半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山(鶴見和子)
今から10年前、1995年12月24日に社会学者の鶴見和子さんは脳出血で倒れました。
不思議なことにその夜から、50年間歌うことのなかった鶴見さんの裡から歌がほとばしり始めたのです。
鶴見さんはこう書いています。
もしわたしが脳出血で倒れ、その後遺症として左片麻痺という半死半生の身にならなかったら、歌の復活はありえなかっただろう。『回生』以後歌は絶えることなく湧き上ってくる。今のわたしにとって歌はわがいのちである。 (『鶴見和子曼荼羅Ⅷ 歌の巻』藤原書店、1997年)
鶴見さんが倒れられる数年前に、ぼくが関係したある高校の教科書に鶴見さんにも執筆をお願いしました。執筆者全員の会議に鶴見さんは一度だけ出席されたのです。
和服を端正かつ粋に着こなされた、美しい白髪の知的な姿と気取らぬやさしいしゃべり方などが強く印象に残りました。
それ以前から鶴見さんの読者であったぼくは、そのことがあってなおさら鶴見さんが脳出血で倒れられたことにショックを受けました。
その鶴見さんが突然歌を歌い始められたと新聞で知りました。しばらくの後、偶々立ち寄った古書店の書棚に『鶴見和子曼荼羅Ⅷ 歌の巻』があるのを見てすぐに買いました。
しかし、そのときのぼくには歌の世界は遠いものでした。買ってはみたものの、そのうち読もうといつのまにか本棚の片隅に入れたままになってしまったのです。
今年の1月、ぼくは論文的な文章が突然まるで書けなくなりました。引き金になる小さな事件が、心の奥深くでぼくを打ちのめしていたのです。
不思議なことに、それまで一度も歌を歌ったことなどなかったぼくの裡から歌がほとばしり出てきたのはそれからでした。
そこで初めて鶴見さんの歌集を思い出したのです。なんと近い世界だったのでしょう。
鶴見さんはご自分を死火山だったと表現されていますが、実際には休火山だったわけです。それに対して、ぼくは文字通りの死火山でした。
鶴見さんと自分を比較することなどはおこがましいかぎりですが、ぼくも最初の思いもかけない噴火の「以後歌は絶えることなく湧き上ってくる。今のわたしにとって歌はわがいのちである」という点で、鶴見さんとまったく同じ状況にあります。
ぼくに論文的な文章が書ける日が戻ってくるかどうかはわかりません。今はわがいのちとなった歌を大事にしながら、その復活・再生の日を待ちたいと思っています。
今から10年前、1995年12月24日に社会学者の鶴見和子さんは脳出血で倒れました。
不思議なことにその夜から、50年間歌うことのなかった鶴見さんの裡から歌がほとばしり始めたのです。
鶴見さんはこう書いています。
もしわたしが脳出血で倒れ、その後遺症として左片麻痺という半死半生の身にならなかったら、歌の復活はありえなかっただろう。『回生』以後歌は絶えることなく湧き上ってくる。今のわたしにとって歌はわがいのちである。 (『鶴見和子曼荼羅Ⅷ 歌の巻』藤原書店、1997年)
鶴見さんが倒れられる数年前に、ぼくが関係したある高校の教科書に鶴見さんにも執筆をお願いしました。執筆者全員の会議に鶴見さんは一度だけ出席されたのです。
和服を端正かつ粋に着こなされた、美しい白髪の知的な姿と気取らぬやさしいしゃべり方などが強く印象に残りました。
それ以前から鶴見さんの読者であったぼくは、そのことがあってなおさら鶴見さんが脳出血で倒れられたことにショックを受けました。
その鶴見さんが突然歌を歌い始められたと新聞で知りました。しばらくの後、偶々立ち寄った古書店の書棚に『鶴見和子曼荼羅Ⅷ 歌の巻』があるのを見てすぐに買いました。
しかし、そのときのぼくには歌の世界は遠いものでした。買ってはみたものの、そのうち読もうといつのまにか本棚の片隅に入れたままになってしまったのです。
今年の1月、ぼくは論文的な文章が突然まるで書けなくなりました。引き金になる小さな事件が、心の奥深くでぼくを打ちのめしていたのです。
不思議なことに、それまで一度も歌を歌ったことなどなかったぼくの裡から歌がほとばしり出てきたのはそれからでした。
そこで初めて鶴見さんの歌集を思い出したのです。なんと近い世界だったのでしょう。
鶴見さんはご自分を死火山だったと表現されていますが、実際には休火山だったわけです。それに対して、ぼくは文字通りの死火山でした。
鶴見さんと自分を比較することなどはおこがましいかぎりですが、ぼくも最初の思いもかけない噴火の「以後歌は絶えることなく湧き上ってくる。今のわたしにとって歌はわがいのちである」という点で、鶴見さんとまったく同じ状況にあります。
ぼくに論文的な文章が書ける日が戻ってくるかどうかはわかりません。今はわがいのちとなった歌を大事にしながら、その復活・再生の日を待ちたいと思っています。
以前にお話ししたと思いますが、私にも経験があります。
次から次から、心から短歌があふれ出てきてそれはまるで尽きることのない泉のようなものでした。
死火山と比喩されたご自分の半生。
轟くようにその死火山が煙を吹く。
すばらしい短歌だと思いました。
私などとは比べようがないほどの、ご苦労を重ねられたことでしょう。
私の苦労とは雲泥の差かも知れませんが、同じように歌を命だとされる鶴見さま、そして謎髭さんに強い共感を覚えました。
とてもいい短歌とお話を紹介していただいて、ありがとうございました。
タイトルにも書きましたが、若輩者のくせに生意気なことを書かせて頂きます。怒らないで最後まで読んで下さいね。
>今年の1月、ぼくは論文的な文章が突然まるで書けなくなりました。引き金になる小さな事件が、心の奥深くでぼくを打ちのめしていたのです。
謎髭さんに何が起こったのかは判りません。どんな事件だったのかも想像もつきません。でも、僕は「論文的な文章」という言葉に、少し引っかかりがあります。
論文というのは、究極、自分の主張を書き連ね、言葉の力で相手を説き伏せようとする文章ではないでしょうか?(すっごく一面だけを強調した言い方で失礼なのですが)ただ、自分はこう思うという文章なら随筆とかでも十分でしょう?ネットに氾濫するウェブ日記でもよいわけですし。
要は理路整然とした文章で相手の同意を求める文章(ああ、こっちのほうが柔らかくて良い表現でしたね)ではありませんか?論文って。もちろん、事実に基づいた科学的な論文もありますが、謎髭さんの文章の雰囲気では、文科系の論文のような気がしますので。
もしそうなら、僕は謎髭さんのそんな文章より、今のような文章(随筆に近いような文章)、そして短歌のほうが好きになれると思います。第一、論文ならきっと知り合うことすらなかったような気がします。ここ重要ですよ。もう一度、書きます。
僕は、今の謎髭さんの文章、そして短歌のほうが好きになれると思います。いや、好きです。
僕は、論文的な文章を書くなとも、そういうものは要らないとも思ってはいません。そういうものがなければ困るのも事実だからです。でも、そこに拘っている必要はないのではないでしょうか?きっとまたお書きになれる日がくるでしょうし、そのために今の謎髭さんには、短歌が必要なのかもしれません。
ごめんなさい。生意気なこと書きました。
でも、もう一度、書きます。
僕は、今の謎髭さんの文章、そして短歌のほうが好きになれると思います。いや、好きです。
鶴見さんの歌については歌の世界よりも別のところでのほうが知られているのでしょうね。
とくにぼくの発見なんていうことでは全くありません。
鶴見さんは16歳で佐々木信綱門下に入り、1939年に『虹』という第一歌集を出されていますが、それには佐々木信綱が序を書いています。でも、それ以後は社会学者としての道を歩まれて、歌うことはなかったんですね。
佐々木門下以外にも、もっと歌の世界の方々に知っていただく価値があるように思いました。
古書店の話はぼくではありません。
題詠マラソン2005感想の過去ログに追いつかれましたら、ぜひよろしくお願いします。
生意気なんてとんでもありません。
こんな風に言っていただけて感謝しています。
論文的な文章という表現は、自分でも書きながらなにかザラザラしたものを感じていました。
いつかそういうジャンルの文章が書けるようになったとき、歌の世界の経験はきっと無駄にはならないだろうなという予感はあります。
いつのことかはわかりませんが。
今はともかく歌です。ぼくには歌しかありません。
どうぞこれからも言いたいことがありましたら、遠慮なくいろいろと言ってくださいね。
ありがとうございました。
このお話、なんか感動しました。
題詠に参加してよかったです。
昔わたしは、歌を作るということは、自分で自分を救おうとする、いわば自分の中の神性であるとまで思っていました。
でもそのあと、歌にすら救われない、と思うことが続きすぎて、歌とわたしの距離はどんどん離れていきました。
だけど鶴見さんのお話読んで、自分にとって歌うということが必要なときが来て、突然、歌がほとばしり出る日が、またくるかもしれない、と思いました。
神様はちゃんとにんげんをみていて、必要な時期に必要なものを与えてくれようとしているのかもしれない、と思いました。
うまくまとまりませんが。
題詠に参加してよかったなんて言っていただき、ありがとうございました。
ぼくも題詠マラソンに参加しなければブログも作らなかったし、こんな文章を書くこともなかったでしょう。
ぼくも参加してよかったとつづく思います。
次から次へ<つながり>が現れてきますね。
六十路を過ぎての出会い、大事にしたいと思います。
ありがとうございました。