夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

国語辞典で「シャワー」の意味を調べた

2011年01月08日 | 言葉
 何でそんな事をしているかと言うと、台所で洗い物をしていて気が付いたのだが、シャワーにすると水の勢いが強くなる。それを息子に言うと、当たり前じゃないか、シャワーってそのためにあるんだから、と言われた。私はそうは思っていなかった。シャワーにするのは、水を細かい水滴にして、広範囲に当てるため、とばかり思っていた。
 そこで調べたのである。小型の4冊で、すべて 「如雨露」 を持ち出して説明している。その説明は二通りあって、 「如雨露のように」 と 「如雨露のような形の道具で」 になる。これがどのように違うのかと言うと、前者は如雨露の水の出方とシャワーの水の出方は同じだ、と考えているが、後者は水の噴出口の形が同じだ、としか言っていない。では後者では水の出方は違うのかと言うと、そのような事はまるで言っていない。

 「如雨露」 とは 「露」 の字の通り、 「優しく水をかける」 道具である。 「優しさ」 が重要だから、上等な如雨露ほど、穴は小さく緻密に開いている。これは元はポルトガル語である。一方 「シャワー」 はご存じのように英語である。日本語の 「シャワー」 は英語の 「シャワー・バス」 の事で、その英語の 「シャワー」 は 「にわか雨」 なのである。これは英語の3冊の辞書とも同じである。
 そこで、調べるまでも無く我々には分かっているのだが、 「にわか雨」 を念のために調べてみた。驚いた事には4冊調べて、1冊しか正解が無い。正解は 「急に激しく降り出してすぐにやむ雨」 である。 「急に降り出した雨」 などは論外である。我々は 「にわか雨だから、ちょっと雨宿りをして行こうか」 と考える。それは 「急な激しい雨」 で、 「すぐにやむ雨」 だからこそなのである。そのどれか一つ欠けても 「にわか雨」 にはならない。
 そうでしょう。急に降り出して、ずっとやまないかも知れない。急に降り出しても、小雨ならそのまま仕事なり歩行なりを続けるかも知れない。 「にわか雨」 は完全に違う。

 「にわか雨」 と 「如雨露」 とでは、内容がまるで違うのは分かると思う。ただ、その形だけを見れば、似ているとも言える。つまり、国語辞典は実質的な意味を採らずに、形だけで説明をしている。そして4冊共にまるでそっくりな説明になっている所に私は大きな不信感を抱いてしまう。何だ、物まねじゃないか、と。
 「シャワー=如雨露」 であるなら、そっくりで何の問題も無い。我々はシャワーを浴びて、夏は冷たい水で、冬は暖かい湯で、ああ、気持いいなあ、と感じる。でも、夏に如雨露の冷たい水を浴びて、冬に如雨露の暖かい湯を浴びて、ああ、気持いいなあ、と感じるだろうか。たとえ、たっぷりの水や湯であっても、そうは感じないだろう。でも辞書の執筆者はそう感じるのである。

 私は今、またこのように、何でもないような言葉を改めて調べる事をしている。それで本一冊分以上の原稿が書けている。何の役に立つのかと言われれば、こうして言葉の意味をきちんと調べる事で、自分なりに考え方を深くする事が出来る、と思っている。
 物事をどのように考えるか、と言う考え方の本は難しい。順序を追って、まずはこう考えろ、次はこうだ、その次はこうだ、そして結論はこうだ、などと言われても分からない事が多い。けれども自分が知っている言葉で考える、きちんと論理を立てて考える、そうであれば、どのように考えれば正解にたどり着けるのかは分かるはずである。
 更には言葉の意味をしっかりと調べる、中には改めて考え直す必要がある場合もあるから、本当に心底から考える事になる。第一、国語辞典の説明が納得出来ない訳だから (辞書が違えば説明もまた違う) その説明が何を語っているかをきちんと追究しなければならない。それは即ち、深く考える事になる。
 だから、私は考え方を磨くためにこうした原稿を書いている。