鹿児島県の地裁で、死刑を求刑されていた事件で、裁判員裁判での判決が無罪になった。死刑と無罪、このあまりにも大きく衝撃的な違いの理由は何なのか。昨日、取調室の可視化について考えた。冤罪防止への努力を尽くすのは捜査機関の重要な事であり、捜査の原点が取り調べにこそある、との意見を紹介した。その意見を私は筋が通らないと批判した。捜査の原点である取り調べが冤罪防止への有効な方法であるとしたら、今回、裁判員達はその「有効な」方法を否定した事になる。
一番重要な事は、被告の指紋が被害者宅に残っていたが、肝心の凶器となったスコップには被告の指紋が無かった事だろうと思う。そうした決定的な事柄が取調室でどのように取り扱われたのかが問題になる。証拠が灰色であるにも拘らず、検察は死刑を求刑したのである。それにはそれだけの理由が必要になる。そしてその理由を裁判員達は認めなかった。一般人の常識として認められない事が捜査機関では認められてしまう。それは実に恐ろしい事である。もしも、それが専門的な知識などの違いであるのなら、専門的な知識とはどのような物なのかを白日の下にさらす必要がある。それは取り調べの可視化が無ければ出来ない相談だろう。
私は常々、専門家と一般人の違いを考えている。専門家は一般人の手には余る事が出来る。だから専門家なのだが、そこにある種の奢りがある。専門的な勉強をして来た者の奢りがある。そして、専門家と一般人との間に明確な越えられない一線を画してしまう。それは問答無用の世界なのだ、と。
こうした情況からは有効な事柄は何も生まれない。物理学とか化学とか、特殊な知識を必要とする事柄ならそれでも構わない。しかし人の罪を問い、刑を決める事はそうした特殊な事では絶対に無い。自分と同じように生きている人を相手にしている以上、自分もそうした立場に立たなくては、専門的な知識の発揮のしようが無い。
そうした事に気が付かない所に根本的な誤りが存在している。そうなると、もう本当に「専門馬鹿」としか言いようが無い。政治家はもちろんだが、検察も弁護士も裁判官もみな我々一般人と同じなのである。そうでなければそれらの任務は務まらない。
裁判員の精神的な辛さがよく言われる。でもそれは裁判官だって同じはずなのだ。同じ人間である裁判員と裁判官とで、一体何がどのように違って精神的な負担があったり無かったりするのか。そんなはずは無い。裁判官だって辛い精神的な負担を感じているはずである。
一つ言える事は、裁判官はそれなりの勉強をして来ているし、経験も積んでいる。報酬もそれなりに受けている。それで極刑を宣告しても裁判員のような辛さを感じなくなっている、との事はあるはずだ。そうした違いを無視して、裁判員制度には問題有り、と論ずるのは公平ではないだろう。中には裁判官の苦労を一般人に押し付ける制度だ、と言う意見すらある。
そうではない。裁判官に全面的な信頼が置けないからこそ、裁判員制度が始まったはずである。高額の報酬をもらって、それなりに社会的な身分も保証されている裁判官の代わりに、誰が裁判員などになるものか。
今まで専門家に任せっきりになっていて、闇の部分があると思われている検察や裁判の制度に一歩踏み込もうと言うのが、裁判員制度であり、取り調べの可視化なのである。専門家だけには任せて置けないからこそ、一般人が登場したり、一般人にも理解出来る情報を確保しようと言うのである。現行の制度を完全だと思い込んでいるからこそ、おかしな考え方が生まれてしまう。専門家は冷静に頭を冷やす必要があるし、一般人は決して卑屈になってはならない。同じようにこの世に生きる権利を持ち、義務を負っている同じ人間として、何の差も無い。あるのは単に日常の仕事としている業務の違いだけに過ぎない。
一番重要な事は、被告の指紋が被害者宅に残っていたが、肝心の凶器となったスコップには被告の指紋が無かった事だろうと思う。そうした決定的な事柄が取調室でどのように取り扱われたのかが問題になる。証拠が灰色であるにも拘らず、検察は死刑を求刑したのである。それにはそれだけの理由が必要になる。そしてその理由を裁判員達は認めなかった。一般人の常識として認められない事が捜査機関では認められてしまう。それは実に恐ろしい事である。もしも、それが専門的な知識などの違いであるのなら、専門的な知識とはどのような物なのかを白日の下にさらす必要がある。それは取り調べの可視化が無ければ出来ない相談だろう。
私は常々、専門家と一般人の違いを考えている。専門家は一般人の手には余る事が出来る。だから専門家なのだが、そこにある種の奢りがある。専門的な勉強をして来た者の奢りがある。そして、専門家と一般人との間に明確な越えられない一線を画してしまう。それは問答無用の世界なのだ、と。
こうした情況からは有効な事柄は何も生まれない。物理学とか化学とか、特殊な知識を必要とする事柄ならそれでも構わない。しかし人の罪を問い、刑を決める事はそうした特殊な事では絶対に無い。自分と同じように生きている人を相手にしている以上、自分もそうした立場に立たなくては、専門的な知識の発揮のしようが無い。
そうした事に気が付かない所に根本的な誤りが存在している。そうなると、もう本当に「専門馬鹿」としか言いようが無い。政治家はもちろんだが、検察も弁護士も裁判官もみな我々一般人と同じなのである。そうでなければそれらの任務は務まらない。
裁判員の精神的な辛さがよく言われる。でもそれは裁判官だって同じはずなのだ。同じ人間である裁判員と裁判官とで、一体何がどのように違って精神的な負担があったり無かったりするのか。そんなはずは無い。裁判官だって辛い精神的な負担を感じているはずである。
一つ言える事は、裁判官はそれなりの勉強をして来ているし、経験も積んでいる。報酬もそれなりに受けている。それで極刑を宣告しても裁判員のような辛さを感じなくなっている、との事はあるはずだ。そうした違いを無視して、裁判員制度には問題有り、と論ずるのは公平ではないだろう。中には裁判官の苦労を一般人に押し付ける制度だ、と言う意見すらある。
そうではない。裁判官に全面的な信頼が置けないからこそ、裁判員制度が始まったはずである。高額の報酬をもらって、それなりに社会的な身分も保証されている裁判官の代わりに、誰が裁判員などになるものか。
今まで専門家に任せっきりになっていて、闇の部分があると思われている検察や裁判の制度に一歩踏み込もうと言うのが、裁判員制度であり、取り調べの可視化なのである。専門家だけには任せて置けないからこそ、一般人が登場したり、一般人にも理解出来る情報を確保しようと言うのである。現行の制度を完全だと思い込んでいるからこそ、おかしな考え方が生まれてしまう。専門家は冷静に頭を冷やす必要があるし、一般人は決して卑屈になってはならない。同じようにこの世に生きる権利を持ち、義務を負っている同じ人間として、何の差も無い。あるのは単に日常の仕事としている業務の違いだけに過ぎない。