夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

問題な日本語・「水が沸く」は正しいのか

2008年08月20日 | Weblog
「湯がわく」は誤りで「水がわく」が正しい?
●説明
 水がわいて湯になるのだから、「水がわく」が正しく、「湯がわく」は誤りだという理屈である。一見正論であるが、言葉の論理としては間違いだ。「水がわく」は現象の変化に、「湯がわく」はその変化の結果に注目していうもので、どちらも正しい表現である。

●疑問
 本当にどちらも正しいと言えるのか。「水がわいたよ」と言う人を、幸せな事には私は知らない。

●私の問題点
 確かに「水がわく」は現象の変化に注目している。だが、その現象の変化を表す言葉が日本語にはある。それが「湯が沸く」なのだ。英語には「湯」に相当する言葉が無い。「hotwater」としか言いようが無い。「湯を沸かす」は「boil water」としか言えない。 現象の変化、変化の結果などと二つに分けてしまうから、おかしな考え方になる。
 「わく(沸く)」の意味を調べる。
●水が熱せられ、あわを立てて盛り上がる、または適温に達する。「湯が沸いたから茶をいれよう」「ふろが沸く」(岩波国語辞典)
●水が煮えたつ。(新選国語辞典)
●水が十分に熱せられ、湯気が立ったり泡が出たりする。「湯が沸く」「ふろが沸く」「生水をよく沸かして飲む」(新明解国語辞典)
●水などの液体が加熱されて熱くなる。「水は沸くと湯になる」「ミルクが沸いて吹きこぼれる」(明鏡国語辞典)

 「沸く」その物が「冷たい物が適温になる」なのだから、その最も一般的な現象として「水が湯になる」がある。だから、「水が沸く」が間違いであるのは当然の話である。従って、普通に「水が湯になる」のではない場合に「生水を沸かす」などの言い方になるだけの話である。
 「水がわく」が正しいのだ、との根拠は、多分、この「明鏡国語辞典」の説明にあるのではないのか。同書と同辞典は同じ執筆者陣で作られている。問題の説明は「水は沸くと湯になる」である。この用例の言い方が間違っているのだと私は思う。自ら「沸く=水などの液体が加熱されて熱くなる」と言っている。「加熱されて熱くなった物が湯」なのだから、「沸く=湯になる」である。だから、「水は沸くと湯になる」の言い方は間違いになる。なぜなら、この言い方は「水は湯になると湯になる」と言っているのと同じだからだ。
 しかし、この辞典の執筆者もそれに気が付かない。同辞典におかしな用例があるのはこうした、言葉が分かっていない事が原因なのだろう。
 
 これとは別に一つ気になった事がある。
 「水がわく」が正しく、「湯がわく」は誤りだという理屈は、一見正論だが、言葉の論理としては間違いだ。
 と言う論理展開が分からない。なんで、「一見正論だ」になるのか。我々の常識では、「湯がわく」が正しく、「水がわく」は誤りだという理屈は、一見正論だ、になるのではないのか。そしてそれが「言葉の論理としては間違いだ」になる。
 私は「言葉の論理として間違いだ」とは思わないのだが、こうした論理展開は可能だろう。その論理が「現象の変化」と「変化の結果」の違いがあるのだ、になる。
 そして、実はこの言葉の論理が間違いなのだ、と私は考えている。
 この二つの言葉は確かに違う。だが、「現象が変化」すればそこには必ず「結果」がある。言い替えれば、「変化=結果」になる。「結果」を想定しない「変化」は無いだろうし、「変化」を想定しない「結果」も無いだろう。二つが明確に違うのだと言うなら、「現象の変化」と「変化の結果」の両方に存在する「変化」の違いと言うか、一つの「変化」が一体、どこで二つに切れるのか、を説明して欲しい。
 もっと言うなら、「現象の変化」の「変化」はどこまでで終わり、「変化の結果」の「変化」はどこから始まるのか。
 「水→わく→湯」になるのではない。「水→わく=湯」なのだ。「変化=結果」である。

 言葉の論理とは「1+2=3」のような計算ではない。こうした計算が成り立たないけれども、考え方として成り立つと言う所に「言葉の論理」はあるのではないのか。この執筆者はとても頭の良い人で、多分、常に頭の中には計算があるのだと思う。それですべてを割り切る。だが、言葉はそんなに単純には割り切れない。そこから、様々なおかしな論理が生まれている。
 算数と国語は違う。算数には国語にある曖昧さは存在しない。反対に国語には算数にある計算は存在しない。だから国語に計算を持ち込み、国語から曖昧さを取り去ってしまうから、話が間違ってしまうのである。ここで言う「曖昧さ」とはいい意味での曖昧さであって、言い替えれば「情緒」などの言葉になるのだろう。
 こうした癖はこの執筆者だけではなく、同じグループに共通していると私は思っている。良い意味での曖昧さを的確に判断出来ないのである。