夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

問題な日本語・老骨に鞭打つ

2008年08月19日 | Weblog
 非常に考えさせられる所の多い事柄が満載(嫌みではありません)されているので、どうしても『問題な日本語』から目を離せない。
●問題
 「老骨〈に・を〉鞭打つ」はどっち? 

●説明
 ~ニなら自動詞、~ヲなら他動詞、両方言えるならば自他動詞。「鞭打つ」は自他動詞。「馬(に・を)鞭打つ」の場合、~ニは「馬に鞭を当てる」、~ヲは「馬を鞭で打つ」といった気持ち。比喩的に使う「老骨」の場合も同様。なお、「老体に鞭打つ」を誤りとする意見もあるが、いかがなものか。

●私の問題点
 非常に乱暴な考え方だとは思わないだろうか。「老骨」を比喩的に使う場合だと言いながら、それは「馬」と全く同じだ、と言うのである。ねえ、この場合の「馬」って、比喩的ですか?
 じゃあ、その「馬」の比喩的な意味って何なのか。
 いえいえ、私はそうは言っておりません、と執筆者は言うのだろう。「馬」の場合と、比喩的な「老骨」の場合が同じだと、そう言っているのです、と。
 それでは、「馬に鞭を当てる」と「馬を鞭で打つ」の違いは何なのか。「といった気持ち」などと言われたって、私には一向に分からない。
 そして辞書の「鞭打つ」には「鞭を当てる」「鞭で打つ」の用例は無い。あるのは「鞭を入れる」「鞭打つ」である。そして「鞭打つ」は比喩的な言い方である。この「鞭で打つ」と「鞭打つ」は違う意味のはずだ。

 「鞭打つ」の比喩的な意味を各辞書で引く。
1 励まして奮いたたせる。「なまけ心に鞭打って仕事をする」(岩波国語辞典)
2 はげます。鞭撻する。(新選国語辞典)
3 自分を励まして、何かをしようと努める。「老骨に鞭打つ」「怠け心に鞭打って」(新明解国語辞典)
4 はげます。ふるいたたせる。鞭撻する。「老骨を鞭打つ」「老骨に鞭打つ」(明鏡国語辞典)

 1と2には「老骨」の用例が無いので、同じ辞書の「老骨」の項目で調べる。
 どちらも「老骨に鞭打つ」で、「老骨を鞭打つ」は無い。

 「老骨を鞭打つ」が用例としてあるのは「明鏡国語辞典」だけである。念のために「大辞泉」と「広辞苑」も見るが、どちらにも「老骨を鞭打つ」は無い。
 「老骨に鞭打つ」は「に」だから比喩的になるのである。「老骨に打つ」などの言い方はしないからだ。本当に打つつもりがあるのなら、「老骨を打つ」とする。だから「老骨に鞭打つ」は比喩的な言い方にしかならない。だから残酷には響かないのである。
 つまり、「老骨を鞭打つ」と言う「明鏡国語辞典」は、「鞭打つ」の意味がまるで分かっていないのである。いや、そうではない。説明はきちんと正しく出来ている。だから「老骨を鞭打つ」が成り立たない事は分かるはずなのに、分かっていない。
 そうなると、同書の説明は一体どのように導き出されて来たのか、と新たな疑問が生まれる。はっきり言うと、この説明は用例から導き出された結果ではない。「老骨を鞭打つ」から、「励ます・鞭撻する」などの意味が出て来たと言うのなら、何とも言語感覚のお粗末な人々だなあと思ってしまう。それが、「老体に鞭打つ」を誤りとするのはいかがなものか、と執筆者が疑問を呈する事に繋がっている。揃いも揃って、お粗末である。

 さてさて、ここでまたしてもおかしな説明が始まっている。
 私は「老体に鞭打つ」などの言い方を今の今までついぞ聞いた事が無い。しかしそれを執筆者は間違いとは言えない、と言う。しかし、「老体」と「老骨」はニュアンスが違うだろう。
 そこで今度は「老骨」をきちんと調べなくてはならなくなる。全く世話の焼ける事だ。簡単に二冊だけにする。
 「新明解国語辞典」には「老骨=年とって力の弱くなった(自分の)からだ」とある。 肝心の「明鏡国語辞典)には「老骨=年老いて衰えた体」とあり、「老人が自らをへりくだっていう語としても使う」とある。
 二冊だけにしたのだが、そうも行かなくなっている。調べた六冊の辞書では、自分とも他人とも言わない説明が二冊、残りの四冊はすべて「へりくだった言い方でもある」との説明がある。
 そう、普通には「老骨」は他人を指さない。他人を指したらまことに無礼千万。それに対して「御老体」は「明鏡」自身「老人の敬称」とある。ほとんどの辞書が「ご老体」の言い方を載せている。つまり、「老体」は他人を指すのである。もっと分かり易く言うなら、「ご老骨」とは言わないし、「老体に鞭打つ」とは言わないのである。何で、そんな事が分からないのだろうか。
 多分、この人は「枯木も山の賑わい」を年寄りの謙遜の言葉ではなく、褒め言葉だと思っているに違いない。そうと思いたくもなるではないか。

 大体が「鞭打つ」は刑罰である。サドやマゾじゃあるまいし、それで喜ぶ人がいるか? それでも、「鞭打つ」は自分にだからこそ言えるのであり、それも比喩的だから通用するのである。他人を鞭打つ、しかもそれが「老体」ときている。そんな励ましがあるもんか。そんな残酷な事があるもんか。
 「老体に鞭打つ」を間違いではない、と言い切る執筆者は、まず第一に「鞭打つ」の意味が分かっていない、第二に「老骨」と「老体」の違いが分かっていない。「老骨=老体」だ、などと考えているのである。
 特にこの「老骨=老体」の考え方は無惨である。単に「老」は共通で「骨」と「体」の違いだけしか無く、その「骨」と「体」は同じ物を指している、と単純に自分勝手に決めつけただけと言う事がまざまざと分かってしまうのである。
 自分達で作っている辞書が、これまた間違っているのだが、その説明さえもきちんと読んでいない。ここまで来れば、もう、言う事無し。これはこれで立派だとさえ言える、と私は思う。

 こうした事は他の人にもある。テレビのクイズ番組では、著名な国語学者が、「叩く」は悪意が無く、「ぶつ」は悪意がある、とわずか二例の小説での用例を挙げて説明した。古い歌だが奥村チヨに「悪い時は、どうぞぶってね」と言う歌詞がある。悪意をもってひっぱたいてくれ、と言っている事になる。それに高座で一席ぶたれたら、怒り狂ってしまう事になりかねない。子供が「先生にぶたれた」と親に言ったら、親は学校に怒鳴り込まなくてはならなくなる。そして「どうか、ぶたないで、叩いて下さい」と言うのか?
 いい加減な事をもっともらしく言う人はたくさん居る。

私の物の捨て方

2008年08月18日 | Weblog
 毎日、言葉について、他人の書いている事を批判していたら、我ながら嫌になった。でも、「を」と「に」の違いなど、普通はなかなか考え付かない。誰かが質問をして、それが本になって、初めて気が付くのではないのか。だから、どうしても、批判になってしまう。もちろん、正しい事が書かれていれば、そんな事にはならない。
 それに、結果的には個人の批判になってしまうが、本心は恰好の材料として、情報を発信するとはどのような事なのか、もっと言うなら、出版とはどのような事なのか、を問題にしているつもりである。情報は無料でも得られる。しかし出版物は有料なのだ。ひとさまからお金を頂戴している以上、いい加減な事では済まされないと思うからである。
 まあ、私の性格の悪さばかりではないと思うが、取り敢えず、今日は一時お休みにしたい。そこで、話は「物の捨て方」について。

 7年以上使っている扇風機が動かなくなった。息子がシャワーの後にドライヤーを使う時暑いと言うので、一年中出しっぱなしで、短時間だが毎日使う。それがある日突然に動かなくなった。「入・切」のスイッチが何の反応も示さない。ほかのすべてのスイッチを押してもぴくりともしない。何度やっても駄目。多機能でいい製品だったが、今は直すより買った方が安い。電気店でもそう言う。部品は安いが技術料が高い。

 扇風機は簡単には捨てられない。そこでひとまず、邪魔にならない所に退避させておいた。邪魔にならないから、捨てる動作になかなか結び付かない。そのまま3週間ほど経って、ふと、何となく扇風機が回るような気がした。息子と二人で、ああでもない、こうでもない、と色々といじくり回し、それを一日だけではなく、日を置いてやった。それでも動かなかったのに、なぜか、動く、と思った。
 コンセントに差し込み、スイッチを押す。やはり駄目だ。そしてすぐ隣の強弱調整ボタンを押したら、何と、動いたのである。前には駄目だった同じ動作が今度は有効になったのだ。自然の風のように強さを不規則に変えるボタンも、首振りの角度調整ボタンも、首振りの方向決定ボタンも、すべてきちんと作動する。そして「切」も利くのだ。ただし、「入」だけは利かない。
 同じ事を何度も繰り返してみて、それがまぐれではない事を確認した。そうすると、なんで前には動かなかったのか、と不思議なのだが、最近のメカは微妙だから、そんな事もあるのだろう。いずれにしても動くのだから良いではないか。メーカーに相談したが、見てみない事には分からないと言う。買うより高くては意味が無いし、すでに新品を買っている。結局、様子を見ながら使う事に決めた。

 何を言いたいのかと言うと、何でもすぐに捨ててしまわない、私の貧乏根性が良い方に転んだのである。だからと言って、他のすべてもそうだ、とはならないのだが、まあ、一応、冷却期間と言うか、考慮期間は必要だろう。
 本などをすぐには捨てられない場合、期日を決めておいて保管し、期日が来たら捨てる、と言う方法を提案している人が居る。この扇風機の場合、それと似ているのだが、実は本などはそうはならないと思っている。
 本を入れた「考慮中」の箱はどこに置くのか。目に付く所では毎日自分の優柔不断さを見せつけられているようで気分が悪いから、目に付かない所に置く。そうすると保管している事を忘れてしまうだろう。それではいつになっても捨てられない。
 そして、いい具合に期日が来た時に気が付いたとする。ああ、期日だな、とそこで簡単に捨てられるだろうか。もし、そこで捨てられるなら、それはもっと前でも捨てられる。実際に、期間を短縮したらどうなるか。例えば、具体的にその期日を、1年だったら半年にしてみる。半年なら3カ月に、3カ月なら1カ月に、1カ月なら2週間に、どんどん短くすれば、結局は、どうしようか、と迷った時に捨てられるのではないか。
 期日が来たとき、何が入っていたのかと、中身を確認したら、振り出しに戻る事は誰もが知っている。だから、見ずに即刻捨てる。それが出来るのであれば、捨てようか、と思った時に捨てられる、と私は思う。それとも、1年とか半年といった熟慮期間が必要なのか。
 「熟慮」とか「考慮」とは言うが、決して熟慮も考慮もしていない。単に忘れているだけに過ぎない。だが多くの場合、この言葉に騙される。多分、書いている本人も騙されているに違いない。つまりは、その忘れていた「期間」が必要なのだ。

 この「期間」は「熟慮・考慮」のためではない。「忘れる」ために必要なのだ。だから1カ月とか半月なら多分、忘れはしないだろう。だから捨てられない。先にその期間をどんどん詰めて、と言ったのはそうした事である。1カ月とか2週間で捨てられるのは、それだけの期間で忘れる事が出来たのであり、それはつまり、初めから不要品なのだ。期日が来て、中を見てしまうと捨てられなくなるのは、せっかく忘れたのが元に戻ってしまうからだ。だから再び忘れるための期間が必要になる。
 「忘れる」を言い替えれば、「執着心が無くなる」である。

 結局、本だけでは済まない。優柔不断な人間は何でも捨てられない。そうした「一時保管」の箱が家じゅうにごろごろしているのを想像してみたらいい。「一時保管」をして処理せよと提案している人は、本当に自分でそうしているのかと、大きな疑惑がある。もしかしたら、頭で考えているだけで、自分は実行などしていないのではないか、と。
 世間にはこの手の本は無数にある。一見、役に立ちそうなのだが、本当に実現可能なのか、と疑ってしまうような事が多々書かれている。
 捨ててしまった本で、後で必要になり、もう一度買い直した経験は二度だけある。でもそれは何百冊もの中のわずか二冊に過ぎない。1%以下の確率なのである。しかも、必要になったのは、何年も経ってからの事である。本以外の物で、しまった、と思った事もあるにはあるが、悔しいと思ったのはその時だけで、その内に忘れてしまった。やはり、要らない物は要らないのである。そして捨てられないのは「執着心」のなせるわざなのである。



問題提起が間違っている問題な日本語

2008年08月17日 | Weblog
 続けて発信している「(私の)問題な日本語」は以前に自分の書いた未発表の原稿を下敷きにしている。以前に書いたその原稿を改めて読み返して驚いた。ほとんどの部分を書き直さなくてはならないのだ。きちんと考えて書いたはずなのに、言い足りない事、考えが不足している点が多々あるのだ。わずか1年くらいでそんなにも考えが変わるのか。自分の考え方はそんなにも杜撰だったのか。
 これは私にとっては致命的な事である。たとえ出版物にはならなくても、私の考え方を練る訓練になっている。こんな杜撰な考え方では何の足しにもならないではないか。
 そしてその原因に気が付いた。『問題な日本語』の執筆者の考えに引きずられているのである。だらしがないが、そうなのだ。執筆者は問題を非常に簡単にまとめてしまう。複雑な事柄をたくさん引きずっているにも拘わらず、ごく単純にまとめてしまう。そこから問題がずれてしまう。だからそこから生まれる解答が正しいとは思えない。

 私はいずれもその解答だけを見て、これはおかしい、と色々と考えている。8月15日のテーマがその典型的なケースだった。
 「あの子は父親に似ている」「あの子は父親と似ている」の「に」と「と」の違いが、「僕の家は駅に近い」「太郎は花子と結婚した」の「に」と「と」の違いと同じだとしてしまう。そして「似ている」では「に・と」ともに正しいが、「に」の方が適切と感じる人もいるだろう、と言うのである。それに対して「あの父親は息子に似ている」は誤用とみなす人も多いだろうと結論を出す。
 その理由が、前者は基準が父親だが、後者は基準が息子になっているからだ、と言うのである。

 お分かりだろうが、論理が非常に乱暴である。着実に論理を積み重ねるのではなく、大きな飛躍がある。飛躍と言うと聞こえがいいが、実は断絶である。馬鹿な事に私はその断絶に気が付かなかった。
 なぜなら、執筆者に誘導されて、最初は「あの子は父親に似ている」「あの子は父親と似ている」の「に」と「と」がどちらでも良いのはどうしてか、そして「に」の方が適切とも思われるのはなぜなのか、だけにしか頭が回らなかった。
 最後には、息子を基準にする事がなぜ誤用とみなされるのか、だけしか考えなかった。
 問題の提起がそのようになっているからなのだ。そしてそれを私は、自分なりに分かり易く整理してしまった。そこに大きな間違いがあった。駄目なものをまとめれば、更に駄目になる。
 つまり、私の言いたいのは次のような事だ。
 問題が出されれば、普通はそれに沿って考える。その問題は正しい認識で作られていると思う。ところが問題がおかしいのである。おかしな問題提起で正しい答が得られるはずが無い。
 問題がおかしいのは、考えが足りないからである。問題を根本的な所から考えるのではてなく、皮相的にしか捕らえていない。これは傲慢な見方でも、不遜な見方でもない。そうだから、そうだとしか言いようが無い。
 こうした問題の出し方は百害あって一利無しと言える。同執筆者の同じコラムはほとんどが説明不足になっている。中には明らかに間違いと思える場合もある。あるいは単なる現状認識に終わっている。前にも書いたが、現状がこうなんですよ、と言う指摘は無意味とは言わないが、我々にとっては何の力にもならない。それは文化庁の国語調査でも同じである。
 スペースが足りないのだ、は理由にならない。スペースが無いからいい加減になるなら、説明はするべきではない。きちんとした学者なら、二つの項目を一つに削っても、正しい分かり易い答を導き出す義務がある。

 執筆者が気が付かなければ編集者が気付く必要がある。更には校閲者だって存在している。このグループの指導者は、「事・こと」の書き分けで、テレビは校正がきちんと出来ていないから間違った表記などを許していると言うのだが、それはそのまま「熨斗(のし)を付けて」お返しをしたい。
 そして分かった事は、同書には編集者も校閲者も存在していない、である。あれっ? そうなると、出版社の仕事って何なのだろう。

私の問題な日本語・被害者に取材する

2008年08月16日 | Weblog
 問題な日本語の続き。ちょっと体裁を変えた。 
●問題
 「記者は被害者を取材した」「記者は被害者に取材した」どっち?

●説明
 「~〈を・に〉取材する」では、 ~ヲには「記事にしたいと思う対象物」が、~ニには「情報の発信源がくる。「受章者(選挙戦)を取材する」といえば、それを内容とする記事が、「受章者(選挙戦)に取材する」といえば、そこから得た情報の記事が書きたいのである。「選挙戦を幹事長に取材する」とすれば、対象と情報源の関係がよりはっきり見えてくる。

●私の問題点
 「被害者を取材する」では「被害者=対象物」で、「被害者に取材する」では「被害者=情報の発信源」の考えが全く分からない。しかしそれが、「選挙戦を幹事長に取材する」とすれば、対象と情報源の関係がよりはっきり見えてくる、といとも簡単に片付けられてしまっている。これで分かった読者に私は心から敬意を表したい。
 「選挙戦を幹事長に取材する」と「(被害者を/被害者に)取材する」は大いに違う。「選挙戦を幹事長に取材する」を二つに分けてみよう。
・選挙戦を取材する
 これが執筆者の言うように、「選挙戦=対象物」なら、何を取材する、と言うのか。これでは全く分からない。これで分かるなら、「交通渋滞を取材する」とか、何でも対象になる。そうではなく、その対象の「何」が実際の対象になるのかが問題なのだ。
・幹事長に取材する
 これまた執筆者の言う通りなら、「幹事長=情報の発信源」である。それでは何を取材するのか。これまた分からない。幹事長の仕事は様々ある。

 これが「選挙戦を幹事長に取材する」となって、初めて、少しだけ分かって来る。選挙戦について、幹事長に何かを聞きたいのだな、と。これは二つが揃って初めてきちんとした文章になる。ただし、内容は明確ではないが。でも、そんな事は初めから分かっている。「~を~に取材する」の意味の分からない人が居るだろうか。
 そして、これは「被害者を」「被害者に」の問題とはまるで違うのである。同じだと言うなら、「被害者を被害者に取材する」の言い方が成り立ってしまう。屁理屈ではない。つまり、「被害者を取材する」「被害者に取材する」の二つと、「選挙戦を幹事長に取材する」とは違うのだ。そして面白い事には、「被害者を取材する」「被害者に取材する」の二つと、「選挙戦を幹事長に取材する」は、形は違うが、結果的には同じ事になるのだ。
 それを「対象と情報源の関係がよりはっきり見えてくる」と言って済ませてしまう。だからこれで分かるなら敬意を表する、と言ったのである。

 更には、「被害者を取材する」と「被害者に取材する」も、結果としては同じになる。単に、誰に取材するかの違いがあるだけだ。「被害者を」なら被害者の周辺の誰かになるし、「被害者に」なら被害者本人になる。
 取材したいのは被害の実態である。それ以外には何も無い。本人に取材すれば「悔しい」とか「悲しい」などと、被害者本人の気持が分かる。しかしそれは聞くまでも無い事だ。被害者が亡くなった場合など、マスコミは「挨拶のよく出来る子だった」とか「はきはきした明るい子だった」などと言う周辺の声を取材したりする。それが一体何だと言うのか。もし「挨拶の出来ない子」だったり「はきはきとしていない暗い子」だったらどうだと言うのか。もちろん、そんなつもりは毛頭無いだろうが、しなくても良い取材をしてそれで取材が出来た、と勘違いをしている。

 「受章者」の場合は多少違うだろう。「を」にしても「に」にしても、受章にまつわる様々な事を聞きたいのは同じである。だが、この場合には受章に繋がった苦労話や工夫などの直接的な事ばかりではなく、生い立ちなども聞きたいだろう。それが被害者の場合とは大きく異なる。守るべきプライバシーの範囲が違って来る。
 そうした事を考えれば、安易に「被害者」と「受章者」を一緒にする事は出来ない。ましてや、「選挙戦」や「幹事長」と同じには出来ない。

 間違いの一つは「対象」と「情報の発信源」を違うとした事にある。被害者とか受章者のようにそれが人間であれば、「対象=情報の発信源」にもなる。人間は口がきけるのですよ。だから「選挙戦に」とは出来ないのである。
 間違いの二つ目は、「選挙戦を幹事長に取材する」の意味が分かっていない事にある。つまり「を」と「に」の役目の違いが分かっていない。上に「選挙戦に、とは出来ない」と書いたが、それは「選挙戦に幹事長に」とは出来ない、との意味である。「選挙戦に取材する」は通用する。単に「誰に何を」が抜けているだけである。従って「選挙戦を取材する」も成り立つ。「選挙戦を誰々に何について取材する」との話になるからだ。

 先に、これで分かれば敬意を表する、と言ったが、実はよくよく考えてみると、難しい話なのではない。単に「を」と「に」の違いの話なのだ。だから誰にでも分かるはずなのだ。分からないのは説明の仕方である。
 だが、多分、読者はそうした説明の仕方にまで踏み込んで考えてはいないらしい。だからこの「使うのはどっち?」のコラムは成立しているのである。多分、誰も何も文句を言わない。だから、第二弾、第三弾が出ているのである。後の二冊が最初とは全く考えが違うはずが無い。実際に私はそのほんの一部を立ち読みしたが、まるで同じだった。中身が入れ替わっているだけに過ぎない。

 この「に・を」の問題では、別の問題にも関わって来る。長くなるので、それは次回に。

問題な日本語・あの子は父親に似ている

2008年08月15日 | Weblog
 「あの子は父親に似ている」「あの子は父親と似ている」どっち?
 これが今回の問題提起である。そして次に示すのが執筆者の解答のすべてである。

 「~に」は比較の基準となる相手を、「~と」は対等の立場にある相手を表す(僕の家は駅に近い/太郎は花子と結婚した)。
 表題では「に・と」ともに正しいが、基準を固定的に扱った「に」のほうが適切と感じる人もあろう。息子を基準にする「あの父親は息子に似ている」は、誤用とみなす人も多いだろう。
 
 「基準を固定的に扱った」の意味が分からない。そしてこの話が難しくなっているのは、「基準と対等」の問題と、基準が「子の場合と父親の場合」の問題を一緒にして説明しているからだろう。
 まずは「に」と「と」の問題から。
 用例にある「太郎は花子と結婚した」は「太郎は花子に結婚した」とは出来ない。それを執筆者は、花子が比較の基準ではなく、対等の基準だからだと説明している。そうは言ってはいないが、文脈からはそうとしか理解出来ない。
 本当にそうだろうか。その疑問を解く前に、「僕の家は駅に近い」を考えてみる。執筆者の考えなら、駅が比較の基準になる。しかし「僕の家は駅と近い」とも言えるはずだ。少なくとも、そうした言い方はよく目にも耳にもする。その場合、執筆者の考えなら、駅は対等の立場になる訳だ。そうだろうか。

 実は「と」も「比較の基準」である。『新明解国語辞典』は「比定・対比の対象であることを表す」と説明している。そして同書は「と」に、「その動作・作用を行う上で要求される相手であることを表す」の意味も挙げている。と言うか同書ではこれが第一の意味になっている。
 「太郎は花子と結婚した」の「と」は、この動作・作用が要求する対象なのである。「太郎が結婚する」と言う作用の対象が「花子」になる。だから「に」とは出来ないのだ。更に「家が駅と近い」と言えるのは、この「と」が「比定・対比の対象を表す」からなのである。

 次に「に」。同じ辞典の「に」には「その状態を認めさせるものとしての基準や対象を表す」が意味の一つとして挙がっている。「あの子が似ている」と言う状態を認めさせる対象あるいは基準が「父親」なのである。
 比定・対比の対象を表す「と」を使えば、「あの子は父親と似ている」になる。
 どちらも正しいのは当然である。「に」の方が適切だと感じるのは、こうした事とは別の問題で、この二つは違う意味がある。例えば「父親に瓜二つ」と「父親と瓜二つ」の言い方を比べてみる。
 ここで執筆者が説明をしている「比較の基準」と「対等の立場」の言葉が生きて来る。「子は父親に似ている」はまさに「比較」なのだ。それに対して「子は父親と似ている」は「対等」と言うよりも「同質」なのである。はっきりとそうだとは言わないまでも、そうした気持がこの言い方には込められているはずだ。
 じゃあ、執筆者の説明は正しいじゃないか、とは残念ながらならない。その説明を「駅に近い」「花子と結婚した」と同じだと言っているから、そこで間違ってしまっている。

 最後に「あの父親は息子に似ている」がなぜ誤用とみなされるか、である。
 なにゆえに、ここには「あの父親は息子と似ている」が出て来ないのか。
 執筆者は息子を基準にしているから、誤用とみなされるのだ、と言う。確かに順序から言えば父親が息子に似ているのはおかしい。息子が父親に似ているのである。
 だから、「に」であろうと、「と」であろうと、誤用とみなされてもおかしくはない。執筆者の考えでは「と」は対等の関係なのだから、息子と父親が対等ではない以上、「あの父親は息子と似ている」が出て来ないのは当然である。
 しかし、実はそうではない。ここでは「対等」は何の関係も無い。「あの父親は息子に似ている」も「あの父親は息子と似ている」も、どちらも成立する。これは皮肉っぽい言い方になる。なにしろ、親子の立場が逆転しているのである。だから、普通の言い方なら「あの父親は息子に似ている」とは言わないのだ。「あの父親は息子と似ている」にしても同じである。

 肝心の『明鏡国語辞典』の「と」の説明を見よう。
 同書では10挙げられている格助詞の意味の中で、「比較・類別の際に照合される相手を表す」が該当する。その説明に次のようにある。
 「と」は相互関係にある一方を表すので、「父は子と似ている」「子は父と似ている」という言い方が可能だが、「に」は比較の基準を表すので、「(顔立ちが)子は父に似ている」とは言えても「父は子に似ている」とは言い難い。

 ここには「あの子は父親に似ている」の方が適切と感じる人もあろう、に相当する説明は無い。そのような事はこの辞典は考えていないのである。
 そしてこの「父は子と似ている」だが、「比較の基準だから、そうは言えない」と言うその考えがやはり分からない。なぜ子を比較の基準には出来ないのか。ここには子は親から生まれたのであり、その反対はあり得ない、との考えがしっかりとあるはずだ。それは正しいが、それと「比較の基準」とは話が別だろう。子を基準にして親を考えてどこが悪い。「子供を見れば親が分かる」の格言を知らないのか。この場合、親は子が基準にされているのである。

 でも、何で「と」の説明に「に」を使うのか、不思議だ。しかもまるで説明不足である。それに、自分達の辞書の説明もきちんと理解出来ないと言う事がそもそも信じられない。

問題な日本語/山に登る・山を登る

2008年08月14日 | Weblog
 昨日はごめんなさい。発信し損ないました。
 始めたら次々に面白い事に出くわすので、やめられなくなった。『問題な日本語』の事である。
 「山に登った」と「山を登った」の意味は同じか? 「山を登る」は誤用か? との問題である。
 説明は次の通り。

 「~に」は到着点を表すので、「山に登った」は頂上に着いたのである。「山を登る」の「を」は、山の山麓から頂上に至る移動の地点を表すもので、この文全体で、山を上方に移動する姿が目に浮かぶ。誤用ではない。
 「単独行で冬山を登る」「はしごを上って屋根に上がる」のように言うと、その正しさがはっきりする。

 なるほど、「山を登る」は誤用とは言えないのか。でもあまりそうした言い方はしない。どんな時に「山を登る」と言うのだろう。それが上の説明の「移動を表す」になるらしい。ただ、私は「富士山に登る」なら分かるが、「富士山を登る」は分からない。「どの山を登るの?」と聞かれて、「富士山を登るんだよ」と言うのだろうか。そして「富士山に登る」だって、十分に「上方に移動する姿」が目に浮かぶ。「登る」で「上方への異動の姿が目に浮かばない人が、私は思い浮かばない。
 もし、この執筆者の言う通りなら、「富士山に登ったが頂上までは行けなかった」と言う言い方は間違いになる。「富士山頂に着いたのだが、頂上までは行けなかった」と言っている事になるからだ。執筆者の考えでは、こうした場合には「富士山を登ったが」と言わなくては間違いになる。本当にそうだろうか。そして多くの人々がこのように使い分けているのだろうか。
 「槍ヶ岳に登ろう」と仲間を誘った場合、執筆者の考えなら山頂に立てる人しか参加出来ない。山頂に立つ自信の無い人は、「槍ヶ岳を登ろう」と誘われるのを待つしか無い。あははは。そんな馬鹿な。

 有名な登山家に「なぜ山に登るのか」と聞いた話がある。答は「そこに山があるから」だった。「山と見れば、登らずにはいられない」と言うのかも知れないが、私はその答の意味を「山が高いから、山頂に立ちたいからではなく、山と言う魅力的な地域に入りたいからだ」あるいは「山が呼んでいるのだ」と解釈した。
 執筆者の考えなら、この質問者は「なぜ山頂に立ちたいのですか」と聞いた事になる。
 エベレスト「に」登った登山家で無念にも途中で引き返した人は何人もいる。そうした場合、「彼はエベレスト〈を〉登ったが、途中で断念せざるを得なかった」と書かなくてはいけないのか。そして記事はすべてそうなっているのか。

 「単独行で冬山を登る」が、山頂に立つのではなく、「山麓から上に向かって移動する」のだとの解釈は独自の解釈としか思えない。
 「冬山を」に対して、「はしごを上って屋根に上がる」の用例を出しているが、おかしい。確かに「はしごに上って屋根を上がる」とは出来ない。しかし出来ないのは当然なのだ。出初め式じゃないんだから、「はしご」は上る手段に過ぎず、したがって、到達の目的にはならない。「屋根」は到達の目的であって、到達の手段ではない。でも「はしごに上って屋根に上がる」でもおかしくはないではないか。
 こうした話と「冬山を登る」「冬山に登る」が同じだと言うのか。
 ここには、「~を」はこのような意味だ、「~に」はこのような意味だ、と言う原則論しか無い。その原則が通るならそれでもいい。
 執筆者の関わっている辞書で助詞の「に」と「を」を見ると、延々と説明が続く。持っている他の小型辞書よりも遙かに多い。極端に違う場合には、3倍も4倍もある。他の言葉でもそうだが、この辞書はいったいに説明が長い。それだけ詳しい説明があるのかと言うと、決してそうではない。おかしな説明がいっぱいある。細かく分け過ぎておかしくなってしまうのだ。
 つまり、理屈をこね過ぎてどうしてもおかしな事を言い過ぎてしまう。理屈にこだわると、現実から離れてしまう危険性がある。どの辞書にもおかしな説明はあるが、度が過ぎている。多分、執筆者を始めとするこのグループ共通の性格なのだろう。

 「~に登る」と「~を登る」の違いなどよりも、「登る」と「上る」の違いの方がずっと大きいと私は思う。そしてこの使い分けは辞書によって異なるのである。表記辞典も国語辞典もそれぞれに違うと言う事では同じである。「に」と「を」の使い分けよりも遙かに難しい使い分けなのだ。「に」と「を」なら感覚的にも分かるが、「登る」と「上る」はそれこそ理屈で考えないと分からないのである。そうした事をなぜ無視するのか、なぜ気が付かないのか。不遜ながらも、私は多分、考えられないのだろうと、思っている。

「問題な日本語」/「玄関から入る・玄関を入る」

2008年08月12日 | Weblog
 「あげる」で『問題な日本語』を見たついでに、その下の「使うのはどっち?」を見た。これはすべて同じ人が書いている。「玄関から入る」と「玄関を入る」の意味は同じか、との問題が出されている。
 「~から」は起点や通過点を、「~を」は出発や通過の場所を表す、と言うのは正しい。そして「玄関から入る・羽田から出発する」と「船が港を出る」では、意味はほとんど同じで、互いに入れ替えがきくが、「煙突から煙が出る」「裏口から逃げる」「山門を潜る」など、入れ替えのきかないものもある、と説明する。そしてそれで説明は終わり。
 確かにおっしゃる通りである。だが、これまた「あげる」と同じく単に情況を説明しているだけである。何で入れ替えが利かないのかを説明してくれなければ、何の役にも立たない。少なくとも『問題な日本語』にはならない。

 執筆者は何の説明もしないが(したと思っているのだろうが)、「から」を単に「起点」「通過点」などと言ってしまうから破綻を来すのである。「~を」では同じ「通過」が出て来るのである。そしてそれを今度は「通過の場所」だと言うのである。「通過点」と「通過の場所」の違いは何なのか。そもそも違いなどがあるのか。こんな乱暴な説明は無い。
 「から」はその後の動きに視点がある。「玄関から入る」は「入ってその後どうする」と言いたいのである。しかし「を」は違う。その後の事は考慮されていない。今、何をするか、に重点が置かれているのである。
 だから、そうした事をまるで考えなければ、「玄関から入る」も「玄関を入る」も同じだと言う事になる。つまり、この説明の通りだ。だからこの執筆者はそうした事をまるで考えていない事が分かる。
 船についても同じように考えている。それが間違っているのは「玄関」と同じ。「港から出る」はどこへ行くかに視点があり、「港を出る」なら「出たかどうか」が問題なのである。たとえそのように意識をしていなくても、きちんと考えればそうなる。
 「煙突から煙が出る」を「煙突を煙が出る」とは出来ないのは、煙の出た場所が問題ではなく、煙がどうなのかに視点があるからだ。煙では分かりにくいが、山門ならもっと分かり易い。
 「山門を潜る」の「潜る」は継続を期待している行為ではない。そこで完結する。だから「から」とは出来ないのだ。従って、それで完結する行為を「山門から潜る」などの言い方には出来ない。
 言葉の定義を理屈だけで行い、しかもその定義も曖昧に処理されている。だから解答も曖昧にならざるを得ない。そうした事が次の問題にも現れている。「机の上に置く」と机の上へ置く」の違いである。

 「~に」は存在の場所や物事が成立する場所を表す。
 「~へ」は方向を表すほか、方向性の希薄な動詞とともに使って、移動した結果として動作・作用が成立する場所を表す。
 「こちらに住んで五年になる」ではなく、「こちらへ住んで五年になる」にすると、その場所へ移動するイメージが前面に現れる。
 と説明している。
 「に」と「へ」の働きを考えればそうとも言える。今は同じように使う人も多いが、元々は「に」と「へ」は明確に違う。最も古くは「沖」に対して「海辺」の意味だと古語辞典にはある。それが移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞の「へ」へと発展した、と説明されている。だから現在地から遠方の関係の薄い所に向かって移行する場合に使われたのだ。その点で一点を明確に示す「に」とは違うのである。それが平安中期以降になると、「こなたへ来る」と言う使い方が現れ、遠方への気持が薄れ、「に」と同じように使われるようになったのである。

 だから、理屈を言えば「へ」と「に」は違うが、同じようにも使えるのである。従って、「こちらへ住んで」と言われて、目の前に移動のイメージが浮かぶ人が果たしてどれほどいるだろうか。と言うか、「こちらに住んで」と言われて、移動のイメージが浮かばない人がどれほどいるだろうか。
 私など、どっちだって同じで、移動のイメージが浮かぶ。ただ、「こちらへ住んで」は変な言い方だな、とは思う。そのような言い方をあまりしないからだ。
 移動のイメージが浮かぶのは「こちら」と言う言い方が担っている。「こちら」と言う以上、「そちら」や「あちら」が前提になっている。「そちら」に対しての「こちら」、「あちら」に対しての「こちら」。そして「住む」と言う動詞。これで移動のイメージが湧かない方がおかしい。
 執筆者は「こちらへ住む」が、移動した結果としての場所を表すと言っているが、それは「へ住む」だけに注目していて「こちら」は多分、まるで気に掛けていないはずである。
「住む」が「方向性の希薄な動詞」であるとの認識は正しい。ただし、それは「~に」でも成り立つ事に気が付かない。そしてこの「住む」では「~に」の方が絶対に正しいと私は思う。
 一つ一つの言葉をもっと大事に扱いましょうよ。

日本語は面白い。「下さい」は命令形なのだ

2008年08月11日 | Weblog
 「下さい」を辞書で引くと、載っていない辞書がある。なぜなのか。「下さい」は「下さる」の命令形に過ぎないからだ。活用形の形で載せている辞書は無い。普通はすべて終止形である。
 でも変だと思いませんか? 「下さる」は「くれる」の尊敬語だ。「下す」は文字通り「移しおろす」である。だから「くれる」が既に恩恵の響きがある。従って「下さる」なら、本当にこちらは肩身が狭い感じになる。
 そんなに肩身が狭いのに、その命令形だと? どこの世界に命令形でお願いをする事があろうか。英語なら「プリーズ」が前に付く。だが日本語の「下さい」はそのままでも通る。
 そして更には、「頂く」が物でも行為でも使えるのと同じように、「ください」も物だけではなく、行為にも使う。「……して下さい」と。
 そしてこれまた、行為の場合には「ください」と仮名書きにせよ、と命令される。
 「お手紙下さい」は手紙その物なら「下さい」で良いが、「書いて」なら「ください」と仮名書きにしなければならないのだと言う。馬鹿を言っちゃあいけません。
 言った側ならどちらの意味で言ったのかは分かる。しかしそうでなければ、分からない。それに言った側だって、物なのか行為なのかを区別しているはずが無い。どっちだって同じ意味なのだ。

 さて、「下さい」は普通はお願いとして使われている。「一列にお並び下さい」は「一列に並ぶ」ようにお願いをしている。
 しかし出自が命令形なのだから、どうしてもその命令の気持は残ってしまう。確かに「一列にお並び下さい」はお願いではある。だが、「一列に並ばなきゃ、乗せてやんないよ」あるいは「売ってやんないよ」と言っているように聞こえないだろうか。
 実際に、どうしても一列に並ばなければならないような情況の下でそう言っているのである。従わざるを得ないではないか。だから、私は言葉はお願いだが、これは強制だ、といつも思って聞いている。
 だからだろう、前に「どうぞ」とか「どうか」を付けて、お願いの気持に近づけようとする。でも、どうせお願いだと言いたいのなら「どうかお並び下さい」ではなく、「どうかお並び願います」と言えば良いではないか、と思う。

 「下さい」の対象が相手の行為だからそうなる。前回の「休ませて頂きます」の対象が自分の行為であるのと対照的である。「休ませて」が自分の行為だから、「休みます」と言う方が素直で気持がいいのと同様に、「お並び」が相手の行為だから「お願いします」の方がずっと素直で気持が良いのだと私は考えている。

「頂きます」は複雑だ

2008年08月08日 | Weblog
 永六輔氏がテレビでいい事を言っていた。
 食事の前の「頂きます」は、「肉や魚や野菜などの命を頂きます」なのだと。だからと言って、肉を大威張りで食べて良い、と言っているのではない。たが、この「命を頂く」はとても重い言葉だ。
 以前、うちは給食費を払っているから、うちの子に「いただきます」と言わせないでくれ、と学校に怒鳴り込んだ母親がいた。もちろん、世間は呆れ果てた。この母親は金さえ払えば何の遠慮も要らないのだと考えている。それは自分も、払った金額の程度にしか見てもらえないのだ、と言う事になるのに気が付かない。

 「頂く」のそもそもの意味は「頭に乗せる」である。そこから「上の者として敬い仕える」の意味が生まれ、更には「上の者からもらう」の意味にもなる。従って、食べ物の場合にも、「神様からもらう」の意味があるのだと思う。それが「頂きます」と言う食事の挨拶になる。
 そうした「頂きます」が「もらう」事の謙譲の言葉として、何にでも使えるようになったのが、「著者から本を頂いた」のような言い方になる。それは物だけではなく、行為にまで及ぶ。「……して頂く」の言い方である。
 これらはすべて「頂く=頭に乗せる」が原義である。だから物を頂く時は、両手を頭の上にまで伸ばして、うやうやしく受け取るのが礼儀である。目の高さでもいいから、その代わりに頭を下げる。これで頭上にうやうやしく捧げ持つ形になる。
 従って「頂く」と漢字で書くのが当然である。それでこそ、明確に意味が分かる。
 だが、表記辞典のほとんどと国語辞典の一部は、「……して頂く」などの行為の場合には「いただく」と仮名書きにせよ、と言う。つまり、「……して頂く」には恩恵などの気持はさらさら無いのだと言っている事になる。違いますか?
 共同通信社の『新聞用字用語集』は飲食の「頂きます」までも仮名書きだと言う。つまり、これは単なる挨拶の言葉であって、然るべき意味は持たない、と言っている事になる。違いますか?

 「頂きます」は自分の行為を対象として使われているが、ではこれを相手の行為に対して使ったらどうなるか。例えば、「並んで頂きます」。並ぶのは相手である。「頂く」は恩恵をこうむる事なのだから、相手には使えない。
 となると、「並んで頂きます」の「並んで」は相手の行為だが、「頂く」のは自分なのであると解釈すれば筋は通る。つまり、自分のために「並んで」となる。言い替えれば「並べ」と命令している事にもなる。「頂きます」との言い方に騙されているだけなのだ。 お疑いなら、自分でそうした言い方をしてみれば分かる。

 店の貼り紙で「本日は休業させて頂きます」と言うのがある。これを『岩波国語辞典』は押しつけがましい表現だ、と説明している。これは他には見られない優れた説明である。同書は次のように言う。

 本来は浄土真宗を信仰する者が仏のお恵みにすがりお許しを頂くという気持で使った言い回しが広まったもの。その気持も無く乱用するのは(相手の了解を取ったことを前提とする表現になるから)押しつけがましい。

 ただ、この説明はあまりうまくはない。「相手の了解を取った」と「仏にお許しを頂く」の関係がよく分からないのだ。神も仏も信じていない人には分からないだろうが、仏はすべてを許してくれる。だから「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」なのである。ここで言う「善人」とは「偽善者」の事だと言う。そんな人間でも仏は許してくれる。その広大な御心なら悪人が許されないはずが無い、と言う。
 つまり、仏は何でも許してくれる。仏が許してくれるくらいだから、相手が許さないはずは無い、と言っているのである。相手の了解を取ったことを前提として、ではなく、仏に許されている事を前提として、と言っているのである。
 仏の許しを得ていると言うのは、無条件に自分の思いが通るのだ、と言っているのと同じになる。すなわち、押しつけがましい。

 そうした理屈抜きでも、「……させて頂きます」と言われると、だって、嫌だって言ったってそうするんだろうが、と言いたくなる。それならなにも、謙譲みたいな言い方なんかするな、と言いたくなる。素直に「本日休業致します」と言えば良いではないか。言っている意味は全く同じなのだ。それなら気持よく受け取れる言い方の方がどれだけ素晴らしい事か。
 多くの人が、その言葉の本当の気持を理解せずに安易に使っている。こうした事を私は拙著『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)に書いた。だが、一般向きとは思われないのか、あまり関心を持ってもらえなかった。『わかってようでわからない日本語』(同)ではそれをもっと徹底的にしているが、やはりあまり読まれていない。
 そこで、これからもその中の話を少しずつ続けて行きたいと思っている。その時とはまた考えも多少は変わっているので。「続けさせて頂きます」などとは言いません。

自然をあなどるな。自分の身は自分で守れ。他人の身を危うくする仕組みを許すな

2008年08月07日 | Weblog
 神戸市で川が急激に増水して死者が出た。警戒警報を出すのに手落ちがあったのでは、と報道された。だが、地元の人ならこの川が急流である事を知っているはずだ。いや、知らなければいけない。背後に六甲の山並みを抱えて、それを毎日のように見ている。ある人は川ではなく、まるで滝のようだ、と言っていた。
 自分の住んでいる所がどのような情況なのかは当然に知っているべきである。市でも良いし、学校でも良い。それを子供にも徹底的に教えるべきだ。この事故の場合、わずか10分足らずで危険な水位になっている。それに間に合うような警報が果たして出せるのか。

 六甲山麓のような条件ではなくても、川は容易に氾濫する。関東平野をゆったりと流れている観のある利根川だって、昔はよく氾濫した。そこで、流れを変えて現在のように銚子で海に注ぐような工事をした。古利根川は東京湾に流れ込んでいる。
 荒川の下流は隅田川と呼ばれる。しかし東京には「荒川」もある。なぜなら、たびたびの隅田川の氾濫を防ぐため、新しく放水路を造ったのである。私の子供の頃、今の荒川は「荒川放水路」と呼ばれていた。
 なぜ「放水路」の呼称は無くなってしまったのか。「荒川放水路」と言えば、なんで「放水路」なんだ? と疑問に思う事が出来る。まあ、思えない人はこの際、抜きにして考える。本ブログは「日本語ワールド」である。疑問があれば、それは隅田川の氾濫を防ぐためだったんだよ、との答もまたある訳だ。そのようにして、川とは危険な自然なのだ、との認識が育つ。
 私の住んでいる近くには色々な親水公園がある。それは運河を埋め立てて造ったから「親水」でも構わないのだが、それだって豪雨の時にはどうなるか分からない。もっとも、そんな時に川に近づく馬鹿はいないが。そして「親水」は自然の河川には通用しにくいだろう。
 我々はあまりにも自然を馬鹿にし過ぎている。現代人は自然と協調するのではなく、自然をねじ伏せて生活している事が多い。だから時々、自然の反抗に遭う。

 神戸市での事故は何ともいたましいとしか言いようが無い。犠牲になった人が悪いなどと言っているのではない。犠牲者は子供である。一人いる成人は地域外の人だったはずだ。だからこそ、自然とは侮れないものなんだ、と認識している必要がある。よく、神を恐れぬ所業と言う。我々は本当に神を忘れてしまった、と私は思う。その神を昔の人は「おてんとうさま」と言った。「天道」である。悪い事をすればお天道様がお見通しだ。
 だが、今はお天道様が居ないから、悪い事のし放題になる。見付かりさえしなければ、やった方が得だ、の風潮を何とか食い止めなければ。
 都市をやたらと改造するのも金儲けだけが目的で、すなわち、お天道様が不在である。

 東京では局地的な豪雨でマンホールの工事をしていた人達が流されて、犠牲になった。まだ行方の分からない人もいる。マンホールは金儲けのためではないが、都会の地下は金儲けの目的もあって魔物の住みかのようになっている。何がどうなっているのか分からない。この事故では孫請けの人々が犠牲になっている。傷ましい事には、撤収する際には機械類を回収するのが決まりになっいて、それで逃げ遅れたらしい。人命よりも機械の方が大切なのか。
 東京都は一滴の雨でも工事を中断する事に決めたと言う。英断である。でも、発注元が東京都で、元請けがあり、下請けがあり、そして孫請けがある。その都度マージンを取られて、一体、孫請けはどのような料金で請け負っていたのか。十分な支払いが見込めれば、人員だって十分に手当が出来るだろう。地上の連絡員だって十分に連絡体制が保てるだろう。自然災害ではあろうが、私には人災の面もあるように見える。
 どのくらいの雨が降れば、どこにどのように水が集中するかは専門家には見えているはずだ。もしもこのマンホールが人が容易に流されてしまうような情況が発生すると考えていたのなら、そうしたマンホールに人が入るのは無謀だ。点検・整備などは出来ない。
 中に人を入れるなら、どんな情況になっても、人の安全が確保されるとの確証が是非とも必要だろう。
 もしもこのような情況になるとの想定がされていなかったとするなら、専門家としては、責任問題にもなるのではないのか。
 思いもしない事態が起きて、と人は言う。思いもしない事態が起きるのは少しも不自然ではない。そうした事を想定していて、初めて人命が守られる。慢心してはいけない。人間は自然の前には本当に無力なのだ、と痛感していない人々にこうした現場は任せられない。安全には何重ものチェックが必要なのは常識のはずである。