夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

NHKのハイビジョン番組「日本の庭園」が心地良かった

2010年12月21日 | 文化
 最初にお詫びを。と言うのは今日のこのブログは19日の日曜日に発信したつもりだった。この所ちょっと忙しい思いをしているので、一日置きになっても仕方が無いか、と考えていた。で、昨日の月曜日も発信を休んでしまった。だから三日間も穴が開いてしまった。私ごときがブログに訪れて下さる方に申し訳無いと、心からお詫びを申し上げます。

 「ベスト・オブ・ベスト」と称する番組の一部を見た。ゆったりと流れる画面。静止画かと思えてしまうような止まった画面。静かで落ち着いて何の気取りも無い中村吉右衛門の語り。それらが見事に一つの宇宙を作り出している。
 まるで自分で京都の有名な庭園を散策しているような気分である。カメラ目線は原則として歩行者の高さと速度になっている。ただ、見たい所にあまりカメラがとどまっていないとの欠点(自分勝手とは思うが)はあるが、その代わり、普段は見られない所が見られる。そちらの方がずっと有益だ。時々、民放のCMで中断のような、思わせぶりなシーンの展開もあるが、CMのように延々と待たされる事は無いから、「待たされて納得」と言う事になる。
 画面と語りのほかには何も邪魔をする物が無い。ところが、ほんの時々なのだが、音楽が流れる。そしてそれはよく知られている音楽だったりする。例えばモーツァルトだったり、ラベルのボレロだったり、ゴセックのガボットだったりする。これは非常に困る。それぞれの音楽に我々は何かしらの記憶や思いを持っている。そしてそれはほとんどがこうした美しい日本庭園とはまるで関係が無いのである。
 たとえ、音楽に繋がる記憶や思いが無くても、音楽その物が一つの世界である。何事かを雄弁に語ろうとしている。だからそれが抽象的な現代音楽だって同じ事になる。そうではないか。現代音楽が何かを語ろうとしていないのなら、武満徹はあんなにも世界的な作曲家にはなっていなかったはずである。

 画面と語りで完成している世界にこの上、一体何を付け加えようと言うのか。画面に語らせれば良いではないか。画面だけでは、つまり、実際に庭園を鑑賞している人には分からない事を、語りが淡々と言葉少なに教えてくれている。それだけで十分である。現実的には鳥のさえずりが聞こえたりしているのだが、まさかそれを音楽が取って代わろうと言うのではあるまい。
 庭園を造った人の思いを我々は静かに読み取ろうとしている。そこに音楽を作った人の思いをかぶせてどうなると言うのか。BGMと言う名の下に、いい加減な事がされていると思う。