ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

絶滅危惧種について書きながら、ドラマ「フリンジ」を思い出す

2016-10-11 13:30:47 | 映画




前回は絶滅危惧種について書きました。
ブランブル・ケイ・メロミスがあまりにかわいかったので、こんなに小さくて無害な動物がなぜ絶滅しなくてはいけなかったんだろうかと思って。

でも、大体において、小さくて無害なものほど早死にするようですね。

早死にするといえば、「フリンジ」ですが
(無理やりかい?と思うかもしれませんが、私の中ではそうでもない)
現在、シーズン4を鑑賞中です。

体調が悪いときは、あまりにグロテスクな映像が多くて見れなかったのですが、最近ようやく回復してきて(膀胱炎がようやく回復の兆しを見せてきました。これについてはまた改めて書きます)
体調が回復すると、これがものすごく面白いドラマだということがわかり、すっかりハマっています。

シーズン2くらいまでは、へえ、そうなんだあ・・くらいだったのですが、
シーズン3に入り、え、そうなるの? となり、
またこの辺りから「愛」に関する描写も増えてきて、
(ピーターとウォルターの親子愛、そしてオリビアとピーターの恋愛も絡んできて)
なるほど、毎回起きる事件というのは、物語の核心についての隠喩なのねとよくわかる作りになっています。

幾つか例をあげようかとも思いましたが、
(たとえば、監視人の一人オーガストが一人の女性に恋をして、彼女の運命を変えてしまう話とか、真菌と手を組んだ孤独な少年の話とか、愛する妻がアルツハイマーになったので時間を戻そうとする男の話とか・・)
興味ある人は実際に見ていただいたほうがいいと思います。
でも、シーズン2までは、少し我慢して見ることをお勧めします。

それにしても、マッドサイエンティストの想像力というのはすさまじく、これがフィクションであるのがせめてもの慰めといいたいところですが、
人間の想像力というのは、えてして実現されることが多く、
かつてSF作品に登場したもので、現在実用化、あるいは現実化されているものは多々あります。

想像し、創造するのですね。人間は。
従って、このドラマに登場するあらゆる想像的産物は、いずれ創造され、現実世界に登場してくるのかもしれません。

パラレルワールドも、実際あるのではないかと量子論の世界では言われているようです。
でも、なぜに、「フリンジ」ではパラレルワールドの双方が戦わねばならないのか?
パラレルな世界が見つかり (同じに見えるけれど少しだけ違う。同じ人たちが住んでいて同じ職業についているけど、少しだけ違う。NYのWTCがまだあるとか)、
二つの世界に亀裂が生じたとき、それを侵略だと決めつけ、防衛のために攻撃するのは当然という結論にいきなり達するのはなぜなのか。

ここいら辺が、言ってみれば、インド・ヨーロッパ語族の人たち(と一括りにしていいかどうか迷うところですが)の発想なのかもしれないと、ちょっと思うのですね。

「味方でないなら敵だ」とアナキンが言うと、
「シスらしい決めつけだ」とオビワンは言いますが
(突然「スターウォーズ」に飛びますが)
このシスらしい決めつけ、というのは、フリンジの登場人物たちにも共通する部分があるようです。

白か黒か。ゼロか100か。
陰陽というたとえも時々見られますが、
陰陽は真っ二つに分かれるのではなく、微妙に絡み合っているのですね。
微妙に絡み合うのがアジア式なのかもしれません。
(日本式だと中間にも色がある気がする)

彼らは彼らなりに苦悩し模索します。
でも、結論を出すと早い。迷わずその方向に向かいます。
ロジカルなので、修正はききません。

最近は、他のドラマも、この観点から見るようになりました。
たしかに彼らの発想は私とは少し違います。
どちらがいいということではなく、違うのですね (言語の違いから生じるものも大きい)。

日本式には日本式の問題が山ほどあり、
たとえば、原発がいまだに収束しないのにオリンピックで浮かれているとか、築地市場の豊洲移転問題があれほど大きくなるとか・・
どっちがいいとは決して言えないのですが、
味方じゃないなら敵だ、
という発想はちょっと怖い。

小さくて無害な生き物だけど、
有益じゃないなら無益だ・・
(とここで冒頭につながりますね)
という発想になるのではないか、という危惧を抱く、というわけです。

あ、この表現もいかにも日本的ですね。
○○ではないか、という○○を○○する・・という、わけです。
まわりくどい。

でも、このまわりくどさは、言ってみれば、思考回路をへめぐって逡巡している感が色濃くあって、全然ロジカルじゃないけど、
結論を急がなくてもすむ場合には、かえって思考を深めるのでいいのではないかと、
日本式に考えたりもしているわけですね。

でも、このまわりくどさは致命的でもあります。
まわりくどく逡巡している間に、白か黒か、ゼロか100かの人たちは、
さっさと「味方でないなら敵だ」と決めつけて、たちまち攻撃してくるでしょうから。

世界の中で日本式は通用しなくなっているようです。
本当は日本式を採用して、まわりくどくいつまでも議論を続けていたほうが、
戦争を回避するにはいいのかもしれません。

でも、問題解決を先伸ばしにして、だらだらと決められないままに少しずつ悪い方向に向かって行き、突然暴走し始める・・
という悪癖が日本にはあり、それが他の国の人々にはとてもわかりにくく不気味に見える、という現実もあるようです。

さて、どっちがいいんでしょうか。

・・というようなことを、アメリカのドラマを見て感じる今日この頃です。


(字の色がなぜか変わってしまい、修正できません。読みにくくて申し訳ありません)

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