ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

ゴジラ・・再び

2019-06-12 11:07:49 | 映画

 

前回「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」について書きましたが、
その後、再度日本版ゴジラを幾つか見て、また映画評論家の町山智浩氏と切通理作氏の対談(ゴジラ論というより、本多猪四郎論)をYou Tubeで見たりして、私自身のゴジラ観も少し変化してきましたので、それを改めて書いてみたいと思います。

切通理作著「無冠の巨匠本多猪四郎」という本を巡っての対談は以下。
 https://www.youtube.com/watch?v=fl9yZP-SBg0

町山氏と切通氏の対談で一番興味深かったのは、町山氏の「ゴジラ愛」と博覧強記ぶり、そして優れた洞察力でした。何しろ全体で2時間半にも及ぶ対談の大半を彼一人でしゃべりまくるのです。

切通氏もたまに発言しますが、大方はただじっと静かに座って町山氏の論に耳を傾け、時おり相槌を打ち、あるいは「えっと、そこは・・」と訂正やら反論やら突っ込みを入れ、そしてまた町山氏が延々としゃべり続けるというトークショーです。

これはもう映画より面白いので、興味ある方はぜひ見ていただきたいのですが、そこで町山氏の言う「本多猪四郎論」の肝は、本多監督作品の「ゴジラ」は基本的にすべてラブストーリーである!というものでした。

ラブストーリー? 

町山氏が言うには、本多猪四郎監督作品(「ゴジラ」以外にもたくさんある)には基本的なパターンがある。それは、

 ゴジラ ― 科学者 ― 一般社会 

という三者の対立構造だというのです。

最初の「ゴジラ」(1954年)では、山根博士、芹沢博士という科学者、そして一般社会の代表として、尾形、恵美子(山根博士の娘)が登場します。

芹沢博士は顔に戦争による傷跡があり、研究者として引きこもり状態。彼の研究は社会に認められないという鬱積を抱えています。
芹沢博士は恵美子と婚約するも尾形に恵美子を取られてしまう。そこで、ゴジラを倒すことで自ら死を選ぶ、というのがメインのストーリーです。

この際に芹沢博士が使ったオキシジェンデストロイヤーという兵器は、ハリウッド版の「ゴジラ キングオブモンスターズ」にも登場します。芹沢と言う名前の博士も。

つまり、町山氏が言うには、芹沢博士自身がゴジラであるのだと。そして、本多猪四郎監督作には必ずゴジラがいろんな形で登場する、というのです。

「ガス人間第一号」ではガス人間がゴジラ、「フランケンシュタインVS地底怪獣」ではフランケンシュタインがゴジラ・・というように。

本多猪四郎監督作品はすべて基本このパターンで出来ている。本多監督のゴジラ映画はラブストーリー、悲劇に終わるラブストーリー。一般社会に受け入れてもらえない者の悲しみ、そしてその破壊衝動を描いているというのです。

本多猪四郎自身、8年半も戦争に行っていて、生き延びて帰国してみれば彼の居場所はない。つまり、本多自身がゴジラであるのだ、と言うわけです。

怪獣映画に拍手喝采するのは、どちらかというとこの芹沢博士のように、社会に居場所がない、受け入れてもらえないと感じている人たち。

この社会を守ることが市民の役目だ!と純粋に信じて疑わない人たち(ゴジラ、けしからん! と思っている人たち)は怪獣映画を見ないだろう、とも言っています。

なるほど。鋭い分析です。

でもね、この対談を見ていると、町山智浩氏自身が最もゴジラ的な人物なのではないか、と思えてきます。
彼の映画評論はいつも興味深いのですが、中でもこのゴジラ論はすごい。

博覧強記ぶりもさることながら、その熱の入り方は尋常じゃない。

だって、彼自身が「ゴジラ」なのだから。

でも、ゴジラ映画はたくさんあって、本多猪四郎監督作品の後、別の監督が引き継ぎます。それらもけっこう面白い。

私のお気に入りは「ゴジラVSビオランテ」です。
大森一樹監督作品で本多作品ではありません。
町山氏は平成ゴジラシリーズはつまらないと言っていますが、私はそうでもないと思っています。

なお、ゴジラに登場する人物たちに特徴的なのは、父と娘というパターンですね。

つまり、父親というのは、ゴジラなのですね。

(母親は魔女、そして父親はゴジラ!)

ゴジラについてはこの後も時々書いていきたいと思っています。

なお、町山智浩氏と切通理作氏の次なる対談「ジブリ論」も非常に興味深いのでよかったらぜひ見てみてくださいまし。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする