夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「彼が頂く」はおかしい

2011年01月13日 | 言葉
 何の事かと言うと、料理研究人などが料理法を説明していて、「……器に盛り、ゆず皮をのせる。たれにつけていただく」 などの文章がある。「器に盛ったり、ゆず皮をのせたり」 するのは料理をしている読者である。従って、「たれにつけていただく」 のもその読者である。
 「いただく」 (頂く・戴く) は 「食う」 「飲む」 の謙譲語である。国語辞典の中には、「食う」 「飲む」 の丁寧語、と断言したり、「近年、丁寧な言い方としても使う」 などと説明するのもあるが、と言うよりもその方が多いようだが、一体、いつから謙譲語が丁寧語になるような事が認められ始めたのか。「申します」 は明確に謙譲語であり、丁寧語として使うのは間違いとどの辞書も言っている。ひとり 「いただく」 のみが 「謙譲語兼丁寧語」 になる道理が無い。それに、言った方は謙譲のつもりなのに、丁寧だ、などと思われては立場が無い。そんな、発言者の立場を無視するような語法が成り立つと言うのがおかしい。

 ある辞書は次のように書いている。

 恩恵を受ける相手のない場合に使うこともあるが、やや一般的ではない。「一晩寝かすとさらにおいしくいただくことができます」

 料理法などの表現はこれである。料理をしている読者に恩恵を受ける相手の居る訳が無い。居るとするなら、その料理法を教えている人間である。その人間が相手に謙譲語を使わせるとは、何たる傲慢。

 引用した辞書は「使うこともある」との表現である上に、「やや」 付きではあるが、「一般的ではない」 と言っている。ある大型国語辞典は明確に「 謙譲語」 としか言わない。当たり前である。多分、誤解した使い方が結構はやっていて、それを多くの国語辞典が誤解しているのだと思う。上記の 「恩恵を受ける相手のない場合にも使うこともある」 はまさしく正解で、本当はそれは間違いなのである。しかし、その間違いは思ったよりも根が深い。
 先に挙げた 「たれをつけていただく」 は12日の朝日新聞の記事である。そうしたら今日の東京新聞に詐欺に近い勧誘の話が載った。そこに 「不審に思ったら消費生活センターに相談したい」 とあるのを見付けた。これは読者の立場での発言である。しかしその記事は記者が書いている。読者に注意をしている。注意をしている人間が読者の立場に立って 「注意したい」 と言えるのだろうか。
 こうした表現は蔓延している。
 都営地下鉄の駅には次のような注意書きが掲示されている。どの路線でも同じようだ。

 「エスカレーターでの歩行は危険です。ご注意いただきますようお願いいたします」

 注意をする必要のあるのは乗客である。「乗客が注意する」 であるのに、「乗客が注意いただきます」 と、その乗客に謙譲語を使わせるとは何事か。これは多分、「注意していただきます」 のつもりだろう。であるからには、それは都交通局の言い分である。だから 「注意して下さい」 とお願いするのが筋である。その証拠にはきちんと最後は 「お願いいたします」 になっている。

 上に挙げた三つの用例はそれぞれに使い方が違う。違うが根は同じである。「いただく」 の間違った解釈と、主客の混同である。不特定多数に向かって発言する立場の人間が、こうも同じようないい加減な物言いをして平気である。一体、いつから日本語はこんなに貧しい言葉になってしまったのか。

郵便事業が大赤字だと言うのだが…

2011年01月11日 | 社会問題
 郵便事業が大赤字だと言う。最大の原因が、月50億円もの赤字を垂れ流した宅配便子会社の損失補填をした事と、その子会社が発生させたゆうパックの大幅遅れの対策費である。
 郵便事業に他者が参入する事を終始厳しく阻止していたにも拘らず、自ら宅配業に参入した勝手な郵便事業でもある。正確な事では思い違いもあるかも知れないが、大筋は間違ってはいないと思う。と言うより、私はずっとそう思い込んでいる。
 郵便局で郵便を差し出す時に、「いつ着きますか」 と聞くと、決まって 「分かりません」 と言われる。急ぐなら速達にしてくれ、とも言われる。冗談じゃない。宅配便ではいつ着くかは明確に分かっている。時間帯の指定まで出来る。早ければ、今日の午後8時までに出して、翌日の午前中に届くのだ。そして宅配便は土曜だって日曜だって受け付けてくれる。しかし郵便局はそうではない。本局は休日の午前中は受け付けるが、昔、特定郵便局と言った町の小さな郵便局は休日はしっかりと休んでいる。他人の仕事を分捕るくらいなのだから、休日に開けていても罰は当たるまい。

 私は何度か郵便物を配達途中に無くされている。ずっと昔、禁止されていた普通郵便物の中に現金を入れて、無くなった。慣れた人間なら、封筒の外から触っただけで、中に現金が入っているのが分かるのだと言う。事故届けを出して調べてもらったが、もちろん、不明のまま。そりゃそうだ。証拠は何も残っていないのだから。
 ごく最近では、出版社に応募した大切な原稿が届かなかった。何ヶ月も経って、何の音沙汰も無いので問い合わせた所、受け取っていないと言う。出版社が何かの手違いで無くしたとも考えられない訳ではないが、私は郵便会社の方を疑っている。
 と言うのは、郵便配達がバイクにたくさんの郵便物を載せてむき出しにしたまま、マンションなどの中に配達するためにバイクを離れている現場を何度も見ている。しっかりと見ていたら、数分経っても戻らなかった。その間に、郵便物を盗む事は簡単に出来る。私は昔集めた10円とか15円とかの低額面の郵便切手を大量に貼っている。最近の人から見たら多分、とても珍しい切手だろうと思う。切手欲しさに盗むと言う事が無いとは思えない。そこまで考えなくても、あまりにも不用心な郵便物の処理を見ていると、無くなっても不思議は無いな、と思う。

 最近は無くなったが、誤配も何度もされている。私の所に全く別人の郵便物が配達されるのである。何度注意しても直らない。番地も違えば受取人も違うのに、間違える。全く別の局で何度も体験しているから、これはもう体質と言うしか無い。責任者を呼んで苦情を言うと、組合の圧力があって、どうにもならないのだと言う。
 他人の郵便物が私の所に入って来るのだから、私のが他人の所に入る可能性もある。以前、間違って封を開けてしまった、と謝りながら届けてくれた人が居た。間違っているのを知っていて捨ててしまう人が居ないとは言えない。
 今年の年賀状で一通だけ、私は相手の番地を書き間違えた。それで戻って来てしまった。56番地と書く所を5番地と書いてしまったのだ。でも相手は何十年もそこに住んでいる。それに近在には無い珍しい苗字でもある。何年かその地域の配達をしていれば、絶対に分からない、と言う訳ではないと思う。自分が間違っていながら、何とも図々しい考え方だが、誠意があれば、間違った番地でもきちんと届く可能性はあると思う。

 要するに、仕事に対する熱意が足りないと思う。余計な仕事を背負え、と言うのではない。しかし、自分の仕事に関わる事であれば、多少とも余分な事だな、と思ってもそれをするのがプロの仕事人ではないのか。
 郵便事業が危ないのは、カネの問題だけではないと思う。郵便事業に対する取り組み方その物が危ないのだと思う。郵便料金が安いのかも知れない。でもそうなら、公共の仕事である郵便事業を民営化する、と言うのがそもそもはおかしい。複雑な問題を抱えているから、簡単に言う事は出来ないが、私は働いている人々の姿勢にも大きな問題があると思っている。

国語辞典で「シャワー」の意味を調べた

2011年01月08日 | 言葉
 何でそんな事をしているかと言うと、台所で洗い物をしていて気が付いたのだが、シャワーにすると水の勢いが強くなる。それを息子に言うと、当たり前じゃないか、シャワーってそのためにあるんだから、と言われた。私はそうは思っていなかった。シャワーにするのは、水を細かい水滴にして、広範囲に当てるため、とばかり思っていた。
 そこで調べたのである。小型の4冊で、すべて 「如雨露」 を持ち出して説明している。その説明は二通りあって、 「如雨露のように」 と 「如雨露のような形の道具で」 になる。これがどのように違うのかと言うと、前者は如雨露の水の出方とシャワーの水の出方は同じだ、と考えているが、後者は水の噴出口の形が同じだ、としか言っていない。では後者では水の出方は違うのかと言うと、そのような事はまるで言っていない。

 「如雨露」 とは 「露」 の字の通り、 「優しく水をかける」 道具である。 「優しさ」 が重要だから、上等な如雨露ほど、穴は小さく緻密に開いている。これは元はポルトガル語である。一方 「シャワー」 はご存じのように英語である。日本語の 「シャワー」 は英語の 「シャワー・バス」 の事で、その英語の 「シャワー」 は 「にわか雨」 なのである。これは英語の3冊の辞書とも同じである。
 そこで、調べるまでも無く我々には分かっているのだが、 「にわか雨」 を念のために調べてみた。驚いた事には4冊調べて、1冊しか正解が無い。正解は 「急に激しく降り出してすぐにやむ雨」 である。 「急に降り出した雨」 などは論外である。我々は 「にわか雨だから、ちょっと雨宿りをして行こうか」 と考える。それは 「急な激しい雨」 で、 「すぐにやむ雨」 だからこそなのである。そのどれか一つ欠けても 「にわか雨」 にはならない。
 そうでしょう。急に降り出して、ずっとやまないかも知れない。急に降り出しても、小雨ならそのまま仕事なり歩行なりを続けるかも知れない。 「にわか雨」 は完全に違う。

 「にわか雨」 と 「如雨露」 とでは、内容がまるで違うのは分かると思う。ただ、その形だけを見れば、似ているとも言える。つまり、国語辞典は実質的な意味を採らずに、形だけで説明をしている。そして4冊共にまるでそっくりな説明になっている所に私は大きな不信感を抱いてしまう。何だ、物まねじゃないか、と。
 「シャワー=如雨露」 であるなら、そっくりで何の問題も無い。我々はシャワーを浴びて、夏は冷たい水で、冬は暖かい湯で、ああ、気持いいなあ、と感じる。でも、夏に如雨露の冷たい水を浴びて、冬に如雨露の暖かい湯を浴びて、ああ、気持いいなあ、と感じるだろうか。たとえ、たっぷりの水や湯であっても、そうは感じないだろう。でも辞書の執筆者はそう感じるのである。

 私は今、またこのように、何でもないような言葉を改めて調べる事をしている。それで本一冊分以上の原稿が書けている。何の役に立つのかと言われれば、こうして言葉の意味をきちんと調べる事で、自分なりに考え方を深くする事が出来る、と思っている。
 物事をどのように考えるか、と言う考え方の本は難しい。順序を追って、まずはこう考えろ、次はこうだ、その次はこうだ、そして結論はこうだ、などと言われても分からない事が多い。けれども自分が知っている言葉で考える、きちんと論理を立てて考える、そうであれば、どのように考えれば正解にたどり着けるのかは分かるはずである。
 更には言葉の意味をしっかりと調べる、中には改めて考え直す必要がある場合もあるから、本当に心底から考える事になる。第一、国語辞典の説明が納得出来ない訳だから (辞書が違えば説明もまた違う) その説明が何を語っているかをきちんと追究しなければならない。それは即ち、深く考える事になる。
 だから、私は考え方を磨くためにこうした原稿を書いている。

低体温症と平熱

2011年01月07日 | 暮らし
 テレビで低体温症を特集していた。私も平熱が35・5度だったりするので、見た。しかしそれは低体温症ではないと言う。たとえ脇の下で計った体温が低くても、体の深部の体温はそれよりも2度ほど高いのだそうな。そしてその深部の体温が低い事は滅多に無いらしい。脇の下は体表面だから、どうしても体温は低くなる。番組は直腸で計ったが、それはやりにくい。我々が同じようにするには口の中で舌の下に入れて計るのが良いそうだ。
 脇の下にしても、簡単に計れるデジタル体温計でも10分はそのままにしないと正確な体温は計れないと言う。でも去年の暮、風邪気味でかかった医院では、看護士が3分ほどで、体温計を取りに来た。ブロでさえ知らないと言う事か。
 有料の放送だから、まさかいい加減な事は言うまい。と言うと無料の放送ではいい加減な事を言っている事になるが、実際、私はそう感じている。何しろ、CM料金が欲しくて番組を放送しているかの感がある。小林信彦さんが「テレビ局というのは何を考えているのか、とつくづく思う。地上波というのは、もう投げているのでしょうね」と書いていたが、BS放送には丸っきりCMじゃないか、と思えてしまうような番組もあるから、結局はテレビ局は全部投げているのかも知れない。
 おっと、低体温症の話だった。同じ日の新聞の本の広告に「健康体温36・5度の生活術」なる本が載っている。こうした本は以前からある。体温を1度上げるだけで、免疫力が増す、と言う本である。今回の本も同様らしく、平熱が下がって34~36度になると、シミ肌荒れ、手足の冷え、むくみ・肩こりなどの症状から、アトピー性皮膚炎、内臓系の病気、うつ・ガンなどの原因になる、とうたっている。

 さて、これらの本の平熱とはどのようにして計った熱なのか。そしてそれはその人の平熱と言えるのか。
 こうして考えてみると、我々は自分の体温一つ正確に計れていないらしいから、体温がどうの、平熱がどうの、と言ったって、どこまでこうした本を信じられるか、と言う問題がある。たとえ、自分の平熱が低いと思っていても、それで健康であればいいではないか、とも思う。健康か不健康かはどうして判断するのか、と言う問題もある。持って生まれた体質と言うのもあるだろうし。
 そう言えば、以前、世界保健機構の提唱している理想的血圧は低過ぎるのだ、とある医師が書いていた。それとは別に、血圧は何の理由もなく上がる訳ではない。高いにはそれだけの理由がある。例えば、血管が細くなっていて、血圧を上げなければ血液の循環が悪くなる、などの理由である。それを機械的に低くしてしまっては駄目だろうと思う。
 血圧は一日の内で変化が激しい。私など、上が180にもなるかと思えば、90くらいで、立ちくらみをしてしまう場合さえある。それで医師は今の所は様子を見ましょうと言って薬は出されていない。しかし尿酸値となると、基準をほんのわずか上回っただけで、薬が処方されてしまう。以前、右足のかかとの激しい痛みに二度襲われて、それで尿酸値を計る事になったのだが、一年以上医者にかからず、薬も飲んでいなかったけれど、何の症状も出ていない。でも這ってしか移動出来ない痛さは御免だから、今は薬を飲んでいる。
 尿酸値が高くても、痛みの原因である結晶が出来にくい体質もあるのではないか、と思う。まあ、自分の体なんだから、自分なりに色々と試行錯誤するしかないか、と思っている。

箱根駅伝で、ごぼう抜きって何だろう

2011年01月06日 | 言葉
 昨日、箱根駅伝の事を書いた。その中継で 「5人を一気にごぼう抜きにした」 のようなアナウンスがあった。凄いな、と思うと同時に 「ごぼう抜き」 の言い方にある違和感があった。「座り込みの人達をごぼう抜きにした」 のように使うが、「何人をも一気に抜き去る」 のように使うとは思っていなかったからだ。
 そこで辞書で調べた。

・岩波国語辞典=ゴボウの根を土中から引き抜くように、一気にぐいと抜き取ること。また、多くの中から一つずつ順順に抜き去ること。(競技などで )何人かの者を一気に追い抜くこと。

 「まとめて抜き去る」の意味が挙がっている。となると、単に私が使い方を勝手に制限していたのか。

・新選国語辞典=〔ごぼうを抜くように〕
1 草木の根を、土の中からすっぽりとひき抜くこと。
2 すわりこんでいる人たちを、ひとりずつひっぱり出すこと。
3 おおぜいの中から、すぐれた人をえらび出して用いること。
4 競走などで、数人の競争者を一気に追いぬくこと。

 岩波と同じく 「一気に抜く」 「一つずつ抜く」 「まとめて抜く」 の三つを挙げ、そのほかに 「選び出す」 をも挙げている。でも、「選び出す」 は本当だろうか。

・新明解国語辞典=〔もと、ゴボウを抜くように、草木の根などをすっぽりと引き抜く意〕
1 一人ずつ片端から順順に引き抜くこと。〔誤って、間を置かずに数人を追い抜く意にも用いられる〕 「座り込んだデモ隊をごぼう抜きにする」
2 〔釣で〕 まっすぐ上に、勢いよく引き上げること。

 原意は 「一気に抜く」 で、それが 「一つずつ抜く」 になった。釣りではその原意が生きている訳だ。そしてありました。「間を置かずに数人を追い抜く」 は誤った使い方だと。ただし、間違いではあっても、使われていると言っている。

・明鏡国語辞典=
1 ゴボウを引き抜くように、棒状のものを一気に引き抜くこと。
2 多くの人の中から一人ずつ抜き出すこと。
3 競走などで、数人を一気に追い抜くこと。▽本来は誤用。

 新明解国語辞典とほぼ同じ見解になる。「まとめて抜く」 は 「本来は誤用」 だから、やはり現在はその意味で使われている事になる。新選国語辞典の 「すぐれた者を選び出す」 は他の三冊には無い。私も初見である。

 さてさて、一体どれが正しい説明なのだろうか。
 これは 「ごぼう」 を抜いては (それこそ、「ごぼうぬき」 にしては) 考えられないはずである。同じような根菜である大根でもにんじんでもないのである。ごぼうだからこその意味があるはずだ。それは何か。
 思い当たるのは、ごぼうは長さの割に細い。だから下手に抜けば途中で折れて、土の中に残ってしまう。葉を持って抜くから抜けるのであって、根だけになってしまったら抜けない。だから 「一気に」 「すっぽりと」 抜く事が重要になる。
 従って、元、 「すっぽりと抜く」 であっても、その意味は現在も生きていてもおかしくはない。そしてそれは、「抜きにくい物を一つずつ抜く」 意味に使われるようになった、と考えられる。スクラムを組んで座り込んでいる人達を一人ずつ抜き去るのは簡単な事ではない。そしてそれは特殊な光景でもある上に、「ごぼうぬき」 の言葉でその情景がいっそう鮮やかに目に浮かぶ。
 言うまでも無いが、ごぼうの収穫で一本ずつ抜くのは当然の事である。まとめて4本も5本も抜く訳が無い。つまり 「まとめて一気に抜く」 は新明解国語辞典や明鏡国語辞典が言うように、間違いのはずである。
 そして上記の二冊は、間違いでも多くの人が使っているんだから、仕方がないか、と諦めている感じであある。しかし岩波と新選国語辞典は違う。堂々と、それで正しいんだよ、と言っている。

 間違いではあっても使う人が少なくないから、間違いとは言えない。そう考えて、言葉はどんどん変化して行く。変化はいい。しかし間違いを認める事は本来は 「変化」 とは違うはずだ。こうして安易に間違いに妥協してしまえば、日本語はどんどん貧しいおかしな言葉になって行く危険性がある。実際に、我々はそうした使い方を目にしている。「気が置けない」 は「心を許せる」 の意味なのに、「油断ならない」 の意味に使う人が出て来て、それを正しいと認めてしまう辞書がある。それは日本語の破壊になる。
 「あの人って、気が置けない人だねえ」 と褒めたつもりなのに、「油断がならない」 と思われたのでは立場が無いではないか。真っ正面から対立する二つの意味を許すなんて、とんでもない事である。
 「ごぼう抜き」 の「 まとめて一気に抜く」 が正しいとされる事も、同じ事なのである。
 確かにほかには「 まとめて一気に抜く」 の言い方は見当たらない。それは多分、現在のようなマラソンや駅伝などを頻繁に放送するような事が無かった事も理由の一つだろうし、何も 「ごぼう抜きにした」 などと言わず、「一気に5人を抜いた」 と言えばそれで済む問題でもあるからだろう。
 「ごぼう抜き」 が、言い得て妙、と言える傑作な使い方なら文句は言わない。しかし、「まとめて一気に抜く」 とは思っていない人だって、私だけではなく、大勢居るはずなのだ。そうした従来の正しい言葉を破壊してまで使うような言い方ではないと私は思う。
 こうした言葉の使い方は、最初にした人間が居る。それで、それは間違いだ、と無視すれば良いものを、おっ、これはいい、と飛び付く軽薄な人間が居る。多分、「一気に」 だけに注目したに違いない。「まとめてごぼう抜きにした」 なら間違いではない。「まとめて一気に抜いた」 なのだから。つまり、今までには無かった 「まとめて」 の意味を付け加えてしまった。それは絶対に間違いである。その軽薄な人間が、大勢に向かって発言するような人間だったからこうした事が起きている。

箱根駅伝はやはり興奮する

2011年01月05日 | スポーツ
 以前はスタートからゴールまで全部見ていた。録画もしていた。でも近年は最初と最後くらいしか見なくなった。当たり前の事だが、番組を全部見ていても、競技の全部が見られる訳ではない。局が伝えたいと思った部分しか見られないのだから、全部を見てもしょうがない、と思った訳ではないが、考えてみればそうなる。私の出身大学は全く関係が無いから、別にどこに肩入れするのでもないが、今年のように接戦になると、東洋大に連覇をさせてやりたいし、早稲田に18年ぶりの優勝をさせてもやりたいし、としなくても良い心配をしてしまう。
 中継で二つばかり心外な事があった。
 一つは選手がコースを間違えた事である。コースが左折するのに、一人が直進した。気付いてあわてて戻ったが、コースは大きくふくらんで、その分遅れた。確かシード権争いの4人グループだったと思うから、その損失は大きい。ただ、シード権は獲得したはずである。画面で見た限りでは、明確に左折になっていたようには見えなかった。道なりではないのだから、もっと明確に直進ではなく左折なんだよ、と分かるようにすべきではないのか。係員がコースに立ちふさがって、直進ではないよ、と示したって良いではないか。
 もう一つはゴールのテープを係が落として拾わなかった事である。ゴールする寸前に落としたのではない。拾ってテープを張る余裕は十分にあった。なのにテープを張らなかった。30キロも走って来たのである。その必死の努力を思えば、何としてでもテープを切らせてやりたい、と思うのが人情ではないか。それを平然と見送った係員に怒りを覚えた。
 どちらも小さな出来事ではある。しかし走っている選手、応援している人々の事を思えば、決して小さな事だとは言えない。何か事務的な対応をしているように思えて心が寒くなった。競技に燃えられないような人は係員になってはいけない、とまで私は思う。危険を避けるためには冷静な判断力が必要だ。しかしこれは冷静さとはまるで違う問題だと思う。

思いやりのある社会を作ろう

2011年01月03日 | 社会問題
明けましておめでとうございます。
 初日の出も初富士も拝んだし、初詣にも行った。日の出も富士山も条件さえ良ければいつでも見られる。それなのに「初」が尊ばれる。それは毎日を大切にせよ、との教えなのだろう。初めての日の出を拝むように、毎日の日の出を拝め、と。
 元日の東京新聞は二つの朗報を伝えている。元日早々、訳の分からない、我々には何の役にも立たない政治のニュースや経済のニュースでは面白くもおかしくもない。
 朗報の一つは、 「首都の地下鉄 利便向上」 の大見出しで、経営の異なる地下鉄の乗り継ぎ割引が少し多くなる。民営の東京地下鉄は初乗りが160円、都営地下鉄は170円。二つを乗り継ぐと本来はそれぞれの初乗り料金が掛かるが、それが現在は70円割引されているのを、80円とかの割引にするらしい。割引額はもっと上がるかも知れない。それと共に改札を通らずに乗り換えが出来るよう駅を改造するのだと言う。更には経営統合についても協議が続けられると言う。
 東京だけは例外的に二つの地下鉄が存在している。公共機関は公営であるべきだ、と言うのが私の持論である。公営はぬるま湯に漬かった経営だ、との意見もあるが、利益むさぼり放題の民営よりずっと良いと思っている。公共のためのなのだから、利益はほどほど、経営の安定と鉄道機能の発展を保証する程度で良いのである。一つの経営であれば、利益が上がれば利用者に還元出来る。運賃が安くて困る事は何も無い。
 自由主義経済が社会の発展の基本だ、と考えられているようだが、私はそうは思わない。共産主義はどうやら失敗だったと世界は知ったのだろうが、だからと言って自由主義が良い、とはならない。自由は認めるべきだが、何でもあり、ではない。自由の名の下にそれこそ独占が許されたりしてはならない。 「独占」 と同じ考えに自分さえ儲かれば良い、との考え方があるのだと思う。
 儲けられるから社会が発展するのか。そうではないだろう。世のため、人のため、の精神が社会を発展させるのだと思う。その気持が回り回って自分の所に幾らかの利益として帰って来る。それで良いのではないのか。

 朗報の二つ目は 「歩行者に優しい信号」 である。横断歩道を渡っている人の歩き方が遅ければ、自動的に歩行者の青信号が延長される方式である。もちろん、赤信号に変わる寸前に渡ろうとすれば、警告が発せられる。本来、歩行者用の信号は青になったのを確認してから渡るべきものである。信号にたまたまぶつかったら青だった、は、いつその青が終わるか分からないのだから、危険この上ない。
 見ていると、横断歩道を素早く渡れない人は少なくない。青になったと同時に渡り始めるのに渡り切れない人が居る。車の通行量の多い道路では歩行者の青信号は延々と待たなければならないのだから、もっと歩行者に親切にすべきなのだ。毎日利用している霞ヶ関のある横断歩道は、平行する車が優先で、まず車用信号が青になる。歩行者用は赤のまま。そして車が点滅になって、やっと歩行者が青になる。ところが、その青が非常に短い。見通しの利く信号だから、少し離れた所からでも青になったのが分かり、横断歩道に駆け付けて、足早に渡るのだが、どんなに早足で渡っても、渡り切ると同時くらいに点滅になり、すぐに赤になる。
 車の出足は非常に速く、恐怖を覚えるくらいである。人の事など考えていないように思える。ある時など、赤で待っていたバイクが、車が青の点滅になると同時に飛び出した。普通の信号なら待っている車が青になる。しかしそこでは、次は横断する歩行者が青になるのである。左折車に巻き込まれる危険を避けた信号なのだろうが、危険な信号でもある。これは最初に歩行者を青にして、それから車を青にすれば避けられるのではないだろうか。
 人間が大切にされていないとつくづくと思うこの頃である。社会を動かしていると自認している人達が、多分、他人の事などまるで考えていないからなのでしょうね。