夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ウサギはなぜ一羽、二羽と数えるのか

2011年01月18日 | 言葉
 何かの本でウサギの長い耳を鳥の羽に擬して一羽、二羽と数えると読んだ覚えがある。そして私は深く考えもせずに、あまり納得はしないが、まあいいか、などと気楽に考えていた。ところが、今日の東京新聞の投書欄に90歳の男性が、何かで知った知識だが、鳥だと言って食用にしたからだ、と書いている。
 これは納得が出来る。日本人は昔は一般には獣は食べなかった。いや、仏の教えで食べられなかった。そこでウサギを鳥だと言って食べたのだと言う。
 考えてみれば、ウサギの耳が鳥の羽に似ているなどと本当に思うだろうか、と疑問に思うのが当然である。似ていると思う方がおかしい。食べると言う本能的な要求から 「これはウサギじゃない。鳥なんだ」 と言って食べたと言うのはおかしくはない。私自身は牛肉も豚肉も食べるくせに、自分が殺して食べろ、と言われたら食べられない。ましてやウサギなど、とんでもない。
 昔、苦しい生活の中で庶民がウサギを貴重なタンパク源とした気持はよく分かる。鳥だと言って食べたのは、仏教の教えだけではなかったはずだ。獣よりも鳥の方が抵抗感が少なかったのだと思う。
 でも、仏の教えだ、と言うのもまた変な話だ。仏性は生きとし生ける物すべてに存在する。抵抗感の少なさと仏の教えは違う。だから 「御免なさいね。私が生きるためにあなたの命をもらいますよ」 と謝り、感謝して食べたに違いない。そして、それは肉食に限らず、すべての事に今もなお通用しているはずである。

 5冊の国語辞典で「うさぎ」を引いたら、1冊だけに数え方が書かれていた。

 鳥に擬して 「一羽…」 と数える慣用があるが、今は 「一匹…」 が普通。

 残念ながらなぜ鳥に擬するのかは書いてない。大型の1冊は写真も入っていて説明も詳しいが、数え方については無言。
 「一羽」 の数え方には、ふーん、と感心する所はあるが、今となってはあまりにも古い。上の辞書の言うように 「一匹」 が普通で良いと思う。ただ、こうした数え方が残っている事で、何でウサギが鳥と同じなのか、との疑問が湧き、様々な事を考える事に繋がる。日本人の文化としては、「一羽」の数え方を残して置きたいとも思う。

 先に命ある物の命をもらって食べるのだ、と書いた。それは「頂きます」と言う食事の前の挨拶にきちんと残っている。「食べる・飲む」の丁寧語だ、などととんでもない事を国語辞典は言っているが、以前にも書いたが、これはれっきとした謙譲語のはずである。誰から頂戴するのか。それは仏様、神様から 「頂く」 のである。 「頂きます」 の食前の挨拶が丁寧語だなどとの考えからは、本当の日本文化は分からないと思う。