夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

自然をあなどるな。自分の身は自分で守れ。他人の身を危うくする仕組みを許すな

2008年08月07日 | Weblog
 神戸市で川が急激に増水して死者が出た。警戒警報を出すのに手落ちがあったのでは、と報道された。だが、地元の人ならこの川が急流である事を知っているはずだ。いや、知らなければいけない。背後に六甲の山並みを抱えて、それを毎日のように見ている。ある人は川ではなく、まるで滝のようだ、と言っていた。
 自分の住んでいる所がどのような情況なのかは当然に知っているべきである。市でも良いし、学校でも良い。それを子供にも徹底的に教えるべきだ。この事故の場合、わずか10分足らずで危険な水位になっている。それに間に合うような警報が果たして出せるのか。

 六甲山麓のような条件ではなくても、川は容易に氾濫する。関東平野をゆったりと流れている観のある利根川だって、昔はよく氾濫した。そこで、流れを変えて現在のように銚子で海に注ぐような工事をした。古利根川は東京湾に流れ込んでいる。
 荒川の下流は隅田川と呼ばれる。しかし東京には「荒川」もある。なぜなら、たびたびの隅田川の氾濫を防ぐため、新しく放水路を造ったのである。私の子供の頃、今の荒川は「荒川放水路」と呼ばれていた。
 なぜ「放水路」の呼称は無くなってしまったのか。「荒川放水路」と言えば、なんで「放水路」なんだ? と疑問に思う事が出来る。まあ、思えない人はこの際、抜きにして考える。本ブログは「日本語ワールド」である。疑問があれば、それは隅田川の氾濫を防ぐためだったんだよ、との答もまたある訳だ。そのようにして、川とは危険な自然なのだ、との認識が育つ。
 私の住んでいる近くには色々な親水公園がある。それは運河を埋め立てて造ったから「親水」でも構わないのだが、それだって豪雨の時にはどうなるか分からない。もっとも、そんな時に川に近づく馬鹿はいないが。そして「親水」は自然の河川には通用しにくいだろう。
 我々はあまりにも自然を馬鹿にし過ぎている。現代人は自然と協調するのではなく、自然をねじ伏せて生活している事が多い。だから時々、自然の反抗に遭う。

 神戸市での事故は何ともいたましいとしか言いようが無い。犠牲になった人が悪いなどと言っているのではない。犠牲者は子供である。一人いる成人は地域外の人だったはずだ。だからこそ、自然とは侮れないものなんだ、と認識している必要がある。よく、神を恐れぬ所業と言う。我々は本当に神を忘れてしまった、と私は思う。その神を昔の人は「おてんとうさま」と言った。「天道」である。悪い事をすればお天道様がお見通しだ。
 だが、今はお天道様が居ないから、悪い事のし放題になる。見付かりさえしなければ、やった方が得だ、の風潮を何とか食い止めなければ。
 都市をやたらと改造するのも金儲けだけが目的で、すなわち、お天道様が不在である。

 東京では局地的な豪雨でマンホールの工事をしていた人達が流されて、犠牲になった。まだ行方の分からない人もいる。マンホールは金儲けのためではないが、都会の地下は金儲けの目的もあって魔物の住みかのようになっている。何がどうなっているのか分からない。この事故では孫請けの人々が犠牲になっている。傷ましい事には、撤収する際には機械類を回収するのが決まりになっいて、それで逃げ遅れたらしい。人命よりも機械の方が大切なのか。
 東京都は一滴の雨でも工事を中断する事に決めたと言う。英断である。でも、発注元が東京都で、元請けがあり、下請けがあり、そして孫請けがある。その都度マージンを取られて、一体、孫請けはどのような料金で請け負っていたのか。十分な支払いが見込めれば、人員だって十分に手当が出来るだろう。地上の連絡員だって十分に連絡体制が保てるだろう。自然災害ではあろうが、私には人災の面もあるように見える。
 どのくらいの雨が降れば、どこにどのように水が集中するかは専門家には見えているはずだ。もしもこのマンホールが人が容易に流されてしまうような情況が発生すると考えていたのなら、そうしたマンホールに人が入るのは無謀だ。点検・整備などは出来ない。
 中に人を入れるなら、どんな情況になっても、人の安全が確保されるとの確証が是非とも必要だろう。
 もしもこのような情況になるとの想定がされていなかったとするなら、専門家としては、責任問題にもなるのではないのか。
 思いもしない事態が起きて、と人は言う。思いもしない事態が起きるのは少しも不自然ではない。そうした事を想定していて、初めて人命が守られる。慢心してはいけない。人間は自然の前には本当に無力なのだ、と痛感していない人々にこうした現場は任せられない。安全には何重ものチェックが必要なのは常識のはずである。