二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

永遠の夫   ドストエフスキー

2010年01月06日 | ドストエフスキー
若いころにたしか米川正夫さんの訳「永遠の良人」として読んだ気がする。
現行の新潮文庫で311ページ。
大作の多いこの文豪の作品としては、中編に属するといえる。ほかに「貧しき人びと」「分身」「賭博者」などがこの分量になる。もっとも、わが日本では、この程度でも長編あつかいされるだろう。いま大雑把に計算したら、400字づめ換算で470枚もある。

ドストエフスキーが描く「ダメ男」の系譜につながるトルソーツキーが主役で、この男のいささかマゾヒスティックな深層心理をえぐり出すことに主眼がおかれている。気が弱く、優柔不断で、これといったとりえのない小役人タイプ。妻の意のままになり、その妻に満足してもらうことにだけ汲々として、他の欲望も能力も欠落しているこのようなタイプの男が、ドストエフスキーは好きなのである。
そこに人間の「一典型」を見ているからだろう。つまり万年亭主、・・・カッコつけていえば、「永遠の夫」ということになる。

しかしこれは、じつによくつくられた秀作である。
喪章をつけた帽子の男は、じつに印象的にこの物語に、徐々に全貌をあらわしていく。だれの指摘であったか(おそらく小島信夫さんあたり)、この冒頭数章を、漱石の「道草」に比した評者がいたが、わたしは、漱石が「永遠の夫」を読んでいた可能性も、まったくは否定できないだろうと思う。
奔馬のような女房をもってしまった、駄犬亭主。彼は妻に浮気されまくり、妻が死んだ後になって、その遺品のなかにあった遠い過去の手紙から、その淫乱妻の浮気の真相を知り、自分が手塩にかけて育ててきた娘すら、他人の子だという事実に直面する。
決闘を申し込むべきか、復讐の刃をふるうべきか、それとも、訴訟にでも・・・。トルソーツキーは煩悶し、酒浸りとなったり、巷をうろついたり、娘の実の父親、つまりこの物語の語り手、ヴェリチャーニノフの仮住まいへ深夜訪れたりする。

それでも、一段落するとまた、女の尻を、性懲りもなく追いかけまわす。
「おれは、女なしでは生きていけないのだ」と、トルソーツキーにはわかっている。年頃の令嬢が何人もいるある貴族の邸宅で、かくれんぼや鬼ごっこをして令嬢たちと遊ぶのだが、そこでもからかわれたり、無視されたりと、さんざん愚弄されるが、それでも懲りない男。いまでこそ、こういった「ダメ男」キャラはめずらしくはないが、この時代、こういう人物が主人公たりうるのを発見したのはかのゴーゴリであった。
うがった見方をすれば、おそらくこれは、もう一つのドストエフスキーの肖像画なのである。
若いころ、自惚れ屋だった作者は、仲間や社交界の女性たちから、トルソーツキーのような目にあわされている。
伝記などを参照すると、本書はあの「白痴」と「悪霊」のあいだに、短時間で書き上げられたようである。途方もない酒飲みで、賭博狂で、女好きだったドストエフスキーの「世話物」(小市民的)的な一面が、こういう作品にのぞき見える。

「女がいなくても生きていけるなら、天下太平なのにね」
こんど横町でトルソーツキーさんを見かけたら、そう声をかけてやろう。


評価:★★★★★

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