【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

訴追を受ける恐れ

2018-04-19 06:46:03 | Weblog

  証言拒否の理由として「訴追を受ける恐れ」が使われています。ではその人は訴追を受けたら証言をするのでしょうか? あるいは訴追を受けなくなったら正直に証言をする? どちらにしても証言をする気はないようにしか見えないのですが。
 もしかして「証言をしたら訴追される恐れがあるから証言しない」ということ? つまり、相当後ろ暗い行為あるいは違法行為をしていたのは明らか、ということ? それはそれで大問題ですが。

【ただいま読書中】『オペラ座の怪人』ガストン・ルルー 著、 日影丈吉 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫」HM58-3)、1989年(96年10刷)、800円(税別)

 パリのオペラ座で舞台監督が交代する夜、怪人の噂が楽屋を駆け巡り、舞台の上では「新しい歌姫」クリスチーヌ・ダーエが半年前からは考えられない美しい歌声を響かせました。どこで彼女は歌を覚えたのか。どうしてプリマドンナのカルロッタはその夜歌えなくなったのか。舞台監督はどうやってその代役をクリスチーヌにと思いついたのか。どうしてその夜、大道具の主任は舞台裏で首を吊ったのか。
 ミュージカルでは相当人物が整理されていますが、本書とあらすじは大きくは変わりません。ただ「愛」については本書の方が重層的ですね。ラウルとクリスチーヌは愛し合っていますが、貴族と庶民の歌姫では身分が違うため結婚はあり得ません(貴賤結婚はあると思うのですが、それをしたらラウルは兄の伯爵に家を追い出されるでしょう)。そしてオペラ座の楽屋の中でクリスチーヌに向かって「私を愛さなくてはいかん!」と命令する謎の声。
 新しい舞台監督は怪人に対して宣戦布告をします。すると、舞台上のカルロッタの喉からは蝦蟇が飛び出し、巨大なシャンデリアが落下して死人と多数の負傷者が。そしてクリスチーヌは失踪。
 秘密婚約をしたクリスチーヌとラウルを“ガイド"として、読者はオペラ座のあちこちに案内されます。舞台裏だけではなくて、大屋根の上から地下の湖にまで。私たちはふつうは客席と舞台しか知りません。だからその裏側や上や下は「異世界」なのです。異世界だったら、そこに怪人が住んでいてもおかしくはない、と“説得"されてしまいそうです。というか、私は説得されてしまいました。もしかしたら、パリのオペラ座には本当に地下の湖があって、そこに今でも「怪人」が住んでいるのではないか、なんて思っています。



2018-04-19 06:44:04 | Weblog

 「AIは心を持てるのか」はAIに関する重要な問いですが、ところでAIに対置される「人間」はみな心を持っているんです? なんだか、他人にプログラムされた発言しか繰り返せない人間とか文字列検索ロボットなみの反応しかできない人間もいるのではないか、という疑いを私は持っているのですが。

【ただいま読書中】『AIは「心」を持てるのか ──脳に近いアーキテクチャ』ジョージ・ザルカダキス 著、 長尾高弘 訳、 日経BP社、2015年、2200円(税別)

 200万〜150万年前、ホモ・ハビリスが現れそれまでのものとは違う優れた石器を製作し始めました。22万年くらい前に出現したネアンデルタール人はさらに優れた石器を製作しましたが、材料は石か木だけでした。約10万年前に登場したホモ・サピエンスは「新しい心」を持っていました。石以外の骨や象牙を材料として道具を作り、洞窟をでて住居を建て、洞窟の壁に絵を描き、ビーズやペンダントで身を飾りました。この「新しい心」のキモは「言語」でしょう。世界を言語で認識できるようになれば、“それ"を操作できると考えるのは自然なことです。
 ……ということは、「世界は言語で構築されている」と見なすことができる能力こそが「人類の心」の特徴?
 デカルトの二元論は「世界が物質的なもの(レス・エクステンティア)と精神的なもの(レス・コギスタンス)から構成されている」ことを意味しました。さらに、そこに電気・化学の新発見が加わることで「生命の新しい比喩」が生まれます。
 知識には限界があります。その限界を押し広げるのが「比喩」と「類推」です。ところがこの言語的なツールがあまりに有効だったため、私たちは比喩と現実を簡単に混同しがちとなりました。しかしたとえば「脳とは何か」を考えるとき、比喩としてコンピューターを持ち出すことは有効な手段ではありません。だって脳はコンピューターではないのですから。
 人類の歴史を概観し、著者は「擬人化」「ストーリーテリング」「二元論」「比喩」を心の性質について論じるときに欠かしてはならない重要な要素とします。さらに「フィフス・エレメント」も重要である、と。
 本書ではやたらと「新プラトン主義(経験主義)」と「アリストテレス主義(論理はプロセス重視)」の対比が行われます。これは1000年前からヨーロッパでは人気の行為で、21世紀になってもこの論争が生き残っているわけです。これも一種の“二元論的立場"ですが、著者は「二元論は否定されなければならない」と主張しているのに、この“二元論的立場"は維持しているように見えるのは,面白いものです。おそらく著者の「教養」の基礎は古代ギリシアにあるのでしょう。
 著者は、ソフトウエアとハードウエアの二元論に基づくコンピューターには意識を発生させることはできない、と断言します。生物のアルゴリズムを応用して、最初はシンプルな人工頭脳を製作、あとは電子のスピードで「進化」をさせたら、勝手に立派なAIが誕生する、というのが著者の抱くビジョンです。現在将棋のAIはAI同士で対局して膨大な「経験」を蓄積して「進化」しています。それと同様のことを汎用のAIでもやれば良い、という発想です。
 私は「AIの中に心は発生するかもしれない(あるいはすでに発生しているかもしれない)が、その『心』を人間は理解できない、あるいはその存在を認知できない可能性が高い」と予測します。だって私たちは、蟻や鮪の「心」だって理解できていないでしょ? 生物の心さえ理解できない人類が、機械の心を認知・理解できるのかなあ。