。
評価:★★★★
関心がないわけではなかったけれど、いざとなると、手がのびなかった。
音楽的な素養がまったくないから、読んでもおもしろくないだろうと、ためらっていた。
高校時代に、ブラスバンドで活躍している友人がいた。
彼がはじめてわたしに「クラシック音楽とはなにか、その魅力とは」を語ってくれた。
武満徹さん、小沢征爾さんの名も、そのとき、友人から聞いている。
「交響曲第1番巨人(花の章つき)」「春の祭典」「弦楽のためのレクイエム」「ノヴェンバー・ステップス」といった名前が、さかんに彼の口から出てきた。
わたしが最初に小遣いで買ったのは、たしか、ベートーヴェンの第5番とシューベルトの未完成がカップリングされたLPで、レコード・ショップではなく、本屋で買った。
発行者がたしか河出書房社。
それから、チャイコフスキーの「悲愴」、ドボルザーク(ドボルジャーク)「新世界」。
モーツァルトの40番41番も、むろんそのころ買った。1960年代の終わりころで、ベルリンフィル+カラヤンのブームが、わが国に到来していたのだ。
これらのシンフォニーは、あまりに何回も、レコードがすり切れるほど聴いたため、
その後、まったく不感症になってしまったほど。
クラシック音楽熱は、30代半ばに、オーディオを買ってからまた再発(笑)。そのころは、CD時代が到来していて、60枚くらい集めたところであきてしまい、だんだん聴かなくなっていった。
いま調べたら、武満さんは、1996年に亡くなっている。この国内でよりも、海外で評価の高い作曲家は、ほとんど聴いたことがなかった。
このあいだ、図書館から借りてきて、CDを一枚聴いてみたが・・・どうもまだピンとこないものがある。
小沢さんも、日本でというより、海外で、その本来の力量が認知された指揮者。
お二人とも、日本占領下の中国で生まれ、育ったところがよく似ている。本書は対談集だが、幾度となくそのころの話に言及され、幼年期の記憶がいかに決定的だったか、想像にあまるものがある。
小沢さんのCDは、4、5枚もっている。
2002年のウィーン、ニューイヤー・コンサートのCDや、プロコフィエフの5番シンフォニーなど。その中国で開催したボストン響の演奏がいかに感動的だったかを、小沢さんは、熱っぽく語っている。中国人が奏でるモーツァルトやベートーヴェンのおもしろさ、愉しさ。
武満さんは、美術評論家で、シュールレアリスムの詩人として知られる滝口修造さんのお弟子さん。このお二人が、のべ10時間以上にわたって対談しているのだから、むろん、おもしろくないわけがない。武満さんは、想像以上に、理知的に周到で、音楽に対し、意識的な作曲家であることが、よくわかる。
小沢さんが、師匠で指揮者の斎藤秀雄をはじめ、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインを語るあたりも読みどころ。
「ジャーナリズム全体がきっと悪い。考えたり感じたりする余地をあたえないのね、時間をね」(小沢)「ニューヨークはアメリカじゃない」(小沢)「音楽する興奮」(小沢)「狭い日本を離れると作曲ができなくなっちゃう」(武満)「もう時間がないんだよ」(武満)
こういった発言の一つひとつが、値千金の重みをもっているし、いまだ少しも古びてはいない。
クラシック音楽界における世界の頂点にのぼりつめて数年、小沢さんが食道ガンにかかっているのがわかったのは、まだ最近のことだ。
本書が文庫化されたのは、昭和59年。もう26年が経過している。
昭和の日本が生んだ、世界的なこの二人の天才について、わたしも遅ればせながら、本書によって、理解を深めることができた。小沢さんのナマのコンサートにふれるチャンスは、もうないのかも知れないが・・・。
評価:★★★★