夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

朝の連続テレビ小説は面白い

2010年12月04日 | 暮らし
 連続ドラマが私は苦手だ。どうしたって、続きが見たくなる。しかし様々な事情があって続きが見られなかったりすると、大きな損をしているような気がしてしまう。たかがテレビの連続ドラマで自分の生活を縛られるのは嫌だ。それが週一のドラマならまだ救われるが、毎日のドラマだと悲惨である。だから見ていたドラマが終わると、絶対に次は見るまいと固く決意する。そして一、二週間は無事に通過する。
 ところがである。何かの折にふと見てしまう事がある。たまたまつけたチャンネルがその連続テレビ小説だったりして。固く決心したんだから見なきゃ良かろうに、と思うのだが、それがそうは行かない。と言うのは、わずかな場面を見ただけなのに、ひどく惹かれる場面だったりするのである。いつだってそうなのだ。
 何でだろう、と思う。それは脚本が良いからだろうし、画面が良いからだろうし、何よりも原作が良いからだろう。どんどん惹かれてついついその回の最後まで見てしまう。そうなったら、もう駄目なのである。本当に、ああ、明日が待ち遠しい、と言う事になってしまう。
 そしてそれこそ本当に毎回毎回、その手を食わされている。前回の「げげげの女房」もそうだったし、名前も順番もすぐには出て来ないが、「どんと晴れ」とか「ちりとてちん」とか「ちゅらさん」とか、すべて同じで、初めから見た物は一つも無い。みんな途中からである。

 今回の「てっぱん」も同じ轍を踏んでいる。だから途中で初めの頃の話が出て来ると皆目分からない。分からないけれど、何となく分かった気になってしまう。そして作中の人物の言う事がいちいち素晴らしい。含蓄のある言葉がたくさん散りばめられている。一体、この作者はどんな人なのか、と思ってしまう。それは数々の修羅場をくぐり抜けて来なければ出て来ない言葉だ、と私は感じている。実は、私の人生修行が足りないだけなのかも知れないが、多くの言葉が「そうなんだ、本当に人間ってそうなんだ」と思わされてしまう言葉なのである。
それに出演者がまた素晴らしい。特に富司純子が例えようもなく素晴らしい。
 今日は期待の手紙が開封された。誰もが遺書だと思い、何が書かれているのか、と固唾を飲んだはずだ。それが、
 あかりと、
 おかあちゃんのお好み焼きが食べたい
このたった一言だった。何と言う作者か。憎たらしい。何でこんなにも素敵で凄い場面が作り出せるのか。この一言がこのドラマの命なのだ。

 私は今、アルバイトで毎日は見られない。再放送も再々放送も再々々放送も見られない。そこで土曜日に一週間分の再放送を見る。前回の繰り返しと始まりのクレジットの出るシーンが邪魔だが、緊張感が持続出来る。録画して見れば、そうしたシーンは排除出来るが、おかしな事に、録画をすると安心して見なかったりするのである。そう、連続物は視聴者に安心をさせてはいけないのである。言うならば、明日も見なければ生きて行けないんだ、と言う不安感を持たせなければ駄目なのだ。
 そうか、私はこの不安感が嫌で、連続ドラマは見るまいと思うのかも知れない。