「あげる」で『問題な日本語』を見たついでに、その下の「使うのはどっち?」を見た。これはすべて同じ人が書いている。「玄関から入る」と「玄関を入る」の意味は同じか、との問題が出されている。
「~から」は起点や通過点を、「~を」は出発や通過の場所を表す、と言うのは正しい。そして「玄関から入る・羽田から出発する」と「船が港を出る」では、意味はほとんど同じで、互いに入れ替えがきくが、「煙突から煙が出る」「裏口から逃げる」「山門を潜る」など、入れ替えのきかないものもある、と説明する。そしてそれで説明は終わり。
確かにおっしゃる通りである。だが、これまた「あげる」と同じく単に情況を説明しているだけである。何で入れ替えが利かないのかを説明してくれなければ、何の役にも立たない。少なくとも『問題な日本語』にはならない。
執筆者は何の説明もしないが(したと思っているのだろうが)、「から」を単に「起点」「通過点」などと言ってしまうから破綻を来すのである。「~を」では同じ「通過」が出て来るのである。そしてそれを今度は「通過の場所」だと言うのである。「通過点」と「通過の場所」の違いは何なのか。そもそも違いなどがあるのか。こんな乱暴な説明は無い。
「から」はその後の動きに視点がある。「玄関から入る」は「入ってその後どうする」と言いたいのである。しかし「を」は違う。その後の事は考慮されていない。今、何をするか、に重点が置かれているのである。
だから、そうした事をまるで考えなければ、「玄関から入る」も「玄関を入る」も同じだと言う事になる。つまり、この説明の通りだ。だからこの執筆者はそうした事をまるで考えていない事が分かる。
船についても同じように考えている。それが間違っているのは「玄関」と同じ。「港から出る」はどこへ行くかに視点があり、「港を出る」なら「出たかどうか」が問題なのである。たとえそのように意識をしていなくても、きちんと考えればそうなる。
「煙突から煙が出る」を「煙突を煙が出る」とは出来ないのは、煙の出た場所が問題ではなく、煙がどうなのかに視点があるからだ。煙では分かりにくいが、山門ならもっと分かり易い。
「山門を潜る」の「潜る」は継続を期待している行為ではない。そこで完結する。だから「から」とは出来ないのだ。従って、それで完結する行為を「山門から潜る」などの言い方には出来ない。
言葉の定義を理屈だけで行い、しかもその定義も曖昧に処理されている。だから解答も曖昧にならざるを得ない。そうした事が次の問題にも現れている。「机の上に置く」と机の上へ置く」の違いである。
「~に」は存在の場所や物事が成立する場所を表す。
「~へ」は方向を表すほか、方向性の希薄な動詞とともに使って、移動した結果として動作・作用が成立する場所を表す。
「こちらに住んで五年になる」ではなく、「こちらへ住んで五年になる」にすると、その場所へ移動するイメージが前面に現れる。
と説明している。
「に」と「へ」の働きを考えればそうとも言える。今は同じように使う人も多いが、元々は「に」と「へ」は明確に違う。最も古くは「沖」に対して「海辺」の意味だと古語辞典にはある。それが移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞の「へ」へと発展した、と説明されている。だから現在地から遠方の関係の薄い所に向かって移行する場合に使われたのだ。その点で一点を明確に示す「に」とは違うのである。それが平安中期以降になると、「こなたへ来る」と言う使い方が現れ、遠方への気持が薄れ、「に」と同じように使われるようになったのである。
だから、理屈を言えば「へ」と「に」は違うが、同じようにも使えるのである。従って、「こちらへ住んで」と言われて、目の前に移動のイメージが浮かぶ人が果たしてどれほどいるだろうか。と言うか、「こちらに住んで」と言われて、移動のイメージが浮かばない人がどれほどいるだろうか。
私など、どっちだって同じで、移動のイメージが浮かぶ。ただ、「こちらへ住んで」は変な言い方だな、とは思う。そのような言い方をあまりしないからだ。
移動のイメージが浮かぶのは「こちら」と言う言い方が担っている。「こちら」と言う以上、「そちら」や「あちら」が前提になっている。「そちら」に対しての「こちら」、「あちら」に対しての「こちら」。そして「住む」と言う動詞。これで移動のイメージが湧かない方がおかしい。
執筆者は「こちらへ住む」が、移動した結果としての場所を表すと言っているが、それは「へ住む」だけに注目していて「こちら」は多分、まるで気に掛けていないはずである。
「住む」が「方向性の希薄な動詞」であるとの認識は正しい。ただし、それは「~に」でも成り立つ事に気が付かない。そしてこの「住む」では「~に」の方が絶対に正しいと私は思う。
一つ一つの言葉をもっと大事に扱いましょうよ。
「~から」は起点や通過点を、「~を」は出発や通過の場所を表す、と言うのは正しい。そして「玄関から入る・羽田から出発する」と「船が港を出る」では、意味はほとんど同じで、互いに入れ替えがきくが、「煙突から煙が出る」「裏口から逃げる」「山門を潜る」など、入れ替えのきかないものもある、と説明する。そしてそれで説明は終わり。
確かにおっしゃる通りである。だが、これまた「あげる」と同じく単に情況を説明しているだけである。何で入れ替えが利かないのかを説明してくれなければ、何の役にも立たない。少なくとも『問題な日本語』にはならない。
執筆者は何の説明もしないが(したと思っているのだろうが)、「から」を単に「起点」「通過点」などと言ってしまうから破綻を来すのである。「~を」では同じ「通過」が出て来るのである。そしてそれを今度は「通過の場所」だと言うのである。「通過点」と「通過の場所」の違いは何なのか。そもそも違いなどがあるのか。こんな乱暴な説明は無い。
「から」はその後の動きに視点がある。「玄関から入る」は「入ってその後どうする」と言いたいのである。しかし「を」は違う。その後の事は考慮されていない。今、何をするか、に重点が置かれているのである。
だから、そうした事をまるで考えなければ、「玄関から入る」も「玄関を入る」も同じだと言う事になる。つまり、この説明の通りだ。だからこの執筆者はそうした事をまるで考えていない事が分かる。
船についても同じように考えている。それが間違っているのは「玄関」と同じ。「港から出る」はどこへ行くかに視点があり、「港を出る」なら「出たかどうか」が問題なのである。たとえそのように意識をしていなくても、きちんと考えればそうなる。
「煙突から煙が出る」を「煙突を煙が出る」とは出来ないのは、煙の出た場所が問題ではなく、煙がどうなのかに視点があるからだ。煙では分かりにくいが、山門ならもっと分かり易い。
「山門を潜る」の「潜る」は継続を期待している行為ではない。そこで完結する。だから「から」とは出来ないのだ。従って、それで完結する行為を「山門から潜る」などの言い方には出来ない。
言葉の定義を理屈だけで行い、しかもその定義も曖昧に処理されている。だから解答も曖昧にならざるを得ない。そうした事が次の問題にも現れている。「机の上に置く」と机の上へ置く」の違いである。
「~に」は存在の場所や物事が成立する場所を表す。
「~へ」は方向を表すほか、方向性の希薄な動詞とともに使って、移動した結果として動作・作用が成立する場所を表す。
「こちらに住んで五年になる」ではなく、「こちらへ住んで五年になる」にすると、その場所へ移動するイメージが前面に現れる。
と説明している。
「に」と「へ」の働きを考えればそうとも言える。今は同じように使う人も多いが、元々は「に」と「へ」は明確に違う。最も古くは「沖」に対して「海辺」の意味だと古語辞典にはある。それが移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞の「へ」へと発展した、と説明されている。だから現在地から遠方の関係の薄い所に向かって移行する場合に使われたのだ。その点で一点を明確に示す「に」とは違うのである。それが平安中期以降になると、「こなたへ来る」と言う使い方が現れ、遠方への気持が薄れ、「に」と同じように使われるようになったのである。
だから、理屈を言えば「へ」と「に」は違うが、同じようにも使えるのである。従って、「こちらへ住んで」と言われて、目の前に移動のイメージが浮かぶ人が果たしてどれほどいるだろうか。と言うか、「こちらに住んで」と言われて、移動のイメージが浮かばない人がどれほどいるだろうか。
私など、どっちだって同じで、移動のイメージが浮かぶ。ただ、「こちらへ住んで」は変な言い方だな、とは思う。そのような言い方をあまりしないからだ。
移動のイメージが浮かぶのは「こちら」と言う言い方が担っている。「こちら」と言う以上、「そちら」や「あちら」が前提になっている。「そちら」に対しての「こちら」、「あちら」に対しての「こちら」。そして「住む」と言う動詞。これで移動のイメージが湧かない方がおかしい。
執筆者は「こちらへ住む」が、移動した結果としての場所を表すと言っているが、それは「へ住む」だけに注目していて「こちら」は多分、まるで気に掛けていないはずである。
「住む」が「方向性の希薄な動詞」であるとの認識は正しい。ただし、それは「~に」でも成り立つ事に気が付かない。そしてこの「住む」では「~に」の方が絶対に正しいと私は思う。
一つ一つの言葉をもっと大事に扱いましょうよ。