カード会社から案内がしょっちゅう送られて来る。何でただなのかが、不思議だった。馬鹿だねえ私は。補償期間は保険会社によって違うが1年とか3年とかである。その間に交通傷害事故に遭えば補償がされる。だから得である。でも事故に遭う事は滅多に無い。だから保険会社はその人に限っては損だが、決して損はしない。たまたま事故に遭った人には、次に無料保険のお勧めが来る事は無いだろう。そしてその人は事故が怖いから多分、保険に入るだろう。その保険に入った人の事故に遭う確率はかなり低いはずだ。新しく入った人の保険料で、損した分はまかなえる。だから保険会社は絶対に損をしない。
保険会社はしょっちゅう不払いで問題になっている。巨額の保険金が支払われないままになっている。それは加入者の無知による所が大きい。保険の書類はただでさえ難しい。殊更に分かりにくくしているのではないか、と思うほどである。だから請求出来る保険金があるのに気付かない事なんてざらにあるだろう。それに対して、保険会社が親切に、あなたには受け取り損なっている保険金がありますよ、なんて言ってくれる事はまず絶対に無い。知らないのを幸いに知らん顔を決め込んでいる。
しかるべき機関の査察で見つかっても、気が付きませんでした、で終わり。中にはコンピューターの不具合で見付からなかったなどと、いけしゃあしゃあと言い抜ける会社さえある。その見付からなかった期間は何と15年にも及ぶのである。大体、15年も同じシステムを使うか。それに査察機関では何で不払いが分かって肝心の生命保険会社では分からないのか。本家本元が分からないなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。
私は都心・霞ヶ関のある大きなビルでアルバイトをしている。それはある生命保険会社のビルである。だからその保険会社が使っているかと言えば、そうではない。全館貸しビルなのである。超都心の土地を買い、そこに大規模ビルを建てて貸すだけの資力を持っている。元々からそんな大金持ちだったのか。否、であろう。みんな、不安を煽って保険に加入させて得た莫大な利益から生まれているはずだ。
そう、不安があるから保険に入る。そうした意味では、社会は安定して幸福であってはまずいのである。馬鹿馬鹿しい交通事故などがあった方が、保険会社としては利益になる。車が衝突するのを防ぐ装置など、ずっと以前に完成していると聞く。しかしそれを製品にしたら、旨みが無くなってしまう企業があるのだ。
保険その物について文句を言っているのではない。ただ、保険とは本来が儲けるための商売ではなかろう、と言うのである。保険料を支払って、保険金を受け取れない人が多数居る。それは幸せなのだ。私に生命保険を勧めた勧誘員はこう言った。「生命保険は厄払いだと思って下さい。保険金を受け取らない方がしあわせなんです」と。
保険料を支払って幸いにも保険金を受け取らずに済んだのは本当に幸せなのである。そうした人が大勢居るからこそ、多額の保険金を不幸にして受け取らなくてはならなくなった人が救われる。それでバランスを取れば良いのである。だから保険にもよるが、不幸が少なければ受け取る金額は多くなるし、支払う保険料は少なくなる道理である。支払う保険金が少なくて入る保険料が多いから会社の儲けになる、と言う仕組みはおかしいのである。
損をしてはいけないから安全圏を見る事は必要だし、運営して行くためのある程度の儲けは必要だ。しかしそれは巨大なビルを建てる事の出来るほどの儲けではないはずなのである。それでは世間の人々のための商売ではなく、商売人のためだけの商売になる。
保険会社については本質的に不信感を抱かざるを得ない事件がある。
ある男性の病気が重くなった。彼は再婚している。しかし二度目の妻は面倒を見ようとしない。面倒を見てくれたのは元の妻子だった。そこで彼は保険金の受取人を二度目の妻から元の妻子に変更しようと考えた。車椅子の彼を元の妻が保険会社に連れて行って手続きをした。
しかしその手続きに不備があった。一つだけ押印が不足していた。後で気付いた担当者はすぐに電話で連絡を取ったが連絡が付かない。そうこうしている内にその男性は亡くなった。だから手続きは完了していない。きちんと手続きをしたと思っている元の妻子は保険金の受取人にはなれなかった。保険金は元のまま二度目の妻に支払われた。
その裁判で、裁判所は保険会社の肩を持ったのである。保険会社は専門会社である。どこに印鑑が必要かなんて簡単に分かる。分からなければ保険の仕事をしてはならない。それが実際には分からなかった。保険会社の担当者は男性が歩けない事を知っている。だから担当者本人が男性と元妻の所に下りていって手続きを済ませたのである。だから、電話連絡などではなく、直接本人の所に出向くべきだったのである。
そんないい加減な保険会社に裁判所は軍配を挙げたのである。事の顛末を私はきちんと裁判記録で読んでいる。常識では通用しないことが堂々とまかり通っている。
保険会社はしょっちゅう不払いで問題になっている。巨額の保険金が支払われないままになっている。それは加入者の無知による所が大きい。保険の書類はただでさえ難しい。殊更に分かりにくくしているのではないか、と思うほどである。だから請求出来る保険金があるのに気付かない事なんてざらにあるだろう。それに対して、保険会社が親切に、あなたには受け取り損なっている保険金がありますよ、なんて言ってくれる事はまず絶対に無い。知らないのを幸いに知らん顔を決め込んでいる。
しかるべき機関の査察で見つかっても、気が付きませんでした、で終わり。中にはコンピューターの不具合で見付からなかったなどと、いけしゃあしゃあと言い抜ける会社さえある。その見付からなかった期間は何と15年にも及ぶのである。大体、15年も同じシステムを使うか。それに査察機関では何で不払いが分かって肝心の生命保険会社では分からないのか。本家本元が分からないなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。
私は都心・霞ヶ関のある大きなビルでアルバイトをしている。それはある生命保険会社のビルである。だからその保険会社が使っているかと言えば、そうではない。全館貸しビルなのである。超都心の土地を買い、そこに大規模ビルを建てて貸すだけの資力を持っている。元々からそんな大金持ちだったのか。否、であろう。みんな、不安を煽って保険に加入させて得た莫大な利益から生まれているはずだ。
そう、不安があるから保険に入る。そうした意味では、社会は安定して幸福であってはまずいのである。馬鹿馬鹿しい交通事故などがあった方が、保険会社としては利益になる。車が衝突するのを防ぐ装置など、ずっと以前に完成していると聞く。しかしそれを製品にしたら、旨みが無くなってしまう企業があるのだ。
保険その物について文句を言っているのではない。ただ、保険とは本来が儲けるための商売ではなかろう、と言うのである。保険料を支払って、保険金を受け取れない人が多数居る。それは幸せなのだ。私に生命保険を勧めた勧誘員はこう言った。「生命保険は厄払いだと思って下さい。保険金を受け取らない方がしあわせなんです」と。
保険料を支払って幸いにも保険金を受け取らずに済んだのは本当に幸せなのである。そうした人が大勢居るからこそ、多額の保険金を不幸にして受け取らなくてはならなくなった人が救われる。それでバランスを取れば良いのである。だから保険にもよるが、不幸が少なければ受け取る金額は多くなるし、支払う保険料は少なくなる道理である。支払う保険金が少なくて入る保険料が多いから会社の儲けになる、と言う仕組みはおかしいのである。
損をしてはいけないから安全圏を見る事は必要だし、運営して行くためのある程度の儲けは必要だ。しかしそれは巨大なビルを建てる事の出来るほどの儲けではないはずなのである。それでは世間の人々のための商売ではなく、商売人のためだけの商売になる。
保険会社については本質的に不信感を抱かざるを得ない事件がある。
ある男性の病気が重くなった。彼は再婚している。しかし二度目の妻は面倒を見ようとしない。面倒を見てくれたのは元の妻子だった。そこで彼は保険金の受取人を二度目の妻から元の妻子に変更しようと考えた。車椅子の彼を元の妻が保険会社に連れて行って手続きをした。
しかしその手続きに不備があった。一つだけ押印が不足していた。後で気付いた担当者はすぐに電話で連絡を取ったが連絡が付かない。そうこうしている内にその男性は亡くなった。だから手続きは完了していない。きちんと手続きをしたと思っている元の妻子は保険金の受取人にはなれなかった。保険金は元のまま二度目の妻に支払われた。
その裁判で、裁判所は保険会社の肩を持ったのである。保険会社は専門会社である。どこに印鑑が必要かなんて簡単に分かる。分からなければ保険の仕事をしてはならない。それが実際には分からなかった。保険会社の担当者は男性が歩けない事を知っている。だから担当者本人が男性と元妻の所に下りていって手続きを済ませたのである。だから、電話連絡などではなく、直接本人の所に出向くべきだったのである。
そんないい加減な保険会社に裁判所は軍配を挙げたのである。事の顛末を私はきちんと裁判記録で読んでいる。常識では通用しないことが堂々とまかり通っている。