夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

一番大事な所が分からない

2010年06月23日 | 言葉
 営々として作り上げたデータ(原稿)が6本も一瞬で失われてしまい、専門技術者によっても復旧出来ず、心機一転、作り直す事にした、と書いたら、流蛍さんが「前向きですねえ」と褒めて下さった。しかし私の前向きは実は無理をしている。本当の所を言えば、私はどちらかと言えば後ろ向きな人間なのだ。後ろを向いている方が楽なのだ。だから12万円の金額でデータが復旧するなら、後ろ向きのままで居られる。それが気楽だったのである。
 そのまま復旧したデータを使うよりも、新規まき直しで作り直す方がずっと良い物になる事が分かったけれども、それはかなりな前向きの気持を必要とする。だからこの所ずっと気が重い。原稿の作り直しは着々とやってはいるが、何しろ時間が掛かるし、面倒な事ばかりである。それが更に気を重くしてしまう。新聞やテレビを騒がせているニュースを見てもあまり心が動かない。それでついついブログも御無沙汰してしまっている。
 2台のパソコンを使い分けなければならないのも気を重くしている原因になっている。スムーズな入力(親指シフトキーボード)の出来る、けれども機能的に劣るAで文章を作り、スムーズな入力が出来ないけれども機能的に優れているBでブログの発信をする。それは思ったよりはずっと面倒な作業だった。
 親切な人がキーボードの機能を取り戻す方法があると教えて下さったが、まだすぐには実行に移せない。で、しばらくはこうした情況が続いてしまう。
 後ろ向きな人間が前向きになるのは、そうした指導書を読んでも、そんなに簡単に出来る事ではない。何十年も掛かって後ろ向きになった性格をわずかな日数で変えられるはずが無いと思う。いや、そんな後ろ向きだからダメなのだ、とは分かっているのだが。
 そんな愚痴ばかりこぼしていても何も始まらない。
 そんな中で、最近ちょっと気になった事を一つ。

◆最後の一番大事な所が分からない
 新聞の名物コラムはいい事を言う。朝日新聞が「天声人語」なら、読売新聞は「編集手帳」である。その「編集手帳」に、ちょっと古くなったが、6月11日、「悔いの種をまき散らしながら、人は生きていく。(中略)悔恨あっての、負数あっての人生である」との言葉がある。
 その最期の段落が私には分からない。

 「日本一短い手紙」の秀作集から引く。〈あのとき/飛び降りようと思ったビルの屋上に/今日は夕陽を見に上がる〉(中央経済社刊)。心の傷口から血の噴き出す経験をした人だけが、眺めることができる。負の陰翳を身に刻んだ人の目にだけ映る。そういう美しい夕陽が、きっとあるものを。

 この「きっとあるものを」の意味が私には分からない。
 「心の傷口から血の噴き出す経験をした人だけが、眺めることができる」と「負の陰翳を身に刻んだ人の目にだけ映る」は同格だ。その対象が「美しい夕陽」である。そこまでは分かる。だから最後が「そういう美しい夕陽があるのを」なら納得が行く。「そういう美しい夕陽を」でも良い。しかしそうではなく「夕陽があるものを」なのである。
 「…なものを」との言い方はあるし、その意味は分かる。「もう少し早く家を出れば、間に合うものを」などの使い方である。しかしそれは「そういう美しい夕陽がきっとあるものを」の場合とはまるで違うはずだ。この「ものを」は一体、どのような意味なのだろうか。