夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

いい加減な古代史の認識が大きな顔をして歩いている

2010年12月30日 | 社会問題
 今日の渡部亮次郎 「メルマ」 頂門の一針2139号に加瀬英明氏が 「日本は独立自尊の国」 と題して次のように書いている。以下はその冒頭の一部である。

今日から、1403年前になる。推古天皇16(608)年に、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として長安の都に派遣して、隋の皇帝に 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙 (つつが )無きや」という国書を、献じた。
皇帝の煬帝がこれを見て、終日、機嫌を損ねていたと、 『隋書』 が記録している。
あの時の日本は、中国を刺激することを、恐れなかった。
日本は毅然とそうすることによって、中国を囲む国々がすべて中華帝国に臣従したのにもかかわらず、唯一つ中国と対等な関係を結ぶ国家となった。日本史における最大の快挙だった。

いったい、日本はいつから中国を刺激することを、恐れるようになったのか。
アメリカや、ドイツや、インドを刺激してはならないと、いわない。中国、ロシア、韓国、北朝鮮についてのみ、いうことだ。きっと、日本国民がこれらの国々が、”やくざ並みの国” であることを、知っているからだろう。怯懦な民となって、よいものか。

 原文を勝手に二つに分けた。後半の段落は 「納得」 である。特に 「日本国民がこれらの国々が、 ”やくざ並みの国” であることを、知っているからだろう」 に諸手を挙げて賛成してしまう。韓国については少々躊躇する所があるが。
 しかし前半部分はどうにも頂けない。その理由は二つある。一つは 「日出づる処の…」 の国書を聖徳太子が書いた、と言う点である。教科書でさえそう書いていて、今やこれは日本人の常識みたいになってしまっているが、嘘は嘘である。これは 『隋書』 にしか出て来ない記事である。中国大陸の歴史書は次の時代の国が作る。ここでは 「禅譲」 と言う、天子がその地位を子供などに世襲させずに徳のある者に譲る事で国の代替わりが行われている。徳のある国を徳のある国が引き継ぐのであるから、前代の国を誹謗するような事は書かない。
 『隋書』 は唐の時代に書かれ、上記のあの史実には何の隠す事も偽る事も無いから、それは真実である。そしてそこには聖徳太子の名前など一切出てはいないのである。この国書を書いたのは 「阿毎多利思比(北)孤」 と明確に書かれている。この名前は二度も出て来る。この文字面をどのように解釈しても聖徳太子とは何の繋がりも得られない。つまり、全くの別人なのである。一国を代表する歴史書であり、しかも当時の最先端の文化国家である隋や唐が考えられないような杜撰で間違いだらけの歴史書を作るはずが無い。
 日本史における最大の快挙だと言うのだから、日本の歴史書である 『古事記』 や 『日本書紀』には当然書かれているべき史実である。だが、どちらにもそんな事は一言も書かれてはいないのである。これらの歴史書は天武天皇が、過去の歴史書には間違いが多いから今の内に正しい歴史書を作れ、と命じて作らせたのだから、日本にとって名誉この上ない、このような史実を落とすはずが無い。

 後半の段落が頂けない二つ目の理由は、 「日出づる処の…」 の文書が隋を対等の相手とした、とはとても思えない情況があるからである。冷静に当時の情況を考えてみても、すぐに分かる事である。隋は強大な国である。だから周辺の国々は朝鮮諸国も含めて、丁重に臣下の礼を尽くして付き合っている。属国にされては困るのである。たとえ日本は海を隔てているからと言っても、そんな安心していられる情況にはない。その証拠には、白村江の戦いで日本が唐に負けたあと、後に天智天皇となった中大兄皇子は日本の防備に懸命だった。
 もしも聖徳太子が 「隋ごとき何する者ぞ」 と思って対等意識を持っていたとするなら、とても危なくて国を任せられはしない。それは単に世間知らずの我がまま息子と同じである。
 前にも書いたが、この国書を呈した時、倭国の使者は煬帝に 「西の菩薩天子が仏法を興していると聞いたので、仏法を学ばせるために僧を数十人連れて参りました」 と述べている。これは倭国の大王の意思である。相手を 「菩薩天子」 と呼んでいるのに、そこに対等意識があるはずが無い。対等意識があるのなら、自らも 「菩薩天子」 になってしまう。
 煬帝が機嫌を損ねたその翌年、それでも隋から使者がやって来た。聖徳太子が対等意識の国書を呈し、相手を怒らせたのなら、その相手が自ら使者を寄越すはずが無い。そして倭国の大王はどう対処したか。大歓迎をしたのである。そして使者に言った。 「私は野蛮人で、僻地に居るので礼儀を知らない。道を清め、館を飾ったので、ここにとどまって頂いて、どうしたら国を発展させる事が出来るのかをお教え下さい 」と。
 これが隋を対等と見た王の言葉だろうか。だとするなら、倭国の王は二枚舌の、王としての品格も教養も何も無い単なる権力者に過ぎない事になる。

 こうした史実が重要なのは、加瀬氏がこれを 「日本史の最大の快挙だ」 として論議を進めているからにほかならない。同氏が 「怯懦な民となって、よいものか」 と言っているのはもちろん納得だが、それを引き出すのに間違った史実を挙げてはどうにもならないだろう。私はこの人は確か英国大使を務めた人と同一人物だと思っているが、その人がこの程度の知識なのか、それで外交をしていたのか、と驚いてしまう。もしも他人なら、ご免なさい。
 この場合は論理の結論が正しいから救われている。しかし結論が賛否両論ある問題のある結論だったら、出発点が間違っている事が致命傷になるだろう。
 推古天皇が遣隋使を派遣した事は間違いの無い史実である。しかし 『隋書』 にはその記事は一切無い。そして 『日本書紀』 はその事を知っていて、つまりはあの国書を呈したのが推古天皇ではない事を知っていて、 「遣隋使」 ではなく 「遣唐使」 にしてごまかしているのである。そこに出て来るのはすべて隋ではなく、唐になっている。唐の時代になれば大和朝廷の朝貢は中国大陸の歴史書に登場するから、 『隋書』 に推古天皇の遣隋使の事が書かれていなくても、何かの都合で落ちてしまったのだろう、で済ませようと考えたのだと思う。

 この国書の事は多くの日本人が聖徳太子の対等意識の現れだ、と思わされているから、それはそれで現実的には被害は無いだろう。しかし我々庶民がそうであるのは良いとしても、一応は庶民に何事かを教え訴えようとしている人間がそのようにいい加減であっては困るのである。現状を正確に見ていての発言なのだから、古代をも正確に見ている必要があるはずだ。と言うよりも、歴史学者がいとも安直に 「相手国の間違いだ」 と言って済ませている 事を(それは日本国民を誤らせる事になるのだが)、そんなにも簡単に納得してしまうような考え方の人間に、重大な事を考える能力があるのか、と言う事になるのである。 「怯懦」 (きょうだ=臆病で意志が弱い) などと言う難しい言葉がすらすらと出て来るのだから、それくらいの教養は持っていて頂きたいと思っている。