雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

紅の頭巾をかぶり地蔵立つ

2008-02-14 22:50:03 | 日々写す



               紅の頭巾をかぶり地蔵立つ徳川菩提の寺ぞさびしき


           

                        東京上野・寛永寺本堂(根本中堂)にて



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8 コメント

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ほっ! (はこべ)
2008-02-14 23:13:58
赤頭巾誰がきせたか地蔵尊 その雪の日の寛永寺にて

あったか~い って かわいい声が聞こえそうですね。
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この赤頭巾の描写 (びっけ)
2008-02-15 16:25:30
これ、ただの一枚布の頭巾ではないですよね。
毛糸の手編みで、ぼんぼりまでついちゃって、巻き方もかわゆくて。それを歌に折りこまないではもったいない、ということを、前スレで言いたかったのでした♪この愛らしい具体に、もっとうわーと感じて描写することで、結果、感受・表現される、寺に漂う寂々たるもの、があるかなぁ、と。

徳川菩提寺のさびしさとは、具体的に何でしょう?社会科の先生でおられるゆえにおそらく常人とは異なる歴史観をふまえた感慨を抱かれたのでしょうね。

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朱の悲しみと、神秘よ… (流石埜魚水)
2008-02-15 18:17:14
私もお地蔵さんや庚申塔などの石造物が好きです。とくに苔むした石の地蔵が、微笑んでいる素朴な表情などは、国宝級の仏像の笑顔にひけを取りません。私には、大変に神々しく神秘的に映ります。庶民の喜怒哀楽を、そのまま石の仏様が優しく励まして、写したようではないですか…。

鳥居の「朱」、古代の石室の「朱」石仏のまいかけの「朱」…、なにか日本文化の古層で一線に結ばれ、繋がる位相ですか?

邦光史郎氏の『朱の伝説』(集英社)は、朱の材料である水銀を採掘していた丹仁一族と、丹丹都比売<にうずひめ>の神を祭神とする丹仁一族まで遡る古代浪漫がひろがりくす。

不浄を消し、邪悪なものから守る「朱」色のマジック。短歌の地蔵尊の私の視線です…。

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『吹かば吹け』で (Fou)
2008-02-15 21:13:47
作品についてしゃべったついでに。

「徳川...」でこの地蔵像の「かなしさ」のインパクトが引いてしまいました。

多分手編みの、真新しい、この美しい帽子を被せられたお地蔵さまの愛くるしさに、これを奉納した人こそかなし、と感じたのですが。



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質問です (びっけ)
2008-02-15 22:07:08
皆さんの示唆が面白いです。地蔵になにか着せたりかぶせたりする心とは?宗教か習俗かわかりませんが、私はその点に無知で、何も感じられなかった。地蔵に限らず、道端の神仏に対し、あまりにも無関心でした。

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子供を亡くした女が (Fou)
2008-02-15 22:39:07
ヨダレカケや帽子を奉納して亡き子の冥界の旅路の加護を祈るのだと、私は思ってます。
水子地蔵というのがありますね。

私も仏教の中での地蔵尊の地位や役割については何度聞いてもわからなくなってしまいますが。

なぜ赤いヨダレカケと帽子なのかもわすれましたが、必ず赤ですね。
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ご教示感謝します (びっけ)
2008-02-15 23:05:30
なるほど。
他の方々のコメントも総合してもう一度見つめると、この紅頭巾が愛らしすぎることが俄然胸に迫ってきました。

守る、祈る、か・・・。
じーん・・・・。


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みなさん、ありがとうございます (髭彦)
2008-02-15 23:42:38
鶯谷の歯医者に行った帰り、上野公園には行かず国立博物館の裏脇を日暮里の方に歩いてみました。
山手線との間には寛永寺の墓地が広がっていますが、しばらく行くと、思いがけないことに寛永寺の本堂という立派な門が現れました。
これまで何となく寛永寺というのは東照宮辺りにあるとばかり勝手に思っていたので、びっくりして入ってみました。
本堂はそれなりに立派な建物ですが、明治になってから川越から移築したものだそうで、さして広くもない境内にはその本堂だけ。
芸大の学生らしき数人が絵を描いているほかは、人気はほとんどありません。
徳川の歴代将軍15人のうち6人が眠る菩提寺としては、さびしいものです。
そのさびしい境内の外れの薄暗い日陰に、壮大な本堂にはおよそ似つかわしくない、赤い頭巾をかぶったかなり古びた優しげな地蔵が6体並んで佇んでいました。
真新しい頭巾とお供えの様子から参詣客はこちら目当てが主ではないかと思え、江戸時代には上野公園から谷中墓地あたりまでを境内としていたという寛永寺の栄華の終わりを強く感じたのです。
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