本書はうっかりすると、有害図書に指定されかねない、危険なにおいに満ちた暗黒劇。
天外家の当主天外作右衛門(てんげさくえもん)は貪欲、不遜、放蕩、淫乱、冷酷非情で、まるで悪の権化のような人物だが、手塚さんは、この男を、じつに緻密に描いている。物語の中心人物はこの作右衛門と、その次男天外仁朗(てんげじろう)の二人。
連載されたのは、1972年1月から1973年6月まで、小学館の「ビッグコミック」だそうである。虫プロが経営難に陥り、身をひくことになって、1億数千万の負債を負った時期に、ほぼ重なるので、このあたりから主として青年向きの「中期作品群」が登場してくることになるようである。成人向けのマンガと、少年向けのマンガを、彼は明らかに描きわけていた。
背景は封建的な遺制が色濃く残る青森の片田舎と、60年代末期、あるいは70年代初頭の東京。その二つの土地をいったりきたりしながら、物語はすすんでいく。天外仁朗は米占領軍に近づき、下山総裁の轢死事件に深く手を染めることになって、これが真の主人公、仁朗の運命を左右する。
殺人、監禁、レイプ、近親相関、裏社会の暴力、熾烈な権力闘争。手塚治虫は、過激なまでに「書きたいシーン」を書いてしまっている。
手塚さんは、天外一族を核に据えるにあたって、「カラマーゾフの兄弟」からヒントを得ていると、どこかに書いている。たしかに作右衛門はカラマーゾフの父フョードルに、仁朗は次男イワンに似ていないこともない。
そのほか、松本清張が「日本の黒い霧」で暴いた戦後政治の暗黒部分にも、肉薄しているところがすごい! マンガ(劇画)でここまで書けるのかと、わたしは正直いって「目からうろこ」であった。
一人の人間の中に、天使と悪魔が住んでいるというのは、手塚さんがくり返ししつこくこだわったテーマだが、それがここまで壮大な規模で展開されているとは/_・)/_・)
貧困や差別といった社会問題にも、容赦なくメスをふるっている。いまなら読者からクレームがわんさかやってくるだろうが、70年代のこの時代は、きっと、いまよりは自由にものがいえ、表現できた時代であったのだ。
あるインタビューの中で、「ヒューマニズムなんてのは、砂糖みたいなもんだ」と発言している。「奇子」を書いた手塚さんの発言だけに、わたしには看過できないものがあったので、8月28日のblog&日記で、そこに少しふれておいた。
ヒューマニズムというのは、よくも悪くも、18世紀に誕生した啓蒙主義の落とし子であることを、漫画家としての手塚さんは、よく知っている。「奇子」は、そういうお人よしの戯言(たわごと)めいたヒューマニズムを踏み抜いてしまった人の手によって、書かれた秀作である。
次男天外仁朗が戦争からの復員者として設定されていることは注意していいだろう。彼の胸に黒々とした影を落としている絶望は、戦争による傷である。
「奇子」という色情狂と紙一重の永遠の童女は、この仁朗が作りだした幻像である・・・というふうにも読める。(いや作りだしたのは、仁朗ではなく、手塚治虫その人だけれど・・・。)
義父である作右衛門が息子の嫁を犯して産ませた奇子(あやこ)は、22年にわたって地下牢に監禁される。この設定はじつに秀逸。この設定によって、本書が他に類を見ない物語になったのだと、わたしは考える。
マンガといってもいろいろなジャンルがある。ギャグ漫画、四コマ漫画、少女漫画etc. 笑いやナンセンス、風刺はマンガの重要な武器だが、つげ義春と出会い、手塚治虫と再会するにおよんで、わたしのマンガに対する偏見が拭いさられ、認識が変わった、
手塚さんがここで意識しているのは、松本清張や水上勉によって生み出された「社会派推理」といわれる小説群かもしれない。人間のありように向けらたまなざしは、深刻で暗く、読者の胸にのしかかってくるようだ。
奇子は狂言回し役だけれど、たった一つの安全弁というか、ガス抜きの穴のようなものである。彼女がいなければ、本書はまったく救いのない、暗黒劇になってしまうだろう。
冷酷非情な世界に差し込んだ一条の光を、作者は見事な彫像に仕上げている。
ところで「奇子」は未完の作品で、手塚さんには、続編第二部を書きたいという意向があったようである。それを読みたかったと思わぬでもないが、これはこれで十分完結している。1970年代前半に書かれたとはおもわれない新鮮さに満ちているところに感心せざるをえない。
短編集「時計仕掛けのりんご」などを読むと、彼はまさしく天才であったと考えざるをえない。公序良俗に配慮し・・・と発言しながら、読みながらぞくぞくするような恐ろしい爆弾を仕掛けている。「放送禁止用語」だとか、差別語狩りが大手をふってまかり通っているこの時代のほうが、むしろ表現者は不自由を味わっているといえるだろう。
さて、つぎはどれを読もうか?
とりあえず「きりひと讃歌」をスタンバイさせてはあるが・・・。
※評価:☆☆☆☆☆
天外家の当主天外作右衛門(てんげさくえもん)は貪欲、不遜、放蕩、淫乱、冷酷非情で、まるで悪の権化のような人物だが、手塚さんは、この男を、じつに緻密に描いている。物語の中心人物はこの作右衛門と、その次男天外仁朗(てんげじろう)の二人。
連載されたのは、1972年1月から1973年6月まで、小学館の「ビッグコミック」だそうである。虫プロが経営難に陥り、身をひくことになって、1億数千万の負債を負った時期に、ほぼ重なるので、このあたりから主として青年向きの「中期作品群」が登場してくることになるようである。成人向けのマンガと、少年向けのマンガを、彼は明らかに描きわけていた。
背景は封建的な遺制が色濃く残る青森の片田舎と、60年代末期、あるいは70年代初頭の東京。その二つの土地をいったりきたりしながら、物語はすすんでいく。天外仁朗は米占領軍に近づき、下山総裁の轢死事件に深く手を染めることになって、これが真の主人公、仁朗の運命を左右する。
殺人、監禁、レイプ、近親相関、裏社会の暴力、熾烈な権力闘争。手塚治虫は、過激なまでに「書きたいシーン」を書いてしまっている。
手塚さんは、天外一族を核に据えるにあたって、「カラマーゾフの兄弟」からヒントを得ていると、どこかに書いている。たしかに作右衛門はカラマーゾフの父フョードルに、仁朗は次男イワンに似ていないこともない。
そのほか、松本清張が「日本の黒い霧」で暴いた戦後政治の暗黒部分にも、肉薄しているところがすごい! マンガ(劇画)でここまで書けるのかと、わたしは正直いって「目からうろこ」であった。
一人の人間の中に、天使と悪魔が住んでいるというのは、手塚さんがくり返ししつこくこだわったテーマだが、それがここまで壮大な規模で展開されているとは/_・)/_・)
貧困や差別といった社会問題にも、容赦なくメスをふるっている。いまなら読者からクレームがわんさかやってくるだろうが、70年代のこの時代は、きっと、いまよりは自由にものがいえ、表現できた時代であったのだ。
あるインタビューの中で、「ヒューマニズムなんてのは、砂糖みたいなもんだ」と発言している。「奇子」を書いた手塚さんの発言だけに、わたしには看過できないものがあったので、8月28日のblog&日記で、そこに少しふれておいた。
ヒューマニズムというのは、よくも悪くも、18世紀に誕生した啓蒙主義の落とし子であることを、漫画家としての手塚さんは、よく知っている。「奇子」は、そういうお人よしの戯言(たわごと)めいたヒューマニズムを踏み抜いてしまった人の手によって、書かれた秀作である。
次男天外仁朗が戦争からの復員者として設定されていることは注意していいだろう。彼の胸に黒々とした影を落としている絶望は、戦争による傷である。
「奇子」という色情狂と紙一重の永遠の童女は、この仁朗が作りだした幻像である・・・というふうにも読める。(いや作りだしたのは、仁朗ではなく、手塚治虫その人だけれど・・・。)
義父である作右衛門が息子の嫁を犯して産ませた奇子(あやこ)は、22年にわたって地下牢に監禁される。この設定はじつに秀逸。この設定によって、本書が他に類を見ない物語になったのだと、わたしは考える。
マンガといってもいろいろなジャンルがある。ギャグ漫画、四コマ漫画、少女漫画etc. 笑いやナンセンス、風刺はマンガの重要な武器だが、つげ義春と出会い、手塚治虫と再会するにおよんで、わたしのマンガに対する偏見が拭いさられ、認識が変わった、
手塚さんがここで意識しているのは、松本清張や水上勉によって生み出された「社会派推理」といわれる小説群かもしれない。人間のありように向けらたまなざしは、深刻で暗く、読者の胸にのしかかってくるようだ。
奇子は狂言回し役だけれど、たった一つの安全弁というか、ガス抜きの穴のようなものである。彼女がいなければ、本書はまったく救いのない、暗黒劇になってしまうだろう。
冷酷非情な世界に差し込んだ一条の光を、作者は見事な彫像に仕上げている。
ところで「奇子」は未完の作品で、手塚さんには、続編第二部を書きたいという意向があったようである。それを読みたかったと思わぬでもないが、これはこれで十分完結している。1970年代前半に書かれたとはおもわれない新鮮さに満ちているところに感心せざるをえない。
短編集「時計仕掛けのりんご」などを読むと、彼はまさしく天才であったと考えざるをえない。公序良俗に配慮し・・・と発言しながら、読みながらぞくぞくするような恐ろしい爆弾を仕掛けている。「放送禁止用語」だとか、差別語狩りが大手をふってまかり通っているこの時代のほうが、むしろ表現者は不自由を味わっているといえるだろう。
さて、つぎはどれを読もうか?
とりあえず「きりひと讃歌」をスタンバイさせてはあるが・・・。
※評価:☆☆☆☆☆