1月は、奄美市内のあちこちで「郷友会」(ごうゆうかい・きょうゆうかい)の新年会が開かれていたようだ。
奄美に来るまで知らなかった(←毎度こんなことばっかり)、「郷友会」。よく、都会に「○○県人会」というのがあるが、このコミュニティーが県という大きな枠でなく、もっと小さい地域になったのが郷友会。
先日、この郷友会の新年会に私も潜入!
な~んて、正確には、三味線の師匠に誘っていただいた。出席させていただいたのは、三味線の先生のシマの郷友会。
奄美は、集落のことをシマという。別に島(=アイランド)でなくても、山で隔てられて結局は海沿いでしか別の集落に行けなかったからだろうか。今なら車で半時間もあれば行ける師匠のシマも、昔は時間的・心理的にずいぶん遠いところであったに違いない。奄美は同じ島の中であっても、この集落であるシマごとに、言葉や文化も少しずつ違うということだ。
昨年3月に合併して「奄美市」となったが、その中核の名瀬地区(もとの名瀬市)は、奄美の中の大都会だ。
奄美が本土に復帰したのが昭和28年(1953)、そして本土復帰後の奄美振興策+昭和30年代から40年代にかけての高度成長期の開発、さらには大島紬ブームも重なって、島内各地からたくさんの人々が名瀬に集まってきた。
そして、地方の人が都会に出て故郷を懐かしみ「○○県人会」を作るのと同様、各シマから集まった人々はそれぞれの郷友会を作って時々故郷を懐かしむ。特に、八月踊りと呼ばれる旧暦の八月の豊年祭や、今回のような新年の集いなど、季節ごとにそれぞれのシマのやり方で唄ったり踊ったりするらしい。
そんな郷友会。そのイベントである新年会にも、普通なら当然そのシマの関係者しか参加しない。
三味線の先生が誘って下さった時も、「そんな、シマの人間でもない私が...」と、当然お断りした。が、先生が熱心に勧めて下さるうちに、「郷友会ってどんなのだろう?!こんなチャンスを逃したら覗いてみることはできないかも」という気持ちがむくむく湧いてきて、行ってみることにした。
(つづく)
奄美に来るまで知らなかった(←毎度こんなことばっかり)、「郷友会」。よく、都会に「○○県人会」というのがあるが、このコミュニティーが県という大きな枠でなく、もっと小さい地域になったのが郷友会。
先日、この郷友会の新年会に私も潜入!
な~んて、正確には、三味線の師匠に誘っていただいた。出席させていただいたのは、三味線の先生のシマの郷友会。
奄美は、集落のことをシマという。別に島(=アイランド)でなくても、山で隔てられて結局は海沿いでしか別の集落に行けなかったからだろうか。今なら車で半時間もあれば行ける師匠のシマも、昔は時間的・心理的にずいぶん遠いところであったに違いない。奄美は同じ島の中であっても、この集落であるシマごとに、言葉や文化も少しずつ違うということだ。
昨年3月に合併して「奄美市」となったが、その中核の名瀬地区(もとの名瀬市)は、奄美の中の大都会だ。
奄美が本土に復帰したのが昭和28年(1953)、そして本土復帰後の奄美振興策+昭和30年代から40年代にかけての高度成長期の開発、さらには大島紬ブームも重なって、島内各地からたくさんの人々が名瀬に集まってきた。
そして、地方の人が都会に出て故郷を懐かしみ「○○県人会」を作るのと同様、各シマから集まった人々はそれぞれの郷友会を作って時々故郷を懐かしむ。特に、八月踊りと呼ばれる旧暦の八月の豊年祭や、今回のような新年の集いなど、季節ごとにそれぞれのシマのやり方で唄ったり踊ったりするらしい。
そんな郷友会。そのイベントである新年会にも、普通なら当然そのシマの関係者しか参加しない。
三味線の先生が誘って下さった時も、「そんな、シマの人間でもない私が...」と、当然お断りした。が、先生が熱心に勧めて下さるうちに、「郷友会ってどんなのだろう?!こんなチャンスを逃したら覗いてみることはできないかも」という気持ちがむくむく湧いてきて、行ってみることにした。
(つづく)