一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

フランクル哲学の禅語的アプローチ (雑感メモ―1)

2007年05月31日 | 哲学・思想・宗教
ヴィクトール・フランクルのロゴセラピー哲学。
3つの原理の一つ、「創造価値」についての小考察。

①創造価値とは・・・自ら主体的に人生の価値を創造していくという原理。

一、はたして環境世界はこの私に絶対的に与えられたものなのだろうか。
ひいては、環境世界に付帯する意味・価値とは絶対的なものなのだろうか。

初めに結論から述べれば、環境世界自体に先天的な意味・価値はない。
あくまでも意味・価値は、自己が創造していくものである。
そして、創造の過程において、自己は自己を取り巻く環境世界を形成していくのだ。
人生に意味・価値を投げかけ、環境世界を形成していくのは、この自己自身である。だが、にもかかわらず、私たちは往々として、自己の外側に自己とは無関係に環境世界が存在して、それ自体に先天的な意味が備わっていると錯覚してしまう。
ひいては、その錯覚が私たちの人生における虚無感(ニヒリズム)にもつながっている。
環境の中にあらかじめ決定された絶対的な意味・価値を捉えてしまうと、人生は硬直化し、すべての行動が主体性の欠落したものとなってしまうからである。
実存の喪失。
そのとき人は環境の奴隷に堕してしまう。
つまり、環境によって自分の人生が左右されるということだ。

環境に対して、自己が介在しない特定の意味を認めると、すべての行動・体験は代替可能になり、「私がやっても、他の誰かがやっても結局同じこと(同じ意味)」ということになる。
すなわち人生体験の匿名化、意味・価値の無化である。
これが、虚しさ(ニヒリズム)の根源と言えよう。

また、環境自体にあらかじめ絶対的意味を捉えてしまうと、行動・判断・解釈することによって、意味・価値を主体的に創造していくという人間の本来的なあり方が失われてしまう。
そうなると、トラブルや、災難に遭うたびに、「私はついていない・・・」と自分の人生を恨めしく思うようになる。
しかし、ある「できごと」を、「トラブル」や「災難」と決めているのは、「できごと」の方ではなく、私たち自身なのではないだろうか。
極端なことを言えば、私たちの解釈を外れて、すべての体験自体には、いかなるトラブルも災難もないということさえ言えるのである。

ここで良寛和尚の言葉が思い浮かんだ。

「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」

災難に逢ったら、災難と一つになること。
災難を災難として、遠ざけようとすればするほど、「災難」は対象化され自己と相反するものとして浮かび上がってくる。
だが、災難(と思われる体験)と自己が一つになれば、災難と自己を分けることがなくなり、災難という意味そのものが消える(もしくは小さくなる)ということである。


「他不是吾(他は是れ吾にあらず)」という禅語がある。

端的に示せば、「他人のしたことは自分のしたことではない」ということ。
道元禅師が宋で出会った、天童山の典座和尚から発せられた言葉でもある。
「他不是語」についての過去ログ※アクセスURL

「くだらない」と思える仕事がある。
その仕事を「くだらなくしている」のは誰か?
ほかならぬ自分である。
自分が(こんな仕事は)くだらないと決めてはじめて、くだらなくなるのである。
したがって、仕事自体にア・プリオリに「くだらない」という意味が付与されているわけではない。
では、反対に「かっこいい」と思える仕事はどうだろうか。
これも同じことが言える。
その仕事自体が、ア・プリオリに「かっこいい」という性質を有しているわけではない。
私が、「かっこいい」と思うことによって、その仕事は「かっこいい」という意味を有するようになる。
つまり、仕事、ひいては私を取り巻く環境は、ア・プリオリに絶対的な意味を有しているわけではなく、人間の解釈によって流動する極めて相対的なものだということが分かる。

どのような仕事も、まさに、いま・ここ・この瞬間に、私がなすべきものとして立ち顕れている。
その仕事は、ほかの人の前には立ち現れてはいない。
いま、ここで、この私においてなされている、私と一体の仕事であり、私と分離不可能な仕事である。
仕事が・いま・ここの・私とともにある、ということ。
本来的な意味から言えば、本来、仕事は仕事ですらないのだ(仕事を自己と切り離すことはできないのだから)。
仕事とは本来、すなわち私である。
しかし、私たちはしばしば、自己と仕事を切り離す。
切り離して、仕事をほかの仕事と比較しようとする。
そこに根本的な認識錯誤があるのだが。。。

しかし、必ずしも切り離すこと自体が悪いというわけではない。
あくまでその行為に対して「自覚的」であれば、時に自己と仕事を切り離すことが自己実現のために有用な場合もある。

繰り返すが、私と仕事はつねに一体である。
したがって、代替可能な私がありえないように、誰がしても同じ意味を有するような代替可能な仕事もありえないということになる。
仕事とともにある私がどのようなあり方をしているかで、仕事の意味が変わる。
仕事の意味が変われば、私の意味も変わる。
そして、この循環に目覚めることこそが、真に主体的に環境を創造していく生き方、「創造価値」に自覚的に生きるということにほかならないのである。


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