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雨宮処凛がゆく! 第538回:アメリカ大統領選と、法廷でトランプ礼賛を続けた植松死刑囚。の巻

2020年11月15日 | 野菜・花・植物

マガジン9 2020年11月11日

https://maga9.jp/201111-1/

 

 アメリカ大統領選が終わった。

 バイデン次期大統領の誕生が決まり、4年間にわたる分断と対立と憎悪と差別を煽るトランプ政治が終わることに今、ひとまず胸を撫で下ろしている。

 「私は分断ではなく結束を目指す大統領になると誓います」「対抗する人を敵扱いするのをやめましょう」「人種差別を根絶します」、そして「私に投票しなかった人のためにも働きます」。

 このような「マトモな」言葉を聞いて、この4年間、随分異常な言葉に慣らされてきたのだということに気づいた。そうして思い出したのは、相模原事件の植松死刑囚のことだ。

 この連載でも相模原事件の裁判に通ってきたことは書いてきた。7月には、傍聴記録をまとめた『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』を出版もした。そんな横浜地裁の法廷で、植松はトランプ氏の名前を何度も口にした。

 例えば初めての被告人質問(1月24日)では、突然トランプ氏の礼賛を始めている。

 「とても立派な人。今も当時もそう思います」

 弁護士に「どこが?」と聞かれると、「勇気を持って真実を話しているところです。メキシコ国境に壁を作るとか」。「それはいいこと? 悪いこと?」と弁護士に問われると、「わかりませんが、メキシコマフィアが怖いのは事実です」。

 その後も植松は続けた。

 「トランプ大統領はカッコ良く生きてるな、生き方すべてがカッコいいと思いました」

 「見た目も内面もカッコいい」

 「カッコいいからお金持ちなんだと思いました」

 そんなトランプ大統領からの影響を聞かれた植松は、言った。

 「真実をこれからは言っていいんだと思いました。重度障害者を殺した方がいいと」

 トランプ氏は「障害者を殺せ」などと一言も言っていないのだが、植松はそう「受信」したのであろうか。

 また、事件前、植松は多くの友人たちに事件の計画について話しているのだが、その際、以下のように述べている。

 「知ってるか、世界でいくら無駄な税金が使われているか。世界に障害者が〇〇人いて、そのために〇〇円も税金が無駄になっている」「殺せば世界平和に繋がる。トランプ大統領は殺せば大絶賛する」「トランプを尊敬している。自分が障害者を殺せば、アメリカも同意するはず」

 なぜ、凄惨な事件を起こすことでトランプ氏が「評価」してくれると確信していたのか。

 事件を起こす5ヶ月前、植松は衆院議長に「障害者470人を殺せる」などと書いた手紙を出したことで措置入院となるのだが、退院数日後にも異様な行動をとっている。友人の結婚式の二次会に、植松は「トランプをイメージした」という服装で現れ、人目を気にせず大麻を吸い、「障害者はいらない」と話し続けて友人たちをドン引きさせたのだ。

 ちなみに「トランプをイメージした」格好とは、髪は金髪、黒いスーツに真っ赤なネクタイという姿。事件直前、植松はTwitterに同じような姿の自身の写真とともに「世界が平和になりますように beautiful Japan!!!!!!」と投稿しているが、あの姿はトランプ大統領のコスプレなのだ。

 また、事件が起きたのは2016年7月だが、植松は裁判で、アメリカの大統領選がその年の11月に行われたことに触れ、その後に自分が事件を起こすと「トランプみたいな人が大統領になったからこんな事件が起きたと言われるのでは」と思ったので、その前に事件を起こしたとも述べている。日本で起きた障害者殺傷事件を「トランプが大統領になったからだ」と考える人などいないと思うのだが、植松は、自らが事件を起こすことが「トランプに迷惑をかける」と思い込んでいた。見る人が見れば、「この事件の犯人はトランプの影響を受けたのだろう」と気づくと思っていたのである。

 あの事件がトランプ氏のせいで起きたなどと言うつもりは毛頭ない。しかし、トランプ氏の「剥き出しの、暴力的な本音」とも言える発言は、何かのタガを外したのは事実だと思う。「綺麗事や建前を言ってた奴らが何かしてくれたか?」と理想を語る人を陳腐化し、連帯ではなく分断の種をばらまき続けた4年間。

 友人や元カノの証言によると、植松は16年頃からトランプだけでなく、イスラム国やドゥテルテ・フィリピン大統領に関心を持つようになったという。イスラム国に関しては、「恐ろしい世界があるなと思いました」と否定的に見ている様子だ。一方、トランプやドゥテルテ大統領のことは高く評価している。ドゥテルテ大統領については、裁判で「覚せい剤を根絶するのは大変な仕事だと思いました」と話している(そのせいで、無実の人が大勢殺されているのだが)。

 両者に共通するのは、賛否が分かれながらも支持する人々は「誰も言えなかった、できなかったことをやった」と熱烈に支持する点だろう。排外主義で、「敵」を設定して憎悪を煽るやり方も似ている。

 そんなふうに事件前、世界情勢に興味を持ち始めていた植松は、ヤフーニュース等のコメント欄にたくさんの書き込みをしていたことは有名だ。「イイネしかできないSNSと比べてワルイネ(BAD)が新鮮」だったという(『開けられたパンドラの箱』より)。

 もう一点、注目すべきは事件前、植松は動画投稿サイトに自らの動画を投稿していたことだ。現在は全編を見ることはできないが、そのサイトでは彼の過激な発言が多くの賛同を得たようだ。ヤフコメの差別やヘイトに満ちたコメントや、自分の動画の過激な発言(おそらく「障害者を殺す」などだろう)に賛同する人々のコメントを見るうちに、「これくらいやってもいいんだ」「これがみんなの本心なんだ」「これこそが世論なんだ」と思っていった可能性は否定できない。

 おそらく免疫がなかったゆえに、彼はネット上の悪意を真に受け、また「イルミナティ」などの都市伝説に容易に感化された。そんな時、トランプ氏が大統領選に出馬し、過激な言動を繰り返す姿が連日テレビで報じられた。その姿に、「これからは真実を言っていいんだ」と雷に打たれるように閃いたのではないだろうか。

 そのような著しく歪んだ「受信」をしてしまったのは、彼の普通ではない精神状態ゆえだと思う。

 しかし、トランプの発言や振る舞い、分断を煽るやり方は、植松だけでなく、世界中の悪意に火をつけた。例えば4年前、トランプ大統領が誕生してからのニュースを思い出してほしい。それはアメリカでヘイトクライムが急増しているというものだった。また、18年のBBCニュースは、17年にアメリカで通報されたヘイトクライムは7157件で、前年比約17%増となったことを伝えている。それだけではない。トランプ氏は新型コロナウイルスを「中国ウイルス」と呼び、欧米ではアジア人に対するヘイトクライムが急増した。

 さて、そんなふうに大統領選の結果が出る数時間前、私は興味深い体験をしていた。

 この日、渋谷のロフト9でよど号50年のイベントに出ていたのだ。よど号ハイジャックから半世紀というイベントには、北朝鮮からよど号グループの小西隆裕氏も電話出演。ゲストには森達也氏や孫崎享氏、元日本赤軍の足立正生氏や元連合赤軍の植垣康博氏も登壇したのだが、平壌から電話出演していた小西氏の話に私は密かに驚いていた。内容にではない。その、ゆっくりとした朴訥な話し方にだ。

 そのような話し方は、久々に耳にするものだった。噛みしめるようにゆっくり話す彼の言葉はわかりやすいものではなく、話はなかなか終わらない。会場の観客たちも途中から話の長さに失笑し始め、思わず「結論は?」「要約すると?」と突っ込んでしまいそうな衝動に駆られた。

 そんなふうに「話の長さ」に辟易している自分に気づいて、思った。

 小西氏は50年前に日本を離れ、ずっと北朝鮮で暮らしている。いわば彼の話し方は、50年前の日本人のものではないだろうか。それが今、私たちにはものすごく遅く、まどろっこしく聞こえてしまうのだ。申し訳ないけれど、苛立ちさえ感じるほどに。その背景には、私たちの社会の何もかもが50年前と比較して格段にスピードアップしたことや、140文字のTwitterに慣れたこと、長い記事の最初に「要約文」が表示されることに抵抗がなくなったことなんかがあるのだと思う。

 それだけではない。討論番組でもワイドショーでも、熟考などは求められず、とにかく条件反射のように「間髪入れず」「すかさず」相手を言い負かす人間が「勝ち」で、発言内容なんか問われないというテレビ的な「言い切り」に慣れてしまったこともあるだろう。そんな中、ゆっくりと議論することは「時間の無駄」とされ、最初に結論を言わずダラダラ話を続ける人間は「ダメなやつ」の烙印を押されるようになった。そんな時代に「デキる人間」としてもてはやされるのは、即断即決、時短の人間だ。とにかく何かを瞬時に判断し、断言することで相手を黙らせた人間が勝ちになる。そんなコミュニケーションの行き着いた果てが、私には植松のようにも思えるのだ。

 なぜなら彼は、あまりにも思考をショートカットしすぎたからである。

 障害者施設で働いた当初は、障害者を「かわいい」と言っていたものの、2年目からは「かわいそう」と言うようになる。かわいそうだと思うのならば、待遇を改善するよう職場で提案したり、上の人間と掛け合ったり、場合によっては内部告発やメディアに訴えるなんて手もある。しかし、彼はそれらすべてをすっ飛ばして、何段階もショートカットして、突然「殺す」に飛躍した。その振る舞いの影にちらつくのは、やはりトランプ政治的なものが作り出したある種の「空気」だ。熟考や「葛藤」を放棄させ、正しさや公正さに重きを置かず、過激なこと言ったもん勝ち、やったもん勝ちという作法は、どこかで確実に植松に影響を与えたのだと思う

 さて、とりあえずトランプ政治は終わる。かといって、バイデン大統領の誕生で薔薇色なんて思うほど楽観もしていない。この4年間で荒廃してきたものを修復していくには、長い時間がかかるだろう。アメリカの影響を大きく受ける日本社会にも負の遺産が山ほど残っている。ここからどうやって公正さや連帯を取り戻していくか、排外主義や分断を乗り越えていくかが大きな課題だ。

 トランプの敗北を、植松は獄中でどう思っているのだろう。聞いてみたくても、死刑の確定した彼とは以前のように面会することはできない。


 コロナが猛威的に吹き荒れている。北海道では3日連続200人越えである。こんな時にGo to!でもあるまい。以下「知床の旅」は「中止」いたします。

 


知床の旅②

2020年11月14日 | 旅行

 お昼頃、斜里を離れ半島の左側の道を行けるところまで行こうと出発。

波は荒く、風も強く冷たい。
オシンコシンの滝。


そしてウトロの道の駅。

ここで遅めの昼食。

ぶりの煮つけと刺身の定食。
隣の建物。

それからウトロ温泉を超えて「知床自然センター」。さらに進んで知床五湖入り口で通行止め。ここで引き返します。途中岩尾別温泉(営業してない)に寄って、知床第一ホテルへ。ちょっと手前の夕陽台に沈む夕日を見に。

天気が良くなかったので、かすかな夕焼けでした。
 また明日もか!


知床の旅1

2020年11月13日 | 旅行

 時間に沿いながら、簡単に知床の旅を!

朝、ではなく昼近い出発になりました。
旭川、遠軽経由で東藻琴町、小清水町、斜里町へ。

遠軽道の駅内より。

東藻琴道の駅(ノンキーランド)

ポスターだけですけど…
そして小清水温泉泊。
雪が積もって何もありませんが、ポスターだけでも・・・・・

ごちそうさまでした。

 翌日はさらに天気は悪化。
まず、濤沸湖へ。


観光客は一人もいません。

小清水の道の駅へ。

これはうまかった。(おすすめ)これとコーヒーを頼めば珈琲半額に。


カーリングのお姉さんたちですね。さて、これからいよいよ半島部分へ向かいますが長くなりましたのでまた明日にでも。

 


昨夜遅く帰りました。

2020年11月13日 | 旅行

 1年前から予定していた旅行でした。丁度Go toが始まり、それに乗っかっていくことができました。
 シーズンは過ぎてあまり人はいません。シーズン中なら、おそらく身動きが取れないほどの混雑でしょう。
 知床の両岸を行けるとこまで行ってきました。横断道がもう閉鎖されていたので同じ道を帰ることになりました。知床五胡も閉鎖です。しかし、景色はさすが世界遺産です。こんな時だからゆっくりと見物もでき、お土産屋さんのおかみとも話し込んで様々な情報をいただけました。
 とりあえず今朝は帰還の報告まで。
皆様のところへはもう少し時間がかかりますが伺います。
留守中もアクセスいただきありがとうございました。

 

 


増える肉類、減る魚介類…主要食品摂取量の実情をさぐる(2020年10月発表版)

2020年11月10日 | 食・レシピ

    昨今の日本人の食生活においては、昔と比べると欧米化の傾向にあり、肉食が増えて魚を食べる量が減ったといわれている。その実情を厚生労働省が2020年10月に発表した定期調査「国民健康・栄養調査」(※)の最新版となる2019年分における概要報告書などの公開値から確認する。

    次に示すのは魚介類・肉類(それぞれ加工品を含む)、野菜類、乳類(牛乳、加工乳、乳製品全般、粉乳類、クリーム類、乳酸菌飲料、チーズ類やアイスクリーム類など)の一日あたりの平均摂取量を示したグラフ。最新値となる2019年分、そして10年前の2009年分についてデータを併記する。なお最高齢層については2009年分と2019年分双方で値を抽出可能な「75歳以上」を用いる。

図1

↑ 肉類の摂取量の平均値(男女計、年齢階層別、グラム/日)(2009年、2019年)

図2

↑ 魚介類の摂取量の平均値(男女計、年齢階層別、グラム/日)(2009年、2019年)

図3

↑ 野菜類の摂取量の平均値(男女計、年齢階層別、グラム/日)(2009年、2019年)

図4

↑ 乳類の摂取量の平均値(男女計、年齢階層別、グラム/日)(2009年、2019年)

    まず直近の平均値だが、魚介類は64.1グラム・肉類は103.0グラムと、肉類の方が魚介類よりも多い。また年齢階層別では魚介類がおおよそ年を取るに連れて摂取量が増える一方、肉類は15-19歳の摂取量が最大で、あとはおおよそ年齢が上になるに連れて減少していく。75歳以上では魚介類・肉類の立ち位置が逆転し、肉類よりも魚介類の方を多く摂取している計算になる。両食品の特性、普段イメージされている好き嫌いがそのまま数字となって現れており、非常に興味深い。やはり年を取ると肉類は敬遠される傾向にあるようだ。

    あるいは個々の「世代」の食生活の日常が、ある程度踏襲されている可能性も否定できない。つまり年齢階層による違いではなく、世代(西暦何年生まれなどの区分)による違いが多分に影響しているのでは、との考えである。それが事実ならば今後、高齢層でも少しずつ肉類の摂取量が増え、魚介類が減り、高齢者でも肉類の摂取量が魚介類以上になる可能性はある。

    野菜類は1~6歳時点でこそ少なめなものの、それ以降は40代ぐらいまではおおよそ同量、50代以降はむしろ増加していく傾向がある。健康志向の高まりを受けてのものだろう。そして乳類は1~6歳が多め、7~14歳で最大となり、以降は減少、そして40代以降は再び増加していく。乳幼児は子供向けの粉ミルクなど、未成年では学校給食などにおける牛乳や健康のため保護者から与えられる事例が多いのが主要因だと考えられる。高齢になるに連れて増えるのも、健康志向によるものと考えれば道理は通る。

    なお乳類の男女別詳細値を確認すると、30代以降は女性の方が摂取量が多い。ヨーグルトなどの健康志向性の高い乳類を多く摂っているのだろう。

    10年前の2009年当時の値も併記したが、それと直近となる2019年との比較をすると、「魚介類の摂取量が大きく減る」「肉類の摂取量が増える」「野菜類は減少」「乳類はおおよそ増加」などの動きが確認できる。「食文化の欧米化」との表現はあまりにも陳腐だが、肉食に傾きつつあることは間違いあるまい。また牛乳の全体消費量が減少していることがしばしば話題に上っているが、今データの限りでは若年層へのアピールが必要なように見える。

10年間の変化を算出した結果が次のグラフ。

図5

↑ 魚介類・肉類・野菜類・乳類の摂取量の平均値(男女計、年齢階層別、1日あたり摂取量)(2009年から2019年への変化率)

    年齢階層では肉類はすべての層で増え、魚介類はすべての層で減っている。他方変化率では肉類・乳類において高齢層の増加率が大きい結果が出ている。肉類の動きはやや妙に思えるかもしれないが、10年間における重量の増加分に大きな違いはないため、元々摂取量が少なかった高齢者ほど、比率面では大きな値が出る次第。

    健康的な食のバランスを保つためには、偏りなく、多彩な種類の食材を口にしたいものだ。


  これから知床の方まで出かけます。明日更新できませんがよろしくです。
今朝のようすです。

こんな日に、しかもコロナ最大。


「コモンの再生」が日本を救う その2「僕が死んだあと、私有地も道場も“面倒な”コモンにする」 内田樹が門徒に苦労させるワケ

2020年11月09日 | 社会・経済

 新形コロナウイルスの危機はグローバル資本主義のあり方に急激なブレーキをかけ、疑問符を投げかけた。今後、アンチグローバリズムの流れで地域主義が加速すると分析する思想家の内田樹が、新著『コモンの再生』にこめた日本再建のビジョンを語る。(全2回の2回目。前編は昨日)

◆◆◆

――そもそも〈コモン〉とはなんでしょうか?

内田 「コモン(common)」というのは、「共有地」のことです。ヨーロッパの村落共同体には、みんなが、いつでも使える共有地がありました。そこで家畜を放牧したり、魚を釣ったり、果実を摘んだり、キノコを採ったりした。しかし、コモンは生産性が低かった。土地を共有していると、誰も真剣にその土地から最大限の利益を上げようと考えないからです。

 それならむしろ共有地を廃して、私有地に分割した方がいい。そういう考えで、コモンが廃され、私有地化したのが「囲い込み(enclosure)」です。その結果、それまでコモンを共同所有してきた村落共同体が空洞化し、私有地は大資本家によって買い上げられ、自営農たちは小作農に転落し、あるいは流民化して、都市プロレタリアートになった。

 たしかにコモンの消滅によって、土地の生産性は一気に向上しました。「農業革命」が行われ、無産化した農民たちの労働力で「産業革命」が実現した。資本主義的にはコモンの消滅は「たいへんよいこと」だったわけです。でも、それは中世から続いて来た村落共同体の消滅という代償によって果たされた。コモンの消滅とともに、村落共同体がもっていた相互扶助の仕組みが失われ、伝統的な生活文化や、祭祀儀礼が消え去った。この惨状を見て、再び「コモンの再生」をめざしたのがマルクスの「コミューン主義」です。

――その思想的背景について、もう少し詳しく教えてください。

内田 マルクスは人間の中には、おのれ一身の幸福、私利の追求だけをめざす「私人」の部分と、公共の利益のために、全員の幸福のためにふるまう非利己的な「公民」の部分と2つが併存していると考えていました。そして、できるだけ「公民」的にふるまう部分を増やすことがこの世の中を住みやすくする方法だと考えていた。マルクスって、すごく常識的な人なんです。

 市民革命によって近代市民社会が成立しました。そして、誰もが強権を持つ支配者に怯えることなく、幸福と豊かさを追求することができるようになった。でも、そういう近代市民社会を実現するために戦った市民たちは、おのれ一身の身の安全や豊かさを後回しにして、自己犠牲的・英雄的にふるまった。そういう非利己的な人々がいたおかげで、市民たちが利己的にふるまうことのできる社会が実現した。

 公共の福祉を配慮する人たちがまず存在しており、その人たちの努力の成果として、公共の福祉なんか配慮しないで暮らせる社会が実現した。というのがマルクスの考えです。おのれの私利私欲よりも公共の福祉の方を優先的に配慮できるような人間のことをマルクスは「類的存在」と呼びました。そういう人たちが一定数いるような社会を作りましょうというのがマルクスの主張なんです。まともな話でしょ?

コモンの管理は市民的成熟を果たす「訓練の場」

 公共を私利より優先的に配慮する「類的存在」のマインドセットが「コミューン主義」なんです。だから、コミュニズムを「共産主義」と訳されると意味がわからなくなる。日本語には「共産」なんて日常語が存在しませんからね。でも、マルクスが「コミューン主義」を宣言したときに彼の念頭にあったのは英国の「コモン」であり、フランスやイタリアの「コミューン」のことだったのです。

 土地や資源を共同体で共同管理するのって、すごく面倒なんです。共同的にものを管理するためには、異論と対話し、さまざまな要求を調整して、合意形成しなきゃいけないからです。だから、コモンを共同管理するためには、成員たちに市民的な成熟が要求される。

「コモンは生産性が低い」ということだけを「リアリスト」たちは指摘して、それが「絶対悪」であるかのように語りましたけれども、彼らはコモンの管理を通じて村落共同体の一体感が醸成され、共同体成員たちが市民的成熟を果たしていたというコモンの教育的・遂行的な機能を見落としていた。コモンのような複雑なシステムを統御するためにはまず「私たち」という幻想的な主体を立ち上げなくてはならない。そして、「私たち」のうちのいくたりかはまともな大人にならなくてはならない。そういう長いタイムスパンの中でしかコモンの存在理由は理解できないんです。

――コモンが人間的成熟さを醸成する場にもなっていたんですね。

内田 日本でも、地域共同体・血縁共同体はほぼ解体されてしまったので、複数の立場の利害や要求を調整して、合意形成に持ち込むための「訓練の場」が失われてしまった。ふつうの企業に勤めているだけでは、何十年働いていても、なかなかこの能力は鍛えられない。会社では上位者の決定に従うというのが基本ですから、キャリア形成したければ「イエスマン」であることを要求される。

 トップダウンの仕組みに慣れてしまうと、調整や対話のないシンプルなシステムが「よいもの」だと信じ込むようになる。そうなると、企業だけではなく、行政や、医療や、学校のようなシステムに対しても「とにかくシンプルなものに制度改革して欲しい。全部トップが意思決定し、それが末端まで遅滞なく伝えられる仕組みにして欲しい」と言い出す。

 だから、どうして三権が分立しているのか、どうして両院制が存在するのか、どうして民主主義では「少数意見の尊重」が謳われるのか、その意味がわからなくなる。全部独裁者に委ねて、あとは全員イエスマンでいいじゃないかと本気で思っている人がどんどん増えています。国についてさえも、「独裁者に丸投げした方が話が早い。うちの会社では経営者が従業員の意見なんか聞かないぜ。世の中って、そういうもんだろ」と心から信じてる人が増えて来た。

個人が身銭を切って公共を立ち上げるしかない

――そんななかで再びコモンの場を立ち上げていくにはどうしたらよいのでしょうか。

内田 国や自治体にはもう「公共の再構築」というマインドはありません。彼らが「国を愛せ」とか「公的権威に敬意を示せ」とうるさく言うのは、別にコモンを再構築したいからではなく、公権力を用いて、彼ら自身の政治的な私念を実現し、公的資産を私的に流用するためです。

 本来コモンというのは、平等な成員たちの間での合意形成の訓練と、相互支援体制の確立のためにあるものです。トップが「黙ってオレの言うことを聞け」と言って、それが通るようなシステムはどんなに規模が大きくてもコモンではありません。権力者の「私物」です。そこでは相互扶助的なマインドも生まれないし、成員たちの市民的成熟も果たせない。

 コモンの再構築のためには、近代市民社会が始まった時と同じように、まずは個人が身銭を切って公共を立ち上げるしかない。私的利害の追求よりも、公共の福祉を配慮する方が優先するという「大人の知恵」を持つ人たちが一定の頭数登場するしかない。それは市民革命の時と同じです。みんなが気分よく自由を満喫し、自分のしたいことができる社会を作るためには、自己犠牲的で非利己的な人々がまずどこかで「雪かき」仕事をしなければならない。

 だから、コモンの再生は別に市民全員が引き受けるべきタスクではないのです。全員が「類的存在」である必要はない。それはあくまで自己陶冶の目標であって、全員が「大人」でなければ回らない社会というのは、制度設計が間違っている。そんなの無理だからです。せめて共同体成員の7%くらいが「公民」的であり「大人」であれば、なんとかコモンを立ち上げて、回すことはできると僕は思っています。

 まずは自分の家の門扉を開放し、自分の財産を公共的なしかたで運用する、自分の私物をできるだけ周りの人にシェアする。そういう人が2~3人いれば、100人規模の「ご近所共同体」は形成される。それくらいのことなら自分にだってできるという人が、今の日本にだって100万人、200万人くらいはいると思うんです。いくらお金を溜め込んだって、墓には持っていけないんだから。生きてるうちにコモンのために使えばいい。

 前に、「シェアハウスをしているんですけれど、高齢者たちは自分たちのサービスを享受するだけで、若い私たちは持ち出しばかりで、割を食っている感じがする」という苦情を聞いたことがあります。私財を持ち寄って共同管理する時に、「自分が出した分だけ回収する」というルールでやっていたら、そんなシェアハウスはたちまち空中分解すると思います。そんなものは「コモン」とは言いません。

凱風館の土地、建物もコモンにするつもり

 共同管理するというのは、心理的に言うと、全員「自分は持ち出しばかりで、自分ひとりが割を食ってる」と思うということです。「みんなは公共のために貢献していて、えらいなあ。オレはその恩恵をこうむるばかりで、何もしてないなあ」と思うような人間はいません。「オレはいつもトイレ掃除しているのに、ヤマダはぜんぜんやらないから不公平だ。あいつにもやらせよう」とか言い出して、共同管理においてタスクの厳密な分配のために時間と労力を使うのはナンセンスなんです。「持ち出し歓迎」で、身銭を切って公共を立ち上げようと思う人がいるところにしかコモンは立ち上がりません。

 コモンは土地や家屋に限りません。何でもいいんです。自分の会得した技術や知識や芸能を伝えるとか、才能あるアーティストのパトロンになるとか。

――コモンの形というのは技芸の継承も含めたもっと多様なものとして捉えていいわけですね。

内田 そうです。コモンは同時代の人たちとあるリソースを共同管理するというだけのものではありません。先人から受け継いだものを後続世代に伝えていくという時間軸上でも存在する。キルトの編み方とか、田植えの仕方とか、地元に伝わる儀礼とか芸能とか、それを次世代に伝えることって、私的な活動に見えますけれど、それが実はコモンの統合を深いところで支えている。だから、目先の利便性だけをめざして共同体を作っても、長くは持ちません。長い時間軸を貫くようなミッションがないとダメなんです。

 僕の主宰する凱風館は第一義的には合気道の道場です。僕はそこで僕が師匠から学んだ技術と武道の考え方を教えている。門人たちは僕から学んだものを次の世代に伝える。そういう世代を超えた受け渡しが成り立つためには、凱風館は私的なものであってはならない。 

 凱風館の立っているこの土地はいまは僕の私有地ですが、いずれ財団法人化して、土地も建物も全部、コモンにするつもりです。いまは僕が1人で使い方を決めることができますけれど、財団法人になって共同管理することになると、そうはゆかない。なかなか合意形成はむずかしいと思います。

 だから、僕が死んだあと、残った門人たちはそれでけっこう苦労することになると思います。でも、それは仕方ない。それに、その苦労だってある意味では僕から彼らへの「贈り物」なんです。こんな狭い土地であっても、それがコモンである限り、管理するためには大人の知恵を要します。その面倒な仕事を通じて、門人たちが市民的成熟を遂げてゆくこと。それが凱風館の教育的な機能なんですから。

 

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『サル化する世界』『日本習合論』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。


今朝起きて外へ出るとほんの少しだけど雪が積もっていた。
「出勤」途中、江部乙。

ボンネットが入ってしまいましたね。

姫リンゴ。

園地内。

小菊。

すっかり葉を落としたイチョウ。


なぜ日本は自発的に「貧困化」へと向かうのか? 内田樹が語る“日本再建のビジョン”

2020年11月08日 | 社会・経済

「コモンの再生」が日本を救う その1

2020.11.08文春オンライン

新型コロナウイルスの危機はグローバル資本主義のあり方に急激なブレーキをかけ、疑問符を投げかけた。今後、アンチグローバリズムの流れで地域主義が加速すると分析する思想家の内田樹が、新著『コモンの再生』にこめた日本再建のビジョンを語る。(全2回目の1回目。)

◆◆◆

――ポストコロナ時代における1つの大きな見立てとして、今後、「地域主義」が加速していくというのはどういうことでしょうか。

内田 パンデミックによってヒトとモノの流れが停滞して、グローバル資本主義が事実上、機能不全になりました。クロスボーダーに人と商品と資本と情報が超高速で移動することを前提に制度設計されてるのがグローバル資本主義です。

 電磁パルスはこれからも国境を越えて移動するでしょうけれど、生身の人間は身動きがならない。そして、生身の人間が移動しないとどうにもならないことが世の中には思いがけなくたくさんあった。これから先も間欠的に新型ウイルスが発生して、その都度パンデミックが起きるとすると、早晩グローバル資本主義というシステムは破綻するでしょう。

 今回わかったことの1つは、「本当に必要なもの」が金で買えないことがあるということです。ビジネスマンたちは「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」という「在庫ゼロ」を理想とするジャスト・イン・タイム生産システムにこれまでなじんできました。とくにアメリカではそれが徹底していた。ですから、感染拡大の初期には、防護服やマスクまで戦略的備蓄がほとんどなかった。その後「主要な医療器具と医薬品に関しては、輸入に依存せず、国産にする」と方針を切り替えました。

 事情はヨーロッパも同じです。イタリアは医療崩壊したときにドイツとフランスに支援を求めましたが、両国とも医療品の輸出を禁止した。危機的事態になると友邦さえ門戸を閉ざすということをそのとき世界の人々は学んだ。ですから、医療品やエネルギーや食料といった社会にとって必要不可欠なものは、たとえ国際価格より割高でも自国内で調達できる仕組みにどこの国も切り替え始めてゆくと思います。

中産階級が没落し、市民の政治参加意欲が失われた日本

――日本でも深刻なマスク不足がおきて、国内での増産体制を強化しました。

内田 グローバル資本主義では、メーカーは税金が安く、人件費が安く、環境保護規制がゆるいところに生産拠点をアウトソースしてきました。でも、そういう手荒なやり方自体がこれからはもう成り立たないでしょう。

 生産拠点を海外に移せば、国内の雇用が失われ、賃金が下がり、国内市場は縮小します。でも、企業は「国内の購買力が落ちたら、海外に市場を求めればいい」と考えて、国内市場を底上げする努力を怠ってきた。その結果、ブラック企業が増え、雇用条件は劣化し、中産階級が痩せ細り、消費は冷え込み、階層の二極化がさらに進んだ。

 でも、中間層の空洞化はもともとはビジネスサイドの要請に応じたらそうなってしまったということですけれど、実際にそうなってみたら、政治的に望外の結果が得られた。それは政権の安定です。国民が貧しくなったら、統治コストが安く上がるようになった。

 普通に考えると、中産階級が没落してプロレタリアート化すると、この「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」人々は収奪されたものを奪還するために立ち上がって、革命を起こすはずなのですが、そうはならなかった。貧困化し、権利を奪われた市民たちは、ただ無力化し、政治への期待を失っただけでした。考えてみれば、たしかにそうなって当然だったのです。

 近代史を振り返ると、中産階級が勃興すると、市民の政治意識が高まり、それが市民革命をもたらしました。ということは、逆から考えると、政治意識の高い中産階級が没落して、貧困化し、無力化すれば、むしろ市民の政治参加意欲は失われる。そんな歴史的実験をした先進国はこれまでありませんでしたが、日本ではそれが起きてしまった。

 実際に中産階級が痩せ細って、プロレタリア化したら、彼らは無力化して、政治参加意識を失い、むしろ消極的にではあれ政権を支持するようになった。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という手垢のついた事大主義的な言明を上から下まで、知識人から労働者までが唱和するようになった。「国民が貧乏になると、国民は統治し易くなる」という意外な命題が成立したのでした。

 振り返れば、1960~70年代の高度成長期、国民が「1億総中流」化した時代は「荒れた時代」でもありました。学生運動も市民運動も労働運動もその時期が一番激しかった。革新自治体が日本中に広がったのもその頃です。経済がぐいぐい成長し、若い人たちが元気に走り回り、あらゆる分野でイノベーションが起き、国としての発信力が高まった時には、実は中央政府によるコントロールが難しい時期だった。国運の向上期には統治コストが嵩むということです。

 だから、その逆に、経済活動が非活性化し、貧困化が進むと、国民の権利意識は萎縮し、政治運動は沈静化する。統治する側から見たら、ありがたい話なんです。統治コストを最少化しようと思ったら、国民を無権利状態に落とせばいい。福祉制度を空洞化し、社会的弱者は「自己責任で弱者になったのだから、公的支援を期待すべきではない」と突き放す。国民たちは貧しくなればなるほど、口を噤んで、黙って下を向くようになる。なにしろ「現状を改革したければ、現状を改革できるくらい偉くなってから言え」という強者の理屈に社会的弱者たちが進んで拍手喝采するような世の中なんですから。

国民を無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がない

――貧困化で統治コストが最少になるというのは、ドキリとする指摘です。

内田 安倍政権の7年8ヶ月の成功体験だと思います。安倍政権は反対する国民については、これを「敵」と認定して、その意向をすべて無視しました。逆に、自分の身内や味方には公権力を使って便宜を図り、公金を使って厚遇してきた。ふつうはそんなことすれば国民が怒り出すはずですけれども、そうならなかった。あまりに当然のようにはげしい身びいきをしたせいで、国民はすっかり無力感に蝕まれてしまった。権力のある人は何をしても処罰されないのだ、権力者は法律より上位にあるのだと国民は信じ始めた。そのような圧倒的権力者に逆らっても仕方がない、大人しく服従しようということになった。

 その時の成功体験を踏まえて、菅政権もそれと同じことをしようとした。反対者を潰し、社会福祉制度は骨抜きにして、中産階級の無権利化をさらに進めるつもりでいると思います。

 お隣の中国は、監視カメラによる顔認証システムやSNSでの発言チェックやカード利用歴のビッグデータを利用した全国民監視システムを作り上げました。国民監視のために膨大な国家予算を投じている。治安対策費が国防予算を超えたと聞いています。それだけの統治コストをかけるのは、国民が中産階級化してきたからです。豊かになると市民の権利意識が高まり、政治的な動きが始まる。そのことを中国政府は恐れているのです。

――2億台を超える監視カメラによる顔認証システム「天網」が中国全土に導入されていますね。

内田 ところが日本ではそんなことのために予算を使う必要がない。中国とは逆に、国民が貧しくなるにつれて、権利意識が希薄になり、政治参加意欲が減殺されているからです。うっかり反政府的なことを口走ると、すぐにお節介な奴らが「こいつ反日ですよ」とご注進に及んでくれて、公的な場から叩き出し、公的支援を止めるように陳情してくれる。だから、政府には国民監視の実務をする必要がない。官邸で寝転んでテレビを見て、「問題発言」をする人間をブラックリストに書き足すくらいの仕事で済む。マイナンバーとかほんとは要らなかったんです。別に大金をかけて国民監視システムを作るより、国民を貧乏で無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がないほど弱体化するんですから。今や統治コストの安さにおいて、日本は東アジアでは群を抜いていると思います。

 自民党の西田昌司議員が「そもそも国民に主権があることがおかしい」と発言する画像がネットでは繰り返し流されていましたけれど、あれはまさしく自民党の本音だと思います。うっかり国民の意見を聞くと、国民の側に権利意識が芽生える。次々と要求してくる。1度でもそれを聞いてしまうと、病みつきになって、どんどん要求が増えてくる。だから、初めから「お前たちの要求は何も聞かない。お上が施してくれるものを口を開けて待ってろ」と、ピシッと言って聞かせた方がいい。そう考えている。

社会的弱者を攻撃する「貧乏マッチョ」な人たち

 統治コストを最少化したければ、国民に権利を与えないのが一番いい。口には出しませんが、今の自民党の政治家はそのことがわかっている。とはいえ、国民がみんな死んだような顔になって、社会がどんより暗鬱なものになり過ぎるとそれはそれで困る。だから、ときどきは五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだと中味のない景気のいい話で気分を盛り上げる。そんなのは所詮「打ち上げ花火」で一過性の効果しかないことは仕掛ける側だってわかっています。本気でもう1度経済をV字回復させようと思ったら、戦後日本の成功体験は「1億総中流」しかない。でも、それだけはやりたくない。だから、国運が衰微することと、国民が無力化して統治コストが安く済むことのどちらがいいか天秤にかけて、安倍政権は国運の衰微を選んだのです。

――政権批判はかっこ悪い、デモに参加するなんて「ダサい」みたいな空気もここ数年で急に強まった印象があります。

内田 そうです。デモをしたりするのは社会的弱者であることをカミングアウトすることであり、それは恥ずかしいことだという考え方がもう深く広まっています。弱者に転落したのは自己責任だから、公的支援を期待してはならないと言い出したのは英国のサッチャー首相です。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉社会から「小さな政府」への切り替えは70年代に始まりましたが、その時に「社会など存在しない」とサッチャーは公言して、労働者階級を攻撃しました。それに当の労働者たちが拍手喝采した。「福祉制度のフリーライダーは国民の敵だ」というアイディアを最も熱烈に支持したのは労働者階級でした。

 オレは貧乏になっても国には頼らない、自己責任で貧苦に耐えると宣言する「貧乏マッチョ」な人たちが福祉制度の受益者である社会的弱者を攻撃する先頭に立った。そうやって労働者階級は分断され、市民のアトム化が進行して、市民たちの権利意識は希薄化し、統治コストは削減されました。この新自由主義の流れはそれからずっと続いています。アメリカでも、日本でも、それは変わりません。トランプの最も熱烈な支持者はまさにこの「貧乏マッチョ層」ですから。

――たしかにみなが互いに協力して守り合うという感覚が現代社会では極めて希薄です。

内田 相互支援のための互助的なネットワークの解体を進めたのは、マーケットと政治です。マーケットの側の理屈では、相互支援ネットワークが存在して、身内の間では市場を介さずに商品やサービスが活発に行き来すると、資本主義的には困ったことになります。ものが売れないから。だから、まず血縁・地縁共同体を解体した。市民を孤立させれば、生きるために必要なものは市場で、貨幣を投じて調達しなければならない。資本主義の発展のためには相互支援ネットワークは邪魔なんです。

 政治の側の理屈で言うと、市民を孤立させ、無力化させると統治コストは削減される。この点でマーケットと政治の利害が一致した。国民を分断して、誰からも贈与されず、誰からも支援もされない状態に置いた方が消費活動は活性化するし、統治はし易くなる。いいことずくめじゃないかという話になった。

 そういう歴史的文脈の中で、再び相互支援の公共性を再構築することが喫緊の課題だと僕は考えています。それが「コモンの再生」というこの本のテーマです。


積雪を予想していたのだが、いい天気になった。

バラの開花か?このまま萎れるか?開花しそうな感じ。


香山リカ 「生きづらさ」と「生まれてこなければ良かった」~「反出生主義」は何を伝えようとしているのか

2020年11月07日 | 社会・経済

(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

2020/11/05 imidas 連載コラム「常識を疑え」

 哲学者・森岡正博氏の新著『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房)が話題だ。

 これは最近、主に哲学の世界で注目されている「反出生主義(Antinatalism)」に光をあて、その源流を古代ギリシアやインドにまで遡って求めつつ、ショーペンハウアーやシオランなどの反出生主義的な西洋哲学の系譜をたどり、さらに現代の問題を論じるという労作だ。

 では、ここで言われる反出生主義とは何か。狭義では「子どもを持たない立場」だが、この概念が注目されるきっかけを作ったともいえる南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターは、2006年に出した著書『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』(邦訳版は、小島和男他訳、すずさわ書店、2017年)でさらに議論の射程を拡大し、誕生害悪論、まさに「生まれてこない方が良かった」という論を主張する。しかも、ベネターは、そうやって「産まない」「生まれない」の果てに、人類が絶滅する日が来ることも“歓迎”しているようだ。

 では、なぜこの反出生主義がいま世界的に注目されているのだろうか。

 森岡氏は、「Business Insider」で牧内昇平氏のインタビューに答えてこう述べている。その記事「私たちは『生まれてこないほうが良かったのか?』 哲学者・森岡正博氏が『反出生主義』を新著で扱う理由」(2020年10月21日)から引用させてもらおう。

「ネット上では、反出生主義に共感する理由として『社会状況の悪化』を言っている人が一定割合います。格差社会、弱者を使い捨てるような社会の中に新たに命を生み出したくない、自分の子どもがそういうところに巻き込まれるのは見たくない、ということです。

もう一つが『環境問題』です。地球環境が悪化している中に子どもを新たにつくるのは無責任ではないか、ということ。特に英語圏のニュースを読んでいると、環境問題と反出生主義とのつながりが注目されています。」

 つまり、何らかの良くない外的要因が、「産みたくない」「生まれなければ良かった」につながっているのではないか、ということだ。それは容易に理解できる。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 話はやや変わるが、このところ、自殺者の増加が問題になっている。警察庁の調べ(2020年9月末速報値)によると、上半期(1~6月)は前年同期を下回っていたが、7月に前年を上回り、8月と9月はさらに増加している。具体的な数字を記すと、7月は1818人(前年同月比25人増)と増加に転じ、8月には1854人(同251人増)、9月は1805人(同143人増)となっている。自殺者数は依然として男性の方が多いが、7月以降、女性では20歳未満から60歳以上まですべての年齢で自殺率が上昇しているのが目を引く。

 原因の分析はまだできていないが、誰もが考えるのが「新型コロナウイルス感染拡大の影響」だ。とくに女性は非正規雇用で働く人の割合が男性より高く、コロナ不況で仕事を失ったり収入が激減したりしやすい。また、子どもの休校や授業のオンライン化、夫のテレワークなどで結果的に家事が増え、ストレスを抱える女性も多いだろう。

 これは私の診察室での経験なのだが、緊急事態宣言が続いていた頃は「とにかく感染を避けなければ」と高い緊張状態が続き、ほかのことを考えられなくなった人が少なくなかった。「先生、うつ病が治ったみたいです。それどころじゃないですからね」とややテンションが上がりぎみの人さえいた。しかし、宣言が解除された後も感染者が増加したり一定数より減らなかったりと事態が長期化する中で、「いったいいつまでこの状況が」と不安になり、心身に強い疲労を感じるようになった人が診察室にやってきはじめたのは、むしろ夏以降のことであった。中には「もう生きるのにも疲れました」と希死念慮(自殺願望のこと)を口にする人もいた。「7月以降の自殺者の増加」は、その私の経験とも矛盾しない。

 これらは、まさに新型コロナウイルス感染症がもたらした外的要因であり、その結果としてのメンタルヘルス不調や希死念慮といえる。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 実は、冒頭で述べた反出生主義は「産まない」「生まれない」を軸とはするが、積極的に自殺を肯定し主張する論者は少ない。人類の絶滅も視野に入れているベネターでさえ、「死」は「完全に意味のない生と比較すれば、いくぶんまし」と述べるにとどまるため、森岡氏は「(ベネターの)誕生害悪論は、その毒性も含めて独自の輝きを誇っているが、自殺消極肯定論はそれに比べると世間知の範囲内での議論だと言えるだろう」と書く(前掲書)。

 ただ、それでも「生まれない方が良かった」から「生きているのを中断したい」への移行のハードルは、それほど高くないはずだ。実際に古今東西の文人などの中には、いまでいえば反出生主義にカテゴライズされるような作品を残し、自死を遂げた人も少なからずいる。

 そして先ほどの森岡氏のインタビューの引用からもわかるように、このところ反出生主義が注目されている理由のひとつには、社会や環境などの「外的要因の悪化」もある。だとするとなおのこと、それと夏以降の日本で起きている自殺者の増加とは連動しているとも考えられる。

 しかし、本当の問題はその先だ。日本の自殺対策を牽引するひとりである「いのち支える自殺対策推進センター」の清水康之代表理事は、夏以降の自殺者の増加に「芸能人自殺報道の影響」があると指摘する(「人気俳優の自殺報道『とりわけ若い人に影響』 直後に『自殺者』増加の背景」、弁護士ドットコム)。清水代表理事の言葉を紹介しよう。

自殺問題に関わり20年ほどになるが、ここまで芸能人の自殺が相次いだのは記憶にない。自殺報道がとりわけ若い人たちに影響があることが分かってきたので、芸能人の自殺対策についても何かできないか検討している」

 たしかに診察室でも、芸能人の自殺が報じられるたびに「ショックを受けました」という声を聴く。中には「私も、とつい考える」という人さえいる。そのほとんどは女性だ。では、彼女たちは自殺した俳優やミュージシャンのファンだったのかというと、そうでもなさそうだ。ある人がこう言っていた。

「とくに好きだったわけでもなく、ただテレビでよく見るな、というくらいでした。でも、多くの人を楽しませてきた俳優さんですよね。お金もあっただろうし、家族にも恵まれていたと聞きます。そんな人さえ死んじゃうのに、私なんかたいしたこともできないのに、こうして生きている意味ないですよね。何のために生きてるのかな、と考えるとむなしくなって、死ぬことばかり考えるんです」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 何のために生きているのか。生きている意味とは何か。

 精神科医にとって最も答えにくい問いだ。日本自殺予防学会の理事長を務める精神科医の張賢徳氏は、9月28日、学会のホームページで「自殺しないでください」という緊急提言を発表した(「最近の自殺の報道に関する緊急提言」)。芸能人の自殺報道などにも触れ、張理事長はこう訴える。

「他人の自殺の一面だけを見て、『じゃあ、私も』と一線を越えてしまうのは絶対によくありません。死んでしまったら、もうこの世には戻ってこれません。遺された人たちも一生苦しみます。」

 そして、「あきらめないで相談してください」と身近な人や専門機関への相談を呼びかけるのだ。これほど力強く「死なないで」というメッセージを発する張医師だが、結末部分ではややトーンが変わる。

「『なぜ生きないといけないのか』と患者さんから問われて答えに窮することがあります。私は精神科医ですが、精神医学がそれに対する答えを持ち合わせていないのです。」

 それは、「哲学や宗教の問題だと思います」と張医師は言う。そのあとには再び、「ただ、絶対に一つ言えることは、自殺しないですむ方策が必ず見つかる」として提言を結ぶのだが、「なぜ生きないといけないのか」という問いへの答えは精神医学にはない、という率直な表明が強く私の心に残った。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 では、哲学はどう「生きる意味」に答えるのかと見わたすと、今回、紹介したような反出生主義がブームのようになり、「生まれない方が良かった」としているのである。「いや、それは外的要因の悪化がひどいからだろう。コロナ、貧富の格差、虐待、環境問題などが少しでも改善すれば、反出生主義もトーンダウンするはず」と言う人もいると思うが、そうなのだろうか。

 実は、森岡氏は先のインタビューでこんなことを言っているのだ。

「ただ、考えなければならないのは、貧困でもなく、差別も受けず、家庭環境も円満なのに、反出生主義の考え方をもつ人はいるということです。

もし魔法のようなものでその人が抱える外的要因が全部解決したとする。そうしたら『生まれてこなければよかった』とか、『子どもを産まない』とか思わなくなるのかといえば、そうではない。この点は多くの人の直観に反することかもしれません。」

 インタビュアーの牧内氏もそのあとにこう打ち明け、対話が続く。

「――確かに、さしあたり自分の人生に不満はなくても、『反出生主義』に共感する人がいますね。取材時の驚きの一つでした。条件付きの『こんな人生なら生まれてこなければよかった』ではなくて、本質的に『生きる価値』について疑いの目を向ける人がいる、ということですか」(牧内氏)

「そういうことです。実はこの問いに、多くの人がなんとなく気づいているんじゃないのか、という気がしています。これは実は多くの人が抱えている、『真正の哲学的問題』である可能性があります。」(森岡氏)

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 なんということか。この「産まない」「生まれない」は単に外的要因の悪化に対する防御や抵抗というだけではなくて、もっと本質的な何かと関係している可能性がある、というのだ。つまり、人気者の芸能人の自殺をきっかけに、「生まれた意味、生きている価値などなかったのかもしれない」と考えるようになり、生きる意欲を失っている診察室の人びとは、森岡氏言うところの「真の哲学的問題」に対峙している可能性がある、ということだ。

 だとすると、ますます精神科医はそれに対してどういう言葉を発してよいのか、わからなくなる。「そんなこと言わないでください。あなたが生きている意味はきっとありますよ」「あなたはそこにいるだけで価値があるんです。それ以上、なにも必要はありません」といった言葉は“きれいごと”に思え、私にはとても口にできない。かといって、もちろん「たしかに、それは“真の哲学的問題”ですね」などと言うわけもない。

 診察室で目の前の人から「生きていたくない」と打ち明けられたら、私は「とりあえず、また私に会うためにだけ、生き続けてもらえませんか。もしかすると、治療を通して、少しは何かを変える役に立てるかもしれません。そのために時間をください。来週また必ず来てください。もし待てなかったら電話してください。約束してくださいね」などと言う。しかし、それでその人の「消えたい」という願望を完全に止められる、という自信はまったくない。せいぜい時間かせぎでしかないので、そのあと「時間をくださいと言われたけど、なにも変わらないじゃないの」と非難されるかもしれないし、私の言葉など無視して人生の中断を実行に移さないとも限らない。あまりに可能性が高そうなら入院してもらうが、「可能性が高そう」かどうかの判断もあてにならないことがある。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 反出生主義者のベネターは、人類の絶滅も歓迎していると言ったが、実は動物についても同じ考えを持っている。とにかく生まれるのは苦痛でしかないので、人間も動物もそれを避けるのが最良だ、という考えなのだ。森岡氏は、新著の中で次のように書く。

「ベネターが夢想しているのは、岩石でできた惑星の上に水が流れ、風が吹き、細菌がうごめき、植物や木が生い茂っている、そういう風景なのだろう。そこにはなんの快楽もないかわりに、なんの苦痛もない。」(前掲書)

 どうだろう。この描写に不気味さを感じる人もいるかもしれないが、一方でその永遠の静寂や調和を「美しい」と思う人もいるのではないか。

 1960年代、「地球と生物が相互に影響しあうことで、地球がひとつの生きもののように自己調節システムを備える」とする「ガイア理論」を提唱したイギリスの生態学者ジェームズ・ラヴロックは、100歳を迎えた2019年、新著を世に送り出した。

この本の中でラヴロックは、「地球生命体ガイア」が次にパートナーとして選ぶものは人間ではなくてサイボーグ、つまり人工知能だとする衝撃的な仮説を提示する。

 それどころか、人工知能と地球との「ガイア共同体」ができ上がったときには動物も植物もいなくなる可能性がある、と100歳の科学者は反出生主義の旗手ベネターよりさらにラディカルなことを言う。その箇所を引用しよう。つけ加えておくが、これは新型コロナウイルス感染症が地上に出現する以前、2019年7月にイギリスで出版された本である。

「この新しいITガイアは当然ながら、人間が助産師の役回りをしなかった場合に比べてずっと長い生存期間を維持するだろう。最終的に、有機的ガイアはおそらく死ぬだろう。ただ、わたしたちが人間の祖先の種の絶滅を悼まないように、わたしの想像では、サイボーグたちは人間の滅亡を悲しまないだろう。」(『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』松島倫明訳、NHK出版、2020年)

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 新型コロナウイルス感染症の蔓延。反出生主義のブーム。自殺者の増加。いったい何が起きているのだろう。これは一時的なことなのか、それとも森岡氏やラヴロックが言うような「本質的な何か」の予兆なのだろうか。

 もちろん、私は精神科医として、コロナの影響を受けてうつ状態を呈する人たちや「もう生きていたくない」と訴える人たちが少しでも苦痛をやわらげ、できることならばまた生きる意欲を回復できるように、知識と経験をフルに使って対応していくつもりだ。いくら反出生主義や「ITガイア」が何かの本質だとしても、「人生の中断もやむなし」などとは絶対に思わない。

 しかし、いったん診察室を離れ、やや広い視野で世界を見たとき、また景色は違って見えてくる。これからもこの反出生主義の行方を、あるときは具体的に微視的に、あるときは抽象的に巨視的に追っていくつもりだ。


「学問」・「芸術」・「創作」・・・・・・・・
それが「生きる意味」を示してくれると思う。

明日は⛄マーク。

とりあえず、天ビを降ろしました。

 


雨宮処凛「生きずらい女子たちへ」痴漢や嫌がらせに対してできること〜「傍観者」をやめてみませんか

2020年11月06日 | 社会・経済

imidas連載コラム 2020/11/04

 10月11日の国際ガールズデーに公開されたある動画が話題だ。

 それは「#ActiveBystander=行動する傍観者 」。

#ActiveBystander=行動する傍観者

 脚本を担当したのは、ジェンダー問題についての著作が多くある作家のアルテイシアさん。盗撮する男や、すれ違いざまに女性の胸を触る男、わざとぶつかる男、職場の飲み会でセクハラする男などが登場する。動画の主人公は被害者でも加害者でもなく「傍観者」。そんな傍観者が些細なことでもアクションを起こすことで性暴力のない社会に近づくというメッセージが多くの反響を呼び、動画はすでに200万回以上再生されているという。

 女性にとっては、「うわー、こういうのよくある」とうなずく場面が盛りだくさんの映像だろう。最近も、愛猫のぱぴちゃんを動物病院に連れて行った帰りのバスの中、バスを降りる男に思い切りぶつかられた。わざとということはすぐに分かった。男は、「邪魔だ」というような言葉を口の中でうめきながら体当たりしてきたからだ。とっさのことに何もできず、わざとぶつかられたと気づいた時にはバスの扉は閉まり、すでに動き出していた。

 不意打ちで殴られたような衝撃に全身がカッと熱くなった。怒りがこみ上げたが、自分に何かできたかと言えば、見ず知らずの人に威嚇しながらぶつかってくるような男に関わるなんてリスクの高い行動、とてもじゃないけどできるはずがない。その上、こちらは猫を連れた身。もし猫に何かされたらと思うとそれだけで足がすくむ。

 よく、子連れの女性が「ベビーカーが邪魔だ」と暴言を吐かれたりしているが(子連れの男性は決してそんなことは言われないのに)、そのようなことをする男は「守らなくてはいけない存在と一緒にいる女」は絶対に反撃してこないと分かってやっている。そう思うと、その卑劣さと、「明らかに自分より弱いものにしょぼい威嚇行動をしないとやってられない一部男性」のヤバさに目の前が暗くなってくる。

 このように、残念なことだが公共交通機関には、「不機嫌な男」「意地悪な男」が山ほどいる。もちろん、不機嫌で意地悪な女性もいるが、東京に出てきて30年近く、これら「不機嫌男を搭載した乗り物」では数え切れないほど嫌な目に遭ってきた。

 例えば数年前、初めてぎっくり腰になった時。数カ月間は腰が痛すぎてマトモに立っていることもできず、一度座ったら立つまでに異様に時間がかかるようになってしまった。一言で言うと、動きが完全に後期高齢者になってしまったのだ。しかし、見た目はそうは見えない。そんな人間が電車なんかに乗っていて、降りる時なんかにちょっともたついたらどうなるか。もう、全方向から舌打ちの嵐である。

 腰が痛い。だから普段のようにテキパキ動けない。そんな自分に360度から浴びせられる舌打ちや聞こえよがしのため息。その主は、全員が男だった。自分が弱者性を帯びた途端、見える景色はこれほどに変わるのかと私は心底驚いた。もし、ぎっくり腰がこのまま治らなかったら、もう東京で暮らすの無理かも……。この時、本気でそう思った。

 動きが「都会仕様」でなくなった途端、これほどの仕打ちを受けるのだ。これじゃあ高齢者になったら、外になんか出られないのではないか……。それ以来、お年寄りにはできるだけ優しくしようと心がけている。

 この経験は、私に確実にトラウマを与え、行動も制限した。

 それを痛感したのは昨年(2019年)春のこと。4月に14年間ともに暮らした愛猫・つくしをリンパ腫で亡くしたのだが、亡くなる少し前から、近所の動物病院ではなく猫専門の病院に通うようになった。

 しかし、その病院は遠かった。電車と地下鉄を乗り継ぐと1時間近くかかる。当時の私は猫の病気がショックすぎて食事も喉を通らず、いつ倒れてもおかしくないくらい体調が悪かった。そんな私が病気の猫を連れて電車や地下鉄に乗って、自分が倒れたり、具合の悪い猫が吐いたりしてしまったら……。とてもじゃないけど、「誰か助けてくれる」なんてイメージは持てなかった。逆に自分や猫の粗相を罵倒されるという予感しかなかった。

 タクシーで行くという手もあった。往復1万円近くかかるが、金銭的な面とは別に、どうしても気が進まなかった。なぜなら、これまでタクシーで運転手にひどい目に遭ったことも数知れないからだ。

 もっとも酷かったのは、初めて行く親戚の家に向かうために千葉で乗った個人タクシー。住所を告げた途端に「住所なんかじゃ分からない!」と高齢の運転手はキレまくり、こちらが何を言っても怒鳴りまくった果てにハンドルをドンドン叩き出して「分かるわけないだろう!」と脳天から突き出すような声で絶叫。よく分からないルートを散々走られた上、最終的には豪雨の中、どこだかさっぱり分からない場所で降ろされた。

 怒りを通り越して、半泣きだった。もちろん、料金もきっちり取られた。もし、病気のつくしを連れた状態でそんな「地獄の暴言タクシー」を引いてしまったら、つくしの命を縮めてしまうことになりかねない。その時、心から思った。「赤の他人、特に男性全般を信用できない世の中って、これほど生きづらいのか」と。

 結局、免許のない私は、友人の車で遠い病院に連れて行ってもらったりしていたのだが(それもほんの数度で、つくしはすぐに亡くなってしまった)、その時、思った。ああ、自分がマッチョで強い男だったら、例えば闇金ウシジマくんみたいな見た目だったら絶対にこんな心配しなくていいのにと。タクシーの運転手にも、偶然電車に乗り合わせた男にも、決して傷付けられたりはしないだろうと。少なくとも、罵倒されることは絶対にないだろう。

 さて、ここまで延々と「公共交通機関、並びにタクシーの恐怖」について書いてきたが、そんな話を男性にすると時々驚かれる。「満員電車は最悪だが、そこまでの嫌な思いをしたことはない」「特にタクシーなんかでそんな目に遭うなんて信じられない」という声をよく聞くのだ。

 ああ、やっぱり同じ乗り物に乗りながらも見えている世界が違うのだなぁと痛感する。が、これが70歳以上の男性になると、「自分もしょっちゅうぶつかられる、あれ絶対わざとだよね!」と「あるある話」に発展したりする。どうやら男性でも「年寄り」と判断されるとナメられるらしいのだ。そう思うと、わざとぶつかってくる男の卑劣さにより怒りがわいてくる。

 さて、公共交通機関に潜んでいるのは不機嫌、意地悪という妖怪だけではない。

「痴漢」という犯罪者もわんさかいる。ちなみに北海道の田舎出身の私は、18歳で上京するまで痴漢とは無縁の日々を過ごしていた。電車通学の経験などなく、夏は自転車、冬はバス通学。そのバスが仮に混んだとしても、田舎ゆえ乗り合わせる人は全員「〇〇さんとこの息子さん」「〇〇ちゃんのお父さん」と最初から思い切り身バレしている。こんな場所で痴漢をするということは、即「村八分」を意味するどころか、孫の代まで「変態の家」というレッテルを貼られ、子孫が後ろ指をさされ続けることと同義だ。

 そんな私が上京して驚いたのは、「痴漢は本当に存在する!」ということだった。

 それまで、どこか都市伝説のように捉えていたのだ。それほどに「ありえない」存在だった。しかし、それは満員電車の中、どこからともなく現れた。精神的なショックと不快感、拭っても拭っても取れないような汚らしさに「これが都会女子が言ってたやつか……」と愕然とした。そんな痴漢の中でももっとも衝撃だったのは、身動きもできない電車内で触りまくってきた果てに、私が電車を降りる時に一緒に降りて腕を掴み、「遊びに行こう」と誘ってきた男の存在だった。19歳の頃だったと思う。

 それは初めて、痴漢が「触ってたの俺だよ」と目の前に現れた瞬間だった。痴漢は恥ずべき痴漢だというのに悪びれた様子もなく、当たり前のような顔で私を誘うのだった。

 一瞬ぽかんとしたが、腕を振り払って逃げ出した。心臓がバクバクして、膝から崩れ落ちそうなのを我慢して足早に歩いた。痴漢に声をかけられたこともショックだったが、その痴漢が20代のおしゃれっぽいサラリーマンで、おそらく世間的には「イケメン」の部類に入るだろうこともショックだった。そんな一見「ちゃんとした大人」に見える人が10代の自分に痴漢という犯罪行為をし、悪びれもせずに誘ってくることにまたまた衝撃を受けた。

 その男の中では、痴漢とは「ナンパのきっかけ」くらいのものなのだろうか? それとも、痴漢→触られて女が欲情→声をかけてそのままホテルに、というような、都合の良すぎるエロ漫画みたいな世界観で生きているのだろうか?

 今の私であれば頷くふりをして一緒に歩き、駅員に「痴漢です」と突き出すだろうが、当時はただただ混乱と衝撃の中にいて、逃げ出すことしかできなかった。それにあの時、もし「痴漢です、助けて!」と声を上げたとして、誰か助けてくれただろうか?

 きっとあのような「デキるタイプの男」は「まあまあまあ」とか余裕な顔で笑って、誰も私の言い分なんて信じてくれないのではないだろうか。私は「傍観者」のことが、今も昔も信じられないのだ。

 だけど、そんな傍観者にだからこそできることがある。そう教えてくれるのがこの動画だ。ほんの些細なことでいい。別に加害者を叱りつけたり警察に突き出さなくていいし、被害者を命がけで守らなくていい。ただ、見て見ぬふりをせず、その場でできることを勇気を出してしてみるだけで、被害者を少し、救うことはできる。

 上京して、30年近く。心のどこかで、見て見ぬふりをし、傍観者でいることが「都会の大人のたしなみ」みたいに勘違いしてた。だけど、そんな作法をして何かがよくなったかと言えば、加害者に「あ、これやってもOKなんだ」という成功体験を与えただけではないだろうか。「誰も助けてくれない」社会で生きられるほど、私たちは強くない。

 これからは、少なくとも「見て見ぬふり」はしないでおこう。

 動画を見て、改めて、思った。


ミニトマトジュース。

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無添加ミニトマトジュースです。


内田樹の研究室 平時と非常時

2020年11月05日 | 社会・経済

2020-11-04 mercredi

 毎年11月は韓国講演旅行に行っているけれど、今年はコロナで中止になった。その代わりにZOOMで日韓を繋いで、いつも通訳をしてくれる朴東燮先生にMCと通訳をお願いして、日韓のオーディエンスに向けて、11月2日と3日に「ポストコロナの社会」について90分の講演をした。

 3日の講演では「平時と非常時」について話した。忘れないうちにどんなことを話したか記録しておく。

 

 オーディエンスから事前にもらった質問票には次のような質問が含まれていた。

「市民が享受している自由と感染症対策としての自由の制限の矛盾をどう考えるべきですか?」

「ふだんはリベラルな人が政府や知事の要請する行動制限に従うのはおかしいという人がいますが、どう考えるべきでしょうか?」

「未知のウイルスに対する恐怖を利用して強権的な政治が行われるリスクはあるでしょうか?」

 日韓いずれでも市民が抱く不安には通じるものがある。私の回答は次のようなものである。

 平時と非常時では判断基準が変わる。

 平時では行動制限を拒否する市民が、非常時には受け入れるということはある。

 ただし、受け入れるには一つ条件がある。

 その話をしたい。

 平時の判断基準を非常時にも持ち込むことを「正常性バイアス」と呼ぶ。

 自分の身にとって不利益な情報を無視したり、リスクを過小評価する心的傾向のことである。特に自然災害や災害のときに逃げ遅れの原因となる。

 韓国のセウォル号事件のときは、フェリーが沈み始めても、最初に出された「船室にとどまるように」という指示をそのまま受け入れて、避難行動をとらなかった高校生たち300人が溺死した。

 東日本大震災でも、大川小学校で下校準備中に地震が起き、児童たちは校庭に避難した。一部の児童は教師の指示に逆らって自主的に避難行動をとって生き延びたが、ふだん通り教師の指示に従って斉一的な行動をとった児童74人は溺死した。

 御嶽山噴火のときも、避難行動をとらずに噴火口近くにとどまり、携帯で噴火の様子を撮影していた者たちが何人も死んだ。

 どれも非常時に際して「ふだん通り」に行動した人たちが致死的なリスクを冒すことになった。

 平時から非常時への「スイッチの切り替え」は難しい。

 日常生活では可能なリスクをつねに過大評価していると生活上不自由が多くなるからである。

 青信号でも車を止めて左右確認をしたり、電車のホームで柱にしがみついて転落を避け、停電を恐れてエレベーターには乗らないというようなことをしていると日常生活が不便でしかたがない。だから、私たちは惰性的に「非常事態というのはあまり起こらないものだ」というふうに考える。そして、たしかにそうなのである。

 コロナウイルスの感染拡大でも、「自分は感染しない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。必ず働く。だが、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。

 問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういうふるまいのことか、よくわかっていないということである。

 それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。いかにも「恰好悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」ふるまいではないように思えるからである。恐怖や不安に取り憑かれて浮足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。

『史上最大の作戦』では、ノルマンディー上陸作戦で最悪の戦場となったオマハビーチで、ドイツ軍の機関銃掃射を受けながら葉巻をくわえて海岸を歩くノーマン・コータ准将の姿が活写されている。彼の落ち着いた適切な指示によって連合軍兵士は防御線の突破に成功するわけだが、彼はどう見ても恐怖心に取り憑かれているようには見えない。だが、彼は「正常性バイアス」に固着していたからそうしたわけではない。歴戦の軍人としてちゃんと「非常時」へのスイッチ切り替えを行っているのである。それは「自分が見ているものだけに基づいて状況を判断しない」という節度を持つことである。

 正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることではなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性・一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。

「主観的願望をもって客観的情勢判断に替える」というのが正常性バイアスの実態である。主観をいったん「かっこに入れて」、複数の視点から対象を観察する知的態度のことを「正常性バイアスの解除」と呼ぶのである。フッサールが「エポケー(現象学的判断停止)」と呼んだのは、まさにこのような知的態度のことである。

 私が見かける「コロナ・マッチョ」たち(マスクをすること、ソーシャル・ディスタンシングをとること、頻繁に手指消毒をすること、人が密集する場を忌避することなどを「怖がり過ぎだ」と嘲弄したり、叱責したりする人たち)の共通点は「私の周りでは死者も、重症者もいない」というところから推論を始めることである。

「私の周り」で現認した事実をもってさしあたり「客観的事実」であるとみなす態度は、他人からの伝聞を軽々には信じないという点では現実主義的であるし、成熟した大人の態度でもあるとも言える。けれども、これは「正常性バイアス」のひとつのかたちである。

 正常性バイアスは「非常事態というのはなかなか起きるものではない」という蓋然性についての判断としては適切だが、自分の個人的な感覚や知見の客観性を過大評価するという点では適切でない。

 こういう人に対して、ふだんからものごとを複眼的にとらえる知的習慣を持っている人がいる。自分が現認したことはあくまで個人的、特殊な出来事であり、そこからの推論は一般性を要求できないという知的節度を持つ人は、いわば日常的に正常性バイアスの装着と解除を繰り返していることになる。こういう人は非常時になっても「驚かされる」ということがない。

 非常時というのは「自分以外の視点からの情報の取り込みを一気に増大させないと、何が起きているかよくわからない状況」のことである。だが、日常的に「自分以外の視点からの情報の取り込み」を行っている人にとっては、これは「スイッチの切り替え」というよりは、「目盛りを少し右に回す」くらいの動作を意味する。だから、そうすることにそれほど激しい心理的抵抗を感じずに済む。日常的に「他者の視点」から目の前の現実を眺める仕事に慣れている人間が最も非常時対応に適しているということになる。

 以上のような知見を踏まえると、質問票の答えも導かれる。

 政府が市民に対して行動制限を指示することができる条件は一つしかない。

 それは政府の方が一市民よりも複眼的に事態をとらえており、何が起きているのかについて正確に理解しているということを市民が信じているということである。政府はいかなる私念も、いかなる党派性も、いかなる偏見もなく、現実をありのままに見ているということを市民が信じているということである。

 コロナ禍の中で、市民的自由について強い規制を行うことができた国は、市民がさしあたりは政府が「全国民の健康を等しく配慮している」ということを信用した国である。逆に、強い規制ができなかった国は、市民たちが政府の公平性・公共性を十分には信じておらず、市民的自由の規制が、政権やその支持者にのみ利益をもたらし、一般市民に不利益をもたらすものではないかという疑念を政府が払拭し切れていないということである。

 日本は後者である。

 非常時において「緊急事態だから政府に全権を委ねよう」という気持ちに市民がなるためには、平時においても「政府は公共の福祉のために行動しており、全国民の利害を、支持者・反対者にかかわらず等しく配慮している」と市民たちが感じていることが必須の条件となる。平時においてネポティズム的な政治を行っている政府が、非常時においてだけは正常性バイアスを解除して、全国民に等しく配慮するようになるだろうと信じる者はいない。

 (2020-11-04 07:59)


 これから札幌の皮膚科へ行ってきます。帰宅してからの更新は難しいので今のうちに…。でも、札幌の「コロナ」一番ひどい時で、氣が引けますが、薬がなくなりました。 

では、行ってきます。

まだ咲いていました。


古賀茂明「菅総理のグリーン宣言の裏に原発」& 初雪・初冠雪

2020年11月04日 | 社会・経済

連載「政官財の罪と罰」

古賀茂明2020.11.3 週刊朝日

 日本は完全に追い詰められたのだ。それが50年ゼロ宣言の背景だ。

 一方、所信の中に50年ゼロの具体的実現方法は書かれていない。先進各国は、排ガスなどの環境規制を厳格化し、炭素税などの経済的負荷措置も導入している。脱石炭火力も常識だ。助成措置でも厳格なエコカー選別、ガソリン・ディーゼル車販売禁止年次設定なども広がるが、日本では厳しい政策は皆無の状態だ。

 さらに、驚いたのは「世界のグリーン産業をけん引し」という表現。日本のグリーン産業は世界から取り残され、太陽光、風力、電気自動車どれをとっても国際競争の蚊帳の外だ。もう一つは、詳しいことは省略するが、経済産業省は電力の「容量市場」を創設して、再生可能エネルギーを販売する新電力に大きな負担を課そうとしている。事実上再エネ抑制につながる措置だ。50年ゼロはますます難しくなる。

 だが、菅総理は心配していない。なぜなら、切り札があるからだ。国際公約となった50年ゼロが難しければ、「原発再稼働・新増設を推進する」と言えば済むからだ。

 結局50年ゼロは原発推進のための陽動作戦ということになりそうだ。今後の展開を注意深く見ていかなければならない。

※週刊朝日  2020年11月13日号

古賀茂明(こが・しげあき)/古賀茂明政策ラボ代表、「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者。1955年、長崎県生まれ。東大法学部卒。元経済産業省の改革派官僚。産業再生機構執行役員、内閣審議官などを経て2011年退官。主著『日本中枢の崩壊』(講談社文庫)など


初雪・初冠雪(初氷はまだ)

自宅周り。
以下、江部乙。


山ブドウは優れもの

2020年11月03日 | 健康・病気

「ヤマブドウ自然食品研究会」より

ヤマブドウの成分には、ヒスタミン遊離抑制という機能性があります。花粉症は、抗原の刺激でアレルギー反応がはじまると、免疫系の細胞(肥満細胞)からヒスタミンをはじめとする化学伝達物質が放出されます。そして、ヒスタミンはある種の神経受容体(H1受容体)と結合し、その刺激によりさまざまなアレルギー症状が誘発されるのです。

 ヤマブドウには、このヒスタミンの受容体を遮断する機能があり、遊離を抑制する作用があります。

 AGEを減らすことで、老化予防だけでなく、がんや認知症予防にもなります。

 糖尿病の方は、特にAGEがたまりやすく、老化も通常より10年早く進みますので、AGEを減らすことで、合併症予防にもなります。

 山葡萄は、AGE生成を抑制するだけでなく、他にも豊富なミネラル・ビタミンが含まれています。

山葡萄の成分。

  • 酒石酸・・便秘予防、大腸がん抑制、整腸作用、免疫力向上

  腸内で悪玉菌の増殖を抑制し、ビフィズス菌などの善玉菌を増やして、腸内を健康に保ちます。

  • リンゴ酸・・疲労回復、体内浄化作用、抗酸化・抗アレルギー・抗炎症・抗菌作用

  体の疲労の原因物質である乳酸の分解を促進するため、疲労回復効果や腸の働きを活発にしたり、体内の浄化作用があります。

  • カテキン・・高脂血症(脂質異常症)、コレステロール抑制、花粉症、抗ガン、痴呆症、歯周病、糖尿病、高血圧予防、殺菌作用、二日酔い予防

  体内の毒素を消したり、細胞や遺伝子の損傷を防いだり、老化抑制、血圧上昇抑制作用、血中コレステロール調節作用、脂肪燃焼による体脂肪低減でのダイエット効果があります。脳の神経細胞を保護する働きがあり、脳の萎縮を抑制してくれます。

  • クエン酸・・疲労回復、血流改善、ミネラル吸収促進、美肌効果、痛風予防

  運動後やストレスなどで蓄積されていく疲労物質である乳酸を分解して排出する作用があります。血液をサラサラにして血流を改善する効果があり、新陳代謝が促進され、疲労回復に効果があります。クエン酸には、ミネラルの吸収を促進するキレート作用があり、美肌効果をはじめとしたアンチエイジング効果やガン予防、尿酸値を下げる効果から痛風予防に効果があります。

  • 葉酸・・胎児の先天性奇形の予防や心臓病、子宮頸ガン、貧血予防

  葉酸は細胞分裂とDNAの合成に関わり、細胞分裂のキーとなる核酸やチミンの合成に補酵素として働きます。そのため葉酸は新陳代謝や細胞分裂が活発な組織で必要になるビタミンです。爆発的な細胞分裂をして急激に成長していく胎児や消化器官の粘膜、赤血球の製造などで葉酸は必要になります。

  • 鉄分・・貧血防止、動悸・息切れ、めまい、血色不良、疲労回復

  「血のミネラル」とも呼ばれ、健康な血液にし、疲労を回復させ、全身を元気にします。

  • メラトニン・・ストレス解消効果、強力な抗酸化・抗老化作用、脳の老化防止効果

  メラトニンは、睡眠ホルモンとも呼ばれ、脳の松果体から分泌され、脈拍、体温、血圧を低下させて睡眠と覚醒のリズムを調整し、自然な眠りを誘う作用があります。睡眠を促し、体内時計をリセットする働きのあるメラトニンは、非常に強力な抗酸化・抗老化作用があり、アンチエイジングの薬としてひろく用いられています。腫瘍増殖抑制、血管新生抑制、DNA修復作用など多彩な抗腫瘍効果や免疫賦活作用、血中脂質改善作用や抗がん剤の毒性を減少させ、抗がん剤治療による治療成績の向上にも役立てられています。

  • ペクチン・・下痢、便秘予防、大腸がん抑制、胃潰瘍予防、血糖・血圧を正常にする

 コレステロールの吸収を抑え、血液中のコレステロールを低下させる働きがあります。腸内の環境を正常に保つ作用もあることから下痢や便秘の予防効果も発揮します。鉛や水銀といった毒性の貴金属の排泄や放射性物質の排泄促進を促す効果があります。

  • アントシアニン・・視力回復、眼精疲労、抗血栓、ドライアイ、動脈硬化予防

  アントシアニンは、網膜にあるロドプシンという物質の再合成を助け、クリアな視界を保って、眼精疲労を回復させます。

  • カリウム・・高血圧予防、ストレス軽減効果、糖尿病予防効果

  人体に必須の成分。細胞の浸透圧を維持するという生命の基本的な働きをします。高血圧の原因であるナトリウムの排泄を促し、血圧を正常に保つ作用があり、腎臓で老廃物を排泄させたり、筋肉の収縮を滑らかにする作用があります。気持ちをリラックスさせたり、糖尿病予防の効果もあります。カリウムが不足すると、高血圧、不整脈、心不全などの原因になります。お酒や甘味類などはカリウムを減少させる原因になりますので、お酒を良く飲む人や甘いものが好きな人は、カリウム摂取を怠り無くしてください。

  • ビタミンB6・・女性は月経前の排卵期になると血中ビタミンB6濃度が著しく低下することから、イライラや吐き気、頭痛やだるさなどの原因になります。ビタミンB6は、女性には必須の成分です。

 山葡萄は、普通の葡萄よりリンゴ酸が5.5倍、ビタミンB6が3倍、鉄分が5倍、カルシウムが4倍、そしてポリフェノールが9倍も含まれております。他にも多くのビタミンやミネラルが豊富に含むことで、現代人には欠かせない美容成分や健康成分が凝縮されていることから、毎日少しずつでもいいから摂取することをオススメします。

 山葡萄は、その希少性から少々値段的には高いと感じるかもしれませんが、AGEをためないための努力を今日から始めましょう!!

Wikipedia食用[編集]

岡山大学大学院の研究グループのマウス実験でヤマブドウの果汁には皮膚がんの発症を抑制する効果があることが確認されている[13]。

特に、ヤマブドウ果実の種子や皮に有効成分であるポリフェノールが多く含まれ、その機能性には、天然の抗酸化成分が多く含まれており、糖尿病などの病気や老化の予防に大いに期待されている。

主成分であるプロアントシアニジン、レスベラトロール、アントシアニン、カテキンなどの豊富なポリフェノールが大量に含まれおり、このヤマブドウ果実搾汁粕から熱水抽出したエキスにはAGEs生成阻害作用が報告されている。[14] 。糖尿病を誘発させたラットにヤマブドウポリフェノールを配合した餌を1ヵ月間食べさせた実験では、肝臓中3DG、AGEsの生成抑制が確認されている。[15]

AGE(終末糖化産物)とは?

AGEとは終末糖化産物(Advanced Glycation End Products)、すなわち「タンパク質と糖が加熱されてできた物質」のこと。強い毒性を持ち、老化を進める原因物質とされています。

老化というとすぐに思い浮かぶのはお肌のシミ・シワや認知症などかもしれませんが、それだけではありません。AGEが血管に蓄積すると心筋梗塞や脳梗塞、骨に蓄積すると骨粗しょう症、目に蓄積すると白内障の一因となり、AGEは美容のみならず、全身の健康に影響を及ぼしていると言えます。体のあちらこちらで深刻な疾病を引き起こすリスクとなるAGEを体内に溜めない生活・減らす生活を送ることが大切です。

 体内でつくられるAGE

AGEは、2通りのしくみで体内に溜まっていきます。

一つ目は、体内でつくられるAGE。

血中のブドウ糖が過剰になってあふれ出すと、人間の体の細胞や組織を作っているタンパク質に糖が結びつき、体温で熱せられ「糖化」が起きます。こうして「タンパク質と糖が加熱されてできた物質=AGE」ができるのです。

体内のタンパク質が糖化しても、初期の段階で糖の濃度が下がれば元の正常なタンパク質に戻ることができます。しかし高濃度の糖がある程度の期間さらされると、毒性の強い物質に変わってしまい元には戻れなくなります。

 食べ物から体内に入るAGE

もう一つは外から取り込むAGE。「タンパク質と糖が加熱されてできた物質」はいろいろな食べ物・飲み物の中にも含まれ、私たちは食事や間食として取り込んでいるのです。

わかりやすい例として、ホットケーキを挙げてみましょう。小麦粉(糖)と卵や牛乳(タンパク質)をミックスして加熱すると、ホットケーキが焼けます。そして、ホットケーキ表面のこんがりキツネ色になっている部分こそが糖化した部分。ここにAGEが発生しているのです。

こうした飲食物に含まれるAGEの一部は消化の段階で分解されますが、約7%は排泄されずに体内に溜まってしまいます。

 体内でできるAGEの量は、「血糖値×持続時間」で表すことができます。

血糖値が高いほど、体の中で糖とタンパク質が結びついて多くのAGEが発生します。そして糖にさらされる時間が5年、10年と長くなればなるほどAGEは溜まり続けるのです。

また、AGEを多く含む食べ物を頻繁に食べると、それだけ蓄積量が増えていきます。

手の届かない山ブドウ。

 


絶望の外国人収容施設

2020年11月02日 | 社会・経済

ドスのきいた「倒すぞ、制圧!」の声…入管収容者が受ける“暴力”の実態に迫る

『ルポ入管――絶望の外国人収容施設』より #1

平野 雄吾

文春オンライン2020.11.1

 医師の診察を受けられずカメルーン人の男性が死亡。インド人男性が首にタオルを巻き自殺。ハンストによりナイジェリア人男性が死亡……公式ホームページによると“日本の安全と国民生活を守りつつ国際交流の円滑な発展に貢献”する国家組織「入国管理局」の収容施設でいったい何が起こっているのか。

 共同通信記者の平野雄吾氏による『ルポ入管――絶望の外国人収容施設』から入管施設に収容された非正規滞在者の声を引用し、紹介する。

自傷行為・自殺未遂が相次ぐ入国管理センター

 東京五輪や外国人労働者の受け入れ拡大に合わせ、政府が在留資格のない外国人(非正規滞在者)の取り締まりを強化している。不法在留や不法入国、不法上陸、あるいは刑罰法令違反を理由に強制退去の対象となった外国人を次々と入管施設に収容、拘束期間が長期化している。全収容者数の半数超に当たる680人超が半年を超える長期収容となった(2019年6月時点)。3年、4年と収容されている外国人も多く、中には、拘束期間が約8年間に及ぶイラン人もいる。無期限の収容制度には、国際社会から相次いで懸念が表明されるほか、国内の人権団体からも批判が高まる。出口の見えない収容で精神を病む外国人も多く、2018年4月にはインド人男性が東日本入国管理センター(茨城県牛久市)で自殺、そのほか自傷行為や自殺未遂が相次ぐなど絶望感が広がっている。

入管施設内の過酷な環境

 絶望感に拍車を掛けるのが入管施設内での処遇である。入管当局が積極的には広報しないため、多くの国民はその実態を知らない。暴行、隔離、監禁、医療放置……。収容を経験した外国人や入管当局作成の内部文書を基に、取材を進めると、肉体的、精神的に外国人を追い込む入管施設の実情が浮かぶ。外国人支援団体や弁護士からは「命や人権を軽視している」との非難が絶えないが、入管当局は「適切に対応している」との説明に終始する。

 この章では、実際に入管施設内で発生した「事件」を検討しながら、何が起きているのかを見ていく。在留資格がなく、脆弱な立場に置かれた外国人を前に現れる権力の姿がここにはある。法務省の内部部局だった入国管理局は2019年4月、出入国在留管理庁(入管庁)へ格上げされた。巨大化する国家組織が社会から隔絶された密室で繰り広げる様々な「事件」はこの国の深層を映し出している。

「制圧」という名の暴力

「倒すぞ、制圧、制圧」「はい、決めるぞ」。2018年10月9日、強制退去の対象となった外国人を収容する東京入国管理局(現東京出入国在留管理局、東京都港区)。ブラジル人アンドレ・クスノキ(32)の居室に鈍い叫び声が響いた。6人の入管職員がクスノキを抱え上げ畳の床に押し倒す。「暴れるんじゃねぇよ」「抵抗、するなー」。ドスのきいた職員の声に混じり、クスノキの声がかすかに漏れる。「痛え、腕痛い」。職員が後ろ手にクスノキに手錠を掛けた。

「腕が痛い、腕痛い……」

東京入管職員は同年10月5 日、クスノキに収容場所を茨城県牛久市の東日本入国管理センターに移すと一方的に告げた。職員は4日後のこの日、早朝からクスノキの居室を訪れ移動の準備をするよう指示、クスノキが拒否し、居室内のトイレに長さ約1.6メートルの長机2台をバリケードのように縦に置いて立て籠もったため、実力行使に出たのだった。入管当局はこうした収容者の取り押さえを「制圧」と呼んでいる。

息ができないという訴えも無視される

 職員による制圧は続いた。手錠を掛けられ、身動きの取れなくなったクスノキを五人で抱え上げ、エレベーターに乗り別室へ連行する。うつぶせに倒し、背中や腕、足を押さえ込む。マットを敷いた床に顔面を押しつけ、全体重で頭を押さえつける。クスノキは思わずせき込んだ。「息ができない」。クスノキの訴えもむなしく、一人の職員は「息できてるから」と一蹴した。

「きょう、茨城の入管に行くから」。取り押さえには直接加担していない別の職員が中腰の姿勢で視線を落とし、クスノキに話し掛けた。

「なんでおれが行くんだよ」。頭を押さえつけられたクスノキが言い返す。

「うるさいぞ。静かにしろ」。クスノキを押さえつける職員が濁った太い声を出す。「こいつ、小学生みたいだな」。別の職員の嘲笑じみた声も漏れる。すでに手錠をされているクスノキへの締め上げはこの後、約10分間続いた。

「なんで行かなきゃ行けないんですか」。取り押さえが終わり、地面に座らせられると、クスノキは職員に尋ねた。

「こちらの事情、収容場所を変えるだけ」

「なんで移動なんですか」

「こっちの事情。誰がどうとかではなくて、それはもう決まったこと」

「おれの知り合いは全部東京にいるんだよ。茨城だと誰も面会に来られないんだよ、わかる?」

「それも踏まえて選定している」

自殺者の出ている入管に説明なく移送する

 クスノキのもう一つの懸念は東日本センターでこの年の4月にあったインド人男性の自殺だった。

「自殺もしているだろ、今年。ちゃんと答えてよ」。クスノキは立て続けに質した。

「それは今関係ない。あなたを茨城に移動する話。話はもう終わり」。職員にクスノキと話をする気はなかった。

「なんで答えない?」

「いまはそういう話をする場ではないから」

「自殺するところに行かせようとしているんだから、なんで「話をする場じゃない」となる?一人死んだだろう?なんでそういうところに行かせるんだ?」

「静かにしてください」。クスノキの問いかけに職員が向き合うことはない。制圧が終わると、職員はクスノキを護送車に乗せ、東日本センターへ連行した。

 東日本センターは茨城県牛久市久野町にある。クスノキの懸念どおり、東京から行くのはそう容易ではない。JR上野駅(東京都台東区)から常磐線で1時間、牛久駅で降車した後にバスに乗り30分。さらに10分程度歩くと、雑木林や畑に囲まれる一角に入管施設が目に入る。老朽化した横浜入国者収容所の機能が移る形で、1993年12月に開所した。現在の収容定員は700人。

制圧による怪我で満足に動かせなくなった左腕

 東日本センターに到着した翌日、肩の痛みを訴えたクスノキは庁内の医師の診察を受け、左腱板損傷と診断された。腱板は肩甲骨と上腕骨をつなぐ筋肉で、その損傷は力士や野球選手らスポーツ選手に多く発生するけがだ。職員が無理やり後ろ手に手錠を掛けた際、クスノキの肩に相当強い力が加えられた可能性が窺える。十分なリハビリができる環境にはなく、クスノキは現在も左腕を自由に動かせない。

「制圧中、本当に息苦しくて死ぬかと思いました。自分はただ、なんで茨城に移動するのか、その理由が知りたかった。面会に来てくれる友達はみんな東京に住んでいます。入管にとってはどうでもいいことでしょうが、自分にとっては収容場所が東京か茨城かは大きな問題でした。茨城では自殺者もいて、恐怖心もありました。茨城に行く理由をきちんと説明してほしかった。「話をするまでは行きたくない」と職員に言いましたが、「説明の必要はない」の一点張りで、制圧です。こんなことまでする必要はあるのでしょうか」

クスノキは2019年9月、面会に訪れた筆者を前に、唇をかんだ。

「庁内の診察で、医師は「外の病院に行くべきだ」と言いました。だから、その内容を診療情報提供書として書いてほしいと訴えましたが、同席した職員に「そういうことを要求してはいけない」とさえぎられたんです。今も左腕をうまく動かせません。誰かがリハビリの方法を教えてくれるわけでもありません。自分の身体が元に戻るかどうかわからないのが一番心配です」

 クスノキは2019年8月、「不必要な制圧で、違法な暴行だ」として、国に500万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。

 

#2に続く

「お前らを追い出すために入管があるんだ」人間扱いされない“非正規滞在者”の悲痛な嘆き

『ルポ入管――絶望の外国人収容施設』より #2

https://bunshun.jp/articles/-/41184


 掲載された写真(ここではUPできなかった)を見ると、まさにアメリカの白人警察官による黒人への暴力とさほど変わりはないように見受けられた。

今日の散歩道。

沼の脇にあった鳥の巣だろう。

今は使われていないようだ。


キャンプブームの中で探る 自然との調和を大切にする「日本的アウトドア」とは(連載第1回)

2020年11月01日 | 自然・農業・環境問題

ランタントーク vol.1 自然<前編>

人間開発学部准教授 青木康太朗

  2020年9月23日更新

 

近年、キャンプ人気が高まっている。ここ数年は「第3次キャンプブーム」と呼ばれることも多い。コロナ禍においても屋外という安心感から追い風となり、キャンプ系ユーチューバーが脚光を浴びるなど、新しい潮流も生まれている。

そんなキャンプをアカデミックな視点から考察してみると、何気ない野遊びの向こうに、人間本来の営みや文化、歴史が見えるかもしれない。自然の中に身を置く行為は、まさに「原体験」。だからこそ、人の本質に迫れるのではないだろうか。そこで本連載では、各分野の教員を招き、学問を軸にキャンプを追求。1回目は、日本と西洋の自然観の違いを起点に「日本的アウトドアの可能性」を考えていく。

キャンプブームを振り返ると「家族像」の変化も見えてくる

アウトドアは、「第3次」と言われるブームに突入している。その中身を見ると、たとえばキャンプの様子をSNSで発信するなど、デジタルを含めて盛り上がっているのが特徴だ。

「1980〜1990年代の第1次アウトドアブームは、自家用車の普及とともにオートキャンプやスキーなどが盛り上がりました。また、90年代には『日本百名山』といったTV番組などをきっかけに中高年の登山がブームとなりました。2000年代の第2次ブームでは、若年層は“山ガール”などのファッション要素をフックに、シニア層は健康ニーズの高まりからアウトドアブームが過熱。そして今回は、SNSがキャンプを含めたアウトドア人気を牽引しています。同じアウトドアでも、時代ごとにブームを引き起こすツールが変化していると感じます。」

こう話すのは、野外教育や青少年教育を研究する國學院大學の青木康太朗准教授(人間開発学部 子ども支援学科)。かつて「青少年自然の家」で知られる独立行政法人国立青少年教育振興機構に在籍し、子どもたちとの活動を通じて野外教育を研究してきた。

そんな青木氏は、SNSと合わさった今のブームについて「その場のアウトドアのみで完結せず、その後SNSで発信し共感を得るところまでがアウトドアの楽しみに含まれている。」と話す。

様々な道具もキャンプの魅力(上:VICTORINOX社のナイフ(最上段)は青木氏が20年近く愛用。下:ファイヤースターターを使い、火を起こす。)

一方で、長年にわたり子どもたちとアウトドアに触れてきたからこそ、今回のブームから「家族レジャーの変化」も見えるという。

「第1次ブームの頃に比べると、家族像も変わったと思います。以前は、父親が休日に家族をどこかに連れていくことを『家族サービス』と表現する人もいましたし、“半ドン”と言って、土曜出勤のある方も多かった。家族で数日間キャンプをすることには特別感があったはずです。今は家族サービスという言葉をほとんど聞きませんし、共働きの家庭が増え、仕事と家庭を両立する父親も多くなったと思います。ファミリーキャンプを見ても、昔のような特別な家族のイベントというよりは、家族で楽しむ日常的なレジャーに変わってきたように感じます。」

家族で焚き火を囲み談笑する風景もキャンプ場では多く目にするようになった。

御来光や修験道。自然への感謝が付随する日本のアウトドア

キャンプの楽しみ方が多様化したのも、第3次ブームの特徴だ。1人で行く“ソロキャンプ”や、テント設営のいらない“グランピング”、はたまた自然素材を極力利用して過ごす“ブッシュクラフト”など、楽しみ方はさまざま。もちろん、情報化社会の中でデジタルから離れる“デジタルデトックス”としてのキャンプもある。

「贅沢な時間」の過ごし方としてもキャンプは注目されている。

このような多様化の中で、青木氏は今後「日本的アウトドア」が盛り上がる可能性を予測する。とはいえ“日本的”とはどういう意味なのか。カギになるのが、日本と西洋における「自然観の違い」だ。

「西洋の自然観は、人間が自然の上に立ち、コントロールする考え方。『環境保護』という言葉を見ても、人間が自然をコントロールする意識だからこそ“保護”という表現になるのだと思います。一方、日本は昔から自然と調和・共生する意識が強く、『自然の一部に人間がある』という思考が見られます。その象徴が、里山・里海の文化です。自然の上に立つのではなく、畏敬の念を持って共生する。そこに日本的な自然観を感じます。」

古くから「八百万の神(やおよろずのかみ)」という言葉があるように、日本では自然や場所そのものにも神が宿ると考えられ、信仰の対象になってきた。「御神木(ごしんぼく)」や山岳信仰はその代表と言える。一方、西洋を見ると、キリスト教などでは自然も「神が創ったもの」という考えが強い。「日本では人間が自然の一部、西洋では人間が自然を支配しているという、根底の意識が違うのではないでしょうか。」と、青木氏は指摘する。

そして、こういった自然観の違いは、アウトドアの楽しみ方にも差を生む可能性があるという。

「たとえば登山の歴史を見ても、西洋では未踏峰の山を次々に登頂し『制覇』することに価値が見出されていましたが、日本では、古来より『修験道』として信仰登山が行われており、山に身を置くことで心身を鍛える、神や仏を拝むために山を登る『登拝』といった発想で登山が行われていました。キャンプは西洋由来のものですが、こういった日本的な自然観が今後のキャンプ・アウトドアのあり方を新しくするかもしれません。」

これまでも、自然観の違いに基づいた日本的アウトドアはあったという。一例として青木氏が挙げるのは「御来光」だ。海外でも山頂から日の出を見る習慣はあるだろうが、「そこに感謝やありがたみが付随するのは、まさに日本的アウトドアでは。」と話す。

「自然の中には、日常生活では味わえない刺激や感動が無数にあります。それらを五感で感じ、自分の“感性”が磨かれていく中で心震えるような感動体験をすることこそ、現代社会におけるアウトドアの醍醐味(だいごみ)ではないでしょうか。そう考えると、自然と対等に接し、自分も自然の一部として過ごす日本的アウトドアは、成熟社会に生きる現代人のニーズに適しているはず。野山に出かけて自然を肌で感じ、その環境に感謝しながらゆったりとした時間を過ごす。そんなキャンプやアウトドアが今後ますます増えていくかもしれません。」

ブームの中で、楽しみ方や嗜好も多様化するキャンプ。これからは、自然との調和・共生を反映した過ごし方も増えるのだろうか。西洋由来のキャンプが、日本的な発展を見せる可能性はありそうだ。

 

青木 康太朗

研究分野

野外教育、青少年教育、リスクマネジメント、レクリエーション

論文

家庭の状況と子の長時間のインターネット使用との関連:『インターネット社会の親子関係に関する意識調査』を用いた分析(2019/08/)

青少年教育施設で発生した冬期の傷病に関する調査報告(2019/02/)


 

 

ベランダからの眺め。

クレソン。

のぶどう。