12月になってしまいましたが、11月26日に山梨県立博物館に行ったレポート?をお送りしてます。
葡萄と葡萄酒展は主に山梨がどうやって葡萄王国になっていったか? というのが主体なんですが、ワタシの好きな川上善兵衛さんの紹介もありました。ウレシー
川上善兵衛さんは明治元年生まれで若くして新潟の大地主の当主になります。当時の新潟は米どころではありましたが豊作年は少なく、農民は貧しい暮らしをしていました。そこで冬場にも仕事を作るために葡萄栽培とワイン醸造を志します。その為に山梨に来て学んでました。
川上善兵衛さんのお顔 何が嬉しいってこの若き日の写真が紹介されている事
多分、若い頃山梨に滞在していたので、このお写真を展示したのだと思います。他の本で紹介されると晩年のお爺ちゃんな写真が出るので(もっとカッコイイ写真を載せてくれ〜)と思ってたもので。。。
よく載ってるのがこちらの写真(別の本から拝借してます)
若き日の写真と比べると、苦労されたんだな〜と思ったりしますね(^^)
川上善兵衛さんは農民の為に私財を投げ打って岩の原葡萄園を創業、ワインを造ります。しかし当時の日本ではワインが大衆に受け入られ無かった。。。その為、私財は無くなり借金も背負います。
しかし、ワイン醸造をやめなかった。なぜならワイン醸造は農民救済の事業だったからです。
宮光園を造った宮崎光太郎さんも辛口の本格ワイン醸造が世間に受け入れられないと知ると、甘味ワインを造り、広告戦略を考え売り込みます。ワイン醸造が葡萄を育てる農家を救う手段だったからです。
葡萄買付表。表紙の名前、宮崎市左衛門は光太郎さんのお父さん。明治25年に農家から葡萄を買い付けた記録。
明治から昭和初期のワイン醸造は農民救済的要素が多かったのですね。これはプレッシャー半端ないね。成功しなければ村が滅びる、くらいの使命感で突き進んでますね。
川上善兵衛さんは日本人にワインが受け入れられないなら、受けやすいワイン、その為の葡萄を作る!と し葡萄の品種改良に挑戦します。これまたお金のかかる挑戦で、大借金して研究を続けて、一万種もの交配を行い昭和2年に誕生したのがマスカットベーリーAなのです。
この品種改良の為に山梨からも葡萄の苗を購入している記録も残っていました。
土屋龍憲さんが川上善兵衛さんに送った手紙。内容は川上さんが葡萄を送って品質を見て欲しいとお願いしたもののお答えが書いてあるそうです。
葡萄を育てる為の道具も展示していました。
これは肥料を入れやすくする為の道具。コロコロのローラが付いて、歩きながら下のシャベルで土を削り、石や土が跳ねるので人に当たらないように上に傘が付いている農機具です。
これも説明して貰わないと、何これ?で終わってたと思います。話を聞いて超納得!
図録を読んでいて、思わずワオ!と思った一文。
文章の中程に、明治31年に郵便局長であった若尾勘五郎が電信線の架線法を応用した〜とあります。これ、勝沼のマルサン葡萄酒の若尾さんですね!知ってる人のご先祖様 出てきたーっ!
マルサン葡萄酒は若尾果樹園も併設してて、毎年食べる葡萄を送ってもらってます。ご先祖様にも感謝します
甲州市勝沼町の菱山地区は種無しデラウエアの発祥の地だそうです。
デラウエアの花が咲く頃にジベレリンという薬品に浸すと種のない葡萄の実になるのです。菱山地区は種無しデラウエアの名産地になり、ジベレリンをつけたデラウエア、で種無しデラウエアを「ジベデラ」と呼んだそうです。
凄いのはそのジベデラの大収穫を願って「慈幣天羅不動尊(ジベデラふどうそん)」を祭った所です。
こ、怖い。手に持ったデラウエアが棍棒に見える(葡萄に見えない?)。昭和56年頃に祭ったそうです。
勝沼は江戸時代からの葡萄産地でしたが、現在のような果樹王国・山梨になる前は養蚕王国でした。
明治時代はお蚕さんの為の桑畑が広がる地域で、化学繊維の発達により絹製品は売れなくなります。それから山梨は勝沼で培ったノウハウのある葡萄栽培が広がっていったそうです。
今でこそ果樹王国、そしてワインの一大産地・山梨ですが、何かのきっかけで全く違う産業に変わってしまうかもしれません。
それこそ生きていく為には現状を捨てる時が来るかも知れないのです。
すでに現在、葡萄畑の一角が太陽光発電パネルに変わった姿を見ていると、そう思わずにいられません。
だからこそ、
流行りだけでワインを飲んでもらうのではなく、歴史的なニュアンスに先人達の苦労や今の醸造家や栽培農家の努力も伝えて、味わいを深めてもらいたい。。。そんな思いを改めて感じました。
俺たちの葡萄がある! このプライドを未来永劫、守っていけますように
以上で博物館編は終わりにしますが、石和温泉駅のレポートも後日お送りしますね〜
葡萄と葡萄酒展は主に山梨がどうやって葡萄王国になっていったか? というのが主体なんですが、ワタシの好きな川上善兵衛さんの紹介もありました。ウレシー
川上善兵衛さんは明治元年生まれで若くして新潟の大地主の当主になります。当時の新潟は米どころではありましたが豊作年は少なく、農民は貧しい暮らしをしていました。そこで冬場にも仕事を作るために葡萄栽培とワイン醸造を志します。その為に山梨に来て学んでました。
川上善兵衛さんのお顔 何が嬉しいってこの若き日の写真が紹介されている事
多分、若い頃山梨に滞在していたので、このお写真を展示したのだと思います。他の本で紹介されると晩年のお爺ちゃんな写真が出るので(もっとカッコイイ写真を載せてくれ〜)と思ってたもので。。。
よく載ってるのがこちらの写真(別の本から拝借してます)
若き日の写真と比べると、苦労されたんだな〜と思ったりしますね(^^)
川上善兵衛さんは農民の為に私財を投げ打って岩の原葡萄園を創業、ワインを造ります。しかし当時の日本ではワインが大衆に受け入られ無かった。。。その為、私財は無くなり借金も背負います。
しかし、ワイン醸造をやめなかった。なぜならワイン醸造は農民救済の事業だったからです。
宮光園を造った宮崎光太郎さんも辛口の本格ワイン醸造が世間に受け入れられないと知ると、甘味ワインを造り、広告戦略を考え売り込みます。ワイン醸造が葡萄を育てる農家を救う手段だったからです。
葡萄買付表。表紙の名前、宮崎市左衛門は光太郎さんのお父さん。明治25年に農家から葡萄を買い付けた記録。
明治から昭和初期のワイン醸造は農民救済的要素が多かったのですね。これはプレッシャー半端ないね。成功しなければ村が滅びる、くらいの使命感で突き進んでますね。
川上善兵衛さんは日本人にワインが受け入れられないなら、受けやすいワイン、その為の葡萄を作る!と し葡萄の品種改良に挑戦します。これまたお金のかかる挑戦で、大借金して研究を続けて、一万種もの交配を行い昭和2年に誕生したのがマスカットベーリーAなのです。
この品種改良の為に山梨からも葡萄の苗を購入している記録も残っていました。
土屋龍憲さんが川上善兵衛さんに送った手紙。内容は川上さんが葡萄を送って品質を見て欲しいとお願いしたもののお答えが書いてあるそうです。
葡萄を育てる為の道具も展示していました。
これは肥料を入れやすくする為の道具。コロコロのローラが付いて、歩きながら下のシャベルで土を削り、石や土が跳ねるので人に当たらないように上に傘が付いている農機具です。
これも説明して貰わないと、何これ?で終わってたと思います。話を聞いて超納得!
図録を読んでいて、思わずワオ!と思った一文。
文章の中程に、明治31年に郵便局長であった若尾勘五郎が電信線の架線法を応用した〜とあります。これ、勝沼のマルサン葡萄酒の若尾さんですね!知ってる人のご先祖様 出てきたーっ!
マルサン葡萄酒は若尾果樹園も併設してて、毎年食べる葡萄を送ってもらってます。ご先祖様にも感謝します
甲州市勝沼町の菱山地区は種無しデラウエアの発祥の地だそうです。
デラウエアの花が咲く頃にジベレリンという薬品に浸すと種のない葡萄の実になるのです。菱山地区は種無しデラウエアの名産地になり、ジベレリンをつけたデラウエア、で種無しデラウエアを「ジベデラ」と呼んだそうです。
凄いのはそのジベデラの大収穫を願って「慈幣天羅不動尊(ジベデラふどうそん)」を祭った所です。
こ、怖い。手に持ったデラウエアが棍棒に見える(葡萄に見えない?)。昭和56年頃に祭ったそうです。
勝沼は江戸時代からの葡萄産地でしたが、現在のような果樹王国・山梨になる前は養蚕王国でした。
明治時代はお蚕さんの為の桑畑が広がる地域で、化学繊維の発達により絹製品は売れなくなります。それから山梨は勝沼で培ったノウハウのある葡萄栽培が広がっていったそうです。
今でこそ果樹王国、そしてワインの一大産地・山梨ですが、何かのきっかけで全く違う産業に変わってしまうかもしれません。
それこそ生きていく為には現状を捨てる時が来るかも知れないのです。
すでに現在、葡萄畑の一角が太陽光発電パネルに変わった姿を見ていると、そう思わずにいられません。
だからこそ、
流行りだけでワインを飲んでもらうのではなく、歴史的なニュアンスに先人達の苦労や今の醸造家や栽培農家の努力も伝えて、味わいを深めてもらいたい。。。そんな思いを改めて感じました。
俺たちの葡萄がある! このプライドを未来永劫、守っていけますように
以上で博物館編は終わりにしますが、石和温泉駅のレポートも後日お送りしますね〜
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