壁際椿事の「あるくみるきく」

東京都内在住の50代男性。宜しくお願いします。

選べないものもある

2010年09月03日 | 考えたこと・調べたこと
「顔を洗って出直してきな」

取材開始早々、いきなりこう言われ、その場を取り繕うのに冷や汗を流した経験があります。

数年前、ある大物作家をインタビューし、「直木賞を取られた作品は……」と切り出したときのこと。「取るだとぉ。ああいう賞は取ろうと思って取れるものでない。授かるものだ」というのです。確かにその通り。文学賞の選考は、作家の意思・熱意、手応えとは無関係に進められます。

「取る」というと、何か意図的、意思的なものが感じられます。しかし、作家としては「天命を待つ」ことしかできない。最近は「子どもを作る」と言いますが、本当は「授かる」のです。

「持つ」という動詞が、最近、新聞記事などで広く使われている点が気になってしかたありません。例えば、「直木賞作家を父に持つ山田さんが始めて小説らしきものを書いたのは、小学3年生のとき」といった表現です。

「取る」と同じく、「持つ」にも選択的、意思的なものを感じます。「持ちたいから持つ」、「持ちたくないから持たない」というニュアンスです。しかし、世の中には、持てるものもあれば、持てないものもあるのではないでしょうか。先の例で言えば、親は選べません。普通に、「父が直木賞作家の山田さんが~~」と書けないものでしょうか。

英語で可能を表す「can」は、漢字では「出来る」と書きます。「自分の力で成し遂げた」というニュアンスの強い英語に対し、日本語は字義通り「眠っていた力が出て来た」というニュアンス。決して、自分の努力で力を引き出したわけでなく、そこには得体の知れない何かが働いている。私は、そう思います。

科学技術万能という錯覚に陥り、人間は何か思い上がりをしているのでないか。「取る」や「持つ」の用法が広がっている事実を見るにつけ、こんなことを考えました。

ちなみに作家先生は、その後、気分良くインタビューに応じてくださいました。ホッ。

本を10冊並行して読めば、どうなるか

2010年09月03日 | 考えたこと・調べたこと
本は並行して10冊読め、といったタイトルの本があります。確か著者は成毛眞さん。私は、この本を未読ですが、狙いはセレンディピティ、触発、異物同士の予期せぬ結合にあるのだと踏んでいます。

10冊が10冊とも、ジャンルが異なれば、また同じジャンルでも持論の異なる著者の本なら、なお良いのでしょうね。