夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

なぜ同じような事故が起きるのか

2010年12月26日 | 社会問題
 福岡県で6人もの人が亡くなった車の衝突事故が起きた。しかしどうも衝突で亡くなった訳ではなさそうだ。ワゴン車は水深3メートルの池に落ちて、なかなか救助が出来なかった。乗車を運転していた男性は助けようと池に飛び込んで亡くなったらしい。
 つまりは、全員の死亡の原因は、車が池に落ちた事にあるらしい。そして池と道路の間の柵が10メートルにも渡ってめちゃめちゃになっていると言う。東京新聞の25日の夕刊は、「柵破る事故 4年前にも」 の見出しで、福岡県での事故を取り上げている。一家5人の乗った車が柵を破って川に落ちて幼児3人が死亡した事故である。記事は次のように締めくくっている。

 (福岡県) 東区の現場では強度の低い歩行者用の防護柵しか設置されていなかったため、国土交通省の検討会が、07年にスピードが出やすい長い橋や歩道の幅が狭い場所でも、車両用の柵を設置すべきだと指摘した。

  つまり、こうした改善が、今回の事故現場では3年経ってもされていなかったらしい。写真を見ても、現場の柵は歩行者用の防護柵らしい事が分かる。貴重な命を奪った事故が何で戒めにならないのか。一体、何度同じような事を繰り返せばその気になるのだろうか。誰も彼もが他人事と思っているからだろう。心が寒くなる。
 
●言葉が足りない
 同じ新聞に 「アフリカゾウは2種類」 との見出しの記事がある。草原に生息するサバンナゾウは大柄で、森林に生息するマルミミゾウは小柄。肩までの高さで比べると、サバンナゾウはマルミミゾウより1メートルほども高いのだと言う。それでこれまでも亜種ではなく、別種とする専門家の議論が続いていたが、大規模なDNA検査を今回した事でほぼ決着がついた。
 タイトルの「言葉が足りない」と言うのは記事の文章の事である。

 サバンナゾウとマルミミゾウの遺伝子情報を比べた結果、遺伝子距離と呼ばれる相違が大きいことが判明。アジアゾウから分岐して絶滅したマンモスのDNAと同程度の違いがあったという。

 上がその文章。意味は分かるが、正しくは 「DNAの違いは、アジアゾウとアジアゾウから分岐して絶命したマンモスの間の違いと同程度だという」 だろう。 「何々と何々の違い」 と言わなくては分からない。記者は自分が分かっているから、こうした舌足らずの文章になる。でも不思議だ。またまた言うが、何で校閲部がこうした事に気が付かないのだろうか。

●新聞社としての考えは首尾一貫して欲しい
 25日の東京新聞の社説で、大阪地検特捜部の検証報告について、 「矛盾を知りつつ、公判を続行した点が見逃せない。元局長に無罪判決が出るまで撤退しなかった検察の態度は批判されるべきだ。このポイントについても、再発防止策の中で、 『引き返す勇気を持って、公訴の取り消し等を行うべきか否かを検討する必要がある』 と述べた。 『勇気』 という情緒的な言葉ではなく、 『論理』 として撤退が必要なのである。」 と主張している。まさに正論である。
 ところが、今日のコラム 「筆洗」 では次のように言っている。

 内容は物足りないが、再発防止策の中で 「引き返す勇気」 を訴えた点が目を引いた。最初に描いた見立てに固執せず、間違いに気付いたときは、公判段階であっても主張を見直そうという提言である。

 これは 「引き返す勇気」 を認めた発言である。確かにこれは一つの 「勇気」 である。なぜなら、周囲が、それも上役が許さない事をやるのである。 「勇気」 以外の何者でもなかろう。しかし、それを「 勇気」 だとしてしまうから、出来にくい事になってしまう。そうではなく、 「論理」 にすれば、それが正しければ、たとえ上役であっても従わなければならない道理である。その事を前日は語っている。だから今回もその考え方で通すべきなのである。
 このコラムは次のように締めくくっている。

 ただ、末端の検察官が 「引き返す勇気」 を奮い起こしても組織として受け止められなければ、提言は生かされない。検察幹部はそのことを心に刻んでもらいたい。

 組織として受け止められないのは、それが 「勇気」 だからである。同紙が言っているように 「勇気」 とは情緒的な言葉なのである。しかし 「論理」 ならそうはならないはずである。 「情緒」 なら○でも×でも△でも良いから、どうしても△の部分が拡張されてしまう。そこで、うやむやになる。だが、論理は○か×しか無いはずである。どうも今回のこのコラムは本当の事が分からずに口先だけで物を言っているらしい雰囲気を感じてしまう。
 このコラムは社説と並んで、同紙の 「顔」 なのである。八方美人の顔であってはならないはずである。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
もっと深く考えてみました (ほん)
2010-12-26 22:37:49
 むかしは交通事故が起こるたびにそこに信号機を設置したり、公安も大衆迎合的で幼稚な対応をしていたものです。ガードレール強化も同じでしょう。日本中の道路が強固な柵で囲まれると思うとゾッとします。

 それから新聞は今日の出来事を夜12時までに大急ぎで書き上げるのから粗悪なのは仕方ないです。ですから事実論レベルで揚げ足取りするよりも、新聞テレビは「そんな程度である」という論理レベルの認識が必要ではないですか。


 過激ついでにもうひとつ。冤罪は防げません。また冤罪を無くす必要もありません。それは交通事故はいけないから自動車を禁止するという議論と同じだからです。冤罪を無くす唯一の方法は容疑者をなるべく起訴しないで、犯罪者天国にすることです。

 そもそも検察を含む実社会の内部で「論理」など少しも通用しないことは大人ならだれでも知っているでしょう。特権階級である高級官僚の起訴なんて国策捜査以外ではあり得ないのだから、論理もへったくれもないです。マスゴミが冤罪と書いたから単純に何もなかったと思うのはヘンではないですか。
返信する
Unknown (夏木広介)
2010-12-28 14:10:43
 ちょっとご趣旨が分からないのですが。ガードレールの事は、車を防ぐ柵ではないのを改善せよ、との指摘があったのに、無視されている、と言っているだけのつもりです。そして新聞が締め切りがあるのは当然です。締め切りに追われていい加減な記事になっている、などと私は言っていないつもりなのですが。また、冤罪はこのブログでは関係がありません。冤罪についてだとお思いになられたらしい検察の報告に関しては、新聞社としての一貫性を取り上げているつもりです。新聞社の姿勢は時間があるとか無いとかの話にはなりません。
 私の主たるテーマは日本語なので、記事が「勇気」と「論理」をきちんと分けて考えていない事を非難しているだけなのです。新聞やテレビが「そんな程度である」との認識は持っていない訳ではありませんが、検察云々と同様に、それでおしまいにしてしまっては、もう何も言う事は出来なくなります。それで達観されている方は良いでしょうが、私は未熟なので、何かとごちゃごちゃ言っています。
 「冤罪を無くす唯一の方法は容疑者をなるべく起訴しないで、犯罪者天国にすることです。」は傑作なブラックユーモアだと解釈しました。メディアが冤罪だと書いたから単純に何も無かった、とは私だって思いません。疑われるにはそれだけの何かがある。でも何でもないような事で疑われて大きな罪を背負わされても、仕方がないと諦めよ、と言うのでしょうか。
 「揚げ足取り」と言われてしまうでしょうが、「容疑者をなるべく起訴しないで、犯罪者天国にする」はおかしくありませんか? 「容疑者」はあくまでも「容疑者」であって、「犯罪者」ではないと思います。もしも言葉の間違いではないとするなら、あなたは「容疑者は犯罪者だ」と考えている事になってしまいます。だから冤罪を無くす必要はない、と言うのか、と変な疑いも持たれてしまうのではないでしょうか。
返信する