ついに観てきました。
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
いやあ、面白かった。
煉獄杏寿郎、人気なのがよくわかりました。見事なヒーローっぷりです。
ところで、作者の吾峠呼世晴は女性だそうですね。
基本的に少女漫画なのではないか、とアニメを見ていて思ったのだけどやっぱりね。
鬼というのはいろんなものの象徴ですが、日本では古来共同体の外から来るものを鬼と呼びならわした歴史があるようです。
「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在であるという。(略)まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者、山に棲む異界の住人(あるいは)鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がる・・(Wikipedia)」
鬼滅の刃の鬼たちも、実は共同体から外れたものたち、あるいは他者との折り合いが悪く鬼になった者たちであることが、死の直前に語られます。
鬼たちの最期は日本的な情念がたっぷり盛り込まれていてけっこうズシリときます。
ド派手なアクションシーン、血がドバドバ流れ、鬼たちの姿形も実に異様で子どもにはトラウマ級のアニメですが、不思議と観たあとに残る感じが悪くない。一種のカタルシスのようなものを感じるのは、やはり作品の力でしょう。
若い人たち向けのストーリーですが、ここから若者たちは様々なことを拾い上げ、自分の中の鬼と対峙することでしょう。
今回のヒーロー煉獄杏寿郎の母親が亡くなる前に彼にいいます。
「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。」
ヒロイズムだなあ。
もちろんそれも否めませんが、本来人というのはすべて平等で同じ力を持っている、というのがヨガの考え方です。
誰かを助けようとすると、助けられたい人が寄ってくる。そこには力の不平等が生まれエネルギーの下降が生じる。これはスピ系でもよく言われていることです。
本来人は誰もが自分を救う力をもっている。人と対するときはあくまでも対等の立場で接しないといけない。
それでもヒーローの物語は私たちを揺さぶります。
なぜなら、ヒーローは私たち自身の中にいるからです。自分の中にないものに人は感動しません。ヒーローは私たちの中にいる私たち自身なのですね。
それはともかく、今回の映画で非常に興味深かったのは、魘夢(えんむ)という鬼が乗客たちに見せる夢の世界です。
炭治郎や煉獄杏寿郎でさえ、この罠にかかり深く眠ってしまいます。
夢の世界というのは、私たちの無意識の領域で、映画の中ではこの無意識の領域にある核を破壊すれば本人も破壊される、という設定です。
魘夢に操られた乗客が鬼滅隊の無意識領域に入り込み、この核を破壊しようとするシーンがあります。
無意識領域は人によってさまざまで、炭治郎の場合は澄んだ水平線と青空、そこに浮かぶ雲という、まるでウユニ湖みたいな景色で描かれます。他の人たちは真っ暗闇だったりいろいろ。
その無意識領域の中にキラキラ光る玉が浮かんでいてそれが核である、という設定。
また炭治郎が、自分がいるのは夢なのか現実なのかわからなくなり、自分に刃を当てるシーンなど、実に興味深いと思いました。
この無意識領域、夢の世界という設定が面白かったなあ。
なぜなら、この設定こそが私たちの無意識に働きかける仕組みになっているからです。だからこそ、これほどヒットしているんじゃないか、と思います。
そして、この無意識領域こそ、次に語るNLPで扱う領域なのです。
ああ、最近、無駄のない動きをしているなあ、と感じます。
こういう流れが来たら、流れに逆らわずに乗っかっていくのがいいようです。