一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

一語一会(20)

2012年04月05日 | 一語一会

「人生は最後の息を引き取るまで意味のあるものに形作ることができると言ってもいいでしょう。人間は、息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いにそのつど答えていくという責任をになっているのです。それは人間存在とは意識存在、責任存在にほかならない、という人間存在の重要な根本事実を思い出せば、なんの不思議もないことですが」(フランクル「それでも人生にイエスと言う」)


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人間は、自分の人生に責任を負っている。

死ぬまで、人生が出す問いに答えていかなければならない。


そのときそのとき、どのような答えを出すか。

どのような人生を形作っていくか。

すべては私たち自身に委ねられているのだ。


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一語一会(19)

2012年04月04日 | 一語一会


努力は必ず報われると、私はこの人生をもって証明します!! (AKB48 高橋みなみ)


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この世の中、努力をしても報われないことはある。


しかし、夢に向かって努力していることがすでに、


その人の生き様を証明し、


その人自身を照らしているのである。


結果は先にあるのではなく、


実は、いまここの生き方に内在しているのかもしれない。


立ち止まるな、前に向かって歩き続けよう。


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一語一会(18)

2012年04月03日 | 一語一会

散るさくら 残るさくらも 散るさくら (良寛和尚)


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桜は散るからこそ美しい・・・


命は滅びるからこそ愛おしい・・・


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一語一会(17)

2012年04月02日 | 一語一会

表面を作るということは、内部を改良する一種の方法である。(夏目漱石)


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感情が先か、行動が先か。

感情が先で行動が後だと思うと、私たちの行動は感情の奴隷ということになってしまう。

悲しいから泣く。

嬉しいから笑う。

当たり前のことのようだが、それでは、そのときそのときの感情に行動がコントロールされていることになる。

だったら、むしろ感情が入り込む前に、行動から先に律すればいいのではないか。

表面を作れば、内部もそれに影響されてくるということだ。

「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ」(ウィリアム・ジェームズ)

福が来るから、笑うのではなく、

笑うかどには、福来るのである。

まずは、笑顔を習慣にしよう。

それができないなら、せめて、しかめっ面、不機嫌な顔はやめよう。


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一語一会(15)

2012年03月31日 | 一語一会


「仕事と思うな、人生と思え」 (原田隆史)


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社会人になってしまえば、人生の大半の時間は仕事に費やされる。

仕事は生活のためにするのか。

それはそうだろう。

しかし、仕事が「~しなければならない事」になってはいないか。

主体的にではなく、奴隷的に「やらされている事」になっていないか。

人生の大半がそんなことに費やされてしまっていいものか・・・


必要なのは仕事を変えることではない。

仕事を私がどう捉えるかが大事なのである。

つまり、

仕事を仕事(しなければならない事)と思うな、仕事を自分の主体的な人生そのものとして思えということ。

心の向きを変えれば生き方も変わる。


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一語一会(14)

2012年03月30日 | 一語一会


「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

(道元禅師)


「私が私を強いて神に到らしめるよりは、私が神を強いて私に来たらしめる方がはるかに高貴である」

「けだし愛は私を強いて、私が神のためにあらゆるものを堪え忍ぶようにするが、離在は私を強いて、私が神以外の何物をも受容しないようにするからである」
(M・エックハルト)

マイスター・エックハルト

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東西の宗教的天才の言葉がつながった。

道元禅師は絶対無の立場。

エックハルトは絶対有の立場。

反対のように見えて、実は同じことなのだ。

絶対無は絶対有であり、絶対有は絶対無である。

完全に満たされていると同時に完全に無である。

坐禅と離在。

表現は異なるけれども、両者を結びつけるのは、

自己を忘るるということ。自己をむなしくするということ。

徹底的に。

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一語一会(13)

2012年03月29日 | 一語一会

「この世の中に生まれてきた以上、マジに生きなきゃ申し訳ないですから」 

(マジすか学園、前田敦子の台詞)


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誰に申し訳ないのか?

親にか・・・

世の中にか・・・

自分にか・・・

いや、そうした誰に?を超えた

・・・ただただ申し訳がない、ということ。


自分が生まれたという事実。

自分はなんのために生まれたのか。

マジに探し求めているだろうか。

マジに生きなきゃ申し訳ない。


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一語一会(12)

2012年03月28日 | 一語一会

願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの望月の頃 (西行法師)


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釈尊が入滅した如月の満月の頃、花の下にて死にたいものだ、という西行法師の思いが詠われている。

明治以降、日本では太陽暦を採用したため、釈尊涅槃会の行われる2月15日は真冬になってしまったが、
それ以前の太陰暦では、季節感でいうと太陽暦の3月下旬から4月上旬に当たる。

ちょうど今頃だろう。

そして、西行法師は、なんとこの歌を詠んだ約10年後の2月16日に亡くなったというから、
歌の通りに思いは遂げられたわけである。


ともあれ、春爛漫の花の下で静かに死にゆく姿を想うと、
えも言われぬ美しさを覚えはしないか。


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一語一会(11)

2012年03月27日 | 一語一会

仏道をならふといふは自己をならふなり

自己をならふといふは自己を忘るるなり(道元禅師)

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仏道とはすなわち自己を究明することである。


自己究明が進むと、ちっぽけな自我(自己イメージ)が、
思い込み(思考の産物)にすぎないことに気付く。


そして自我のとらわれから自由になると、
大宇宙いっぱい、ど真ん中の命を生きるようになる。


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