雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

たわわなる枇杷のみのれど

2007-06-03 12:46:46 | 日々写す



             たわわなる枇杷のみのれど誰ぞ見むわれ懐かしく独り仰ぎぬ



 

                                          戸山公園箱根山地区にて





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24 コメント

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私も (Fou)
2007-06-05 00:12:36
いつも懐かしく仰ぎ見ます。
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原風景の (髭彦)
2007-06-06 01:41:52
一つですね。
祖母の記憶と関わる。
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いい歌です (asitano_kaze)
2007-06-22 23:13:04
この歌いいです。そして枇杷の絵も。
うん、まさに自分の心に宿っている想いを写し撮られたような気がしました。
私も兄といっしょに子どもの頃たくさん食べました。
その兄が先月急逝しました。亡くなる数日前兄が食べた枇杷をいくつか載せました。
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そうですか (髭彦)
2007-06-22 23:45:45
ぼくの兄は11年前にやはり急逝しました。
枇杷の実を見ると兄を想います。
asitano_kazeさんのお兄様のご冥福をお祈りします。
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庭の枇杷をめぐって (Fou)
2007-06-23 10:03:38
枇杷の木をめぐり、幸福な時の記憶とかなしみが二人に共通しているようですね。
asitano kazeさんの写真を拝見してきました。写真も偶然同じようですね。
私には二人の弟と母、時には枇杷の季節に死んだ祖母がまとめて出てきます。
あの枇杷はおいしかったわね。
手が届く範囲で実を間引きすると大きな実に育ちましたね。
毎年私の家の冷蔵庫は母がよこした枇杷でいっぱいになりました。
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桃栗三年… (髭彦)
2007-06-23 22:08:19
たしか、祖母はこう教えてくれました。
<桃栗三年、柿八年、枇杷のうら生り(大バカ?)十三年>。
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私には (Fou)
2007-06-24 00:04:59
桃栗三年、柿八年、胡桃のバカヤロ十八年、と。
夜ノ森の私たちの家に父のたっての願いで柿の木を植えたときでした。
8年も待たずに実が成るようにするには豆柿の古株に欲しい種類の柿を接木する、ということを教えられて(このこと前にここで話したような)豆柿を譲ってくれる農家に母のお供で皆で行きましたね。翌年には東京に出てきたので、あの柿がどうなったかはおぼえがありませんが。

子豚も、子羊も遠いところへ母と一緒に行って譲ってもらって来ましたね。母はそのたびに大きな背負いかごを背負って行きましたね。あなたは豆粒みたいに小さかったけど一緒に歩いて行ったようよ。
山羊は綱で引いてきたから既に乳が出る大人だったのでしょう。気の強い山羊でしたね。
アヒルたちはどうやってうちに来たのかしら?
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実際には (髭彦)
2007-06-24 01:07:05
枇杷は10年もしないうちに大木となって実をつけ始めたように、記憶しています。
祖母がなくなったのが1959年。
ぼくたちが東京のあの家に引っ越してきたのが1950年です。

あの豆柿は覚えています。
接木したことも。
子豚が途中で逃げ出して大変だったという話は覚えていますが、自分がいっしょに行ったとは思っていませんでした。
あのメス山羊は、角もないくせにぼくらを頭突きしてなかなか乳を搾らせませんでしたね。
アヒルたちがどうやってきたかもそうですが、近くの小川に水浴びさせにぼくら子どもだけでどうやって連れて行き、帰ってきたのでしょうね。
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子豚は (Fou)
2007-06-24 10:18:21
小学校の近くの大きな農家に夜行ってもらって来た、のだったかしら。あなたは家で待っていた? 私と小さき兄がついて行ったのかも。途中の田んぼが右手に広がる高い道のあたりで逃げられたのだと思います。あの道は阿武隈おろしが吹きすさぶ冬の登下校時は吹き飛ばされないように皆で手をつないで通れ、と父がいつも心配してましたね。同じ小学校に通った母は吹き飛ばされて田んぼに墜ちたと。「着物を着ていたし、その頃はパンツなどはいていなかったから、風にあおられてお尻丸出しで墜っこったの。男の子達もいたから恥ずかしかった。」とよく話してました。

アヒルは7,8羽(?)をキッコちゃんを含めて4人で横一列で追って行きました。アヒルと子供たちの2列横隊。川から上げる時にどうしたのか思い出せません。
私の同級生の悪ガキたちのからかいの種でしたね。手伝ってくれるのではなく、からかうためにわざわざ見にきたみたい。日曜日の仕事だった。
アヒルを水浴びさせたあのあたりは今は暗渠になっているのかな? 広い交差点になって、私の記憶には橋は無いようだけど。桜の開花を知る「標準木」というのが右手にあることを先年『暮らしの手帖』の紹介で知りましたが。
小川を少しさかのぼると金物屋の金次郎さんの裏庭に七面鳥が数羽鳥小屋にいましたね。首から頭まで、色を変えて私たちを威嚇する、面白くて、時々見に行きましたね。
その手前の川の反対側、農荘の孟宗竹藪の外側に馬車屋(いつも馬が蹄鉄を打ちつけられていた)、表通りの金次郎さんの店の並びには鍛冶屋、仕事場の奥のフイゴが面白くて、よく見に行きました。子供たちが見物に行っても、邪魔だったろうに、追い出されたりしませんでした。
1945年8月15日、快晴、朝から猛暑、
あなたを負ぶった母と一緒に「12時に重大な放送があるので、うちに来てラジオを聴いてください。」と知らせて歩いた日の記憶は金次郎さん(銀?)の金物店の薄暗い店内と鍛冶屋の広いひんやりとした土間の仕事場です。
当時の夜の森ではラジオのある家はすくなかったのですね。うちの八畳間に大人の背中がぎっしり並んで、皆号泣している光景がそれに続く記憶です。天皇の声も耳に残っています。聴きなれない声と話し方だと。
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あの子豚は (髭彦)
2007-06-24 12:20:48
メスで仔を増やすつもりだったのに、結局こじれて仔を生まず、つぶして食べてしまった…。
ぼくが豚肉を食べたのはあれが初めてだったのかも。

アヒルを小川で遊ばせて川から上げるなんてことが、どうしてできたんでしょうね。
あの小川はたしかに見えなくなっています。
暗渠にされてしまったのか。

<キンジロ>さん、七面鳥、フイゴ。
記憶の底に眠ってました。

8月15日の記憶はさすがにありません。
ぼくはまだ1歳半だったので。
みんな号泣したんですか。

ああ、でもその日の夜から居間の電灯にかけていた覆いを外して喜んだ記憶がありますね。
本当に覚えているのかなあ。
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