日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ
文春オンライン2020.11.14
いまや日本の過疎地域は国土の6割弱、市町村数の半数近くを占め、人口の偏在が進むなか、「所有者不明」の土地は国土の約20%を占め、手つかずのまま放置されている。新著『コモンの再生』を上梓した思想家の内田樹が、日本の過疎化問題の本質に切り込み、打開策を提言する。
――地方の「所有者不明」土地問題は全国的に深刻で、いまや九州本土を上回る約410万haもの面積が、手つかずの土地・空き家として放置されています。
内田 日本列島は森林が多く、人間が住める可住地は国土の30%に過ぎません。その上、過疎化が進行しているので、これまで人が住んでいた土地がどんどん放棄されて、人が住まなくなる。今世紀のうちに可住地の60%が無住地化するようです。
先日ある県人会の講演に呼ばれて行った時に、地方の人口減の話をしました。講演後となりに座っていた方が「自分の故郷は、自分が子どものころは200戸の集落だったが、自分たちの子の代で引き続きこの集落で暮らすという家は2戸しかない」という話をしてくれました。1世代で人口が100分の1にまで減少するわけです。住人が2戸しかない集落だと、公共交通機関はどうなるのか、行政サービスや医療や消防はどうなるのか。バスは通るのか、ライフラインの維持はしてくれるのか。たぶん、そんな少人数のところにコストはかけられないということでいずれ切り捨てられることになると思います。そこが住めなくなると、いずれ森が集落を呑み込んでしまう。
これまで、環境問題というと、「自然をどう守るか」という議論でしたけれど、これからはそれに加えて「過疎地の文明をどう守るか」という議論も並行して行わなければならなくなってきました。久しく人間の繁殖力が自然の繁殖力を圧倒してきたわけですけれども、そのフェーズが終わった。これからは自然の侵略からどうやって人間の文明を守るか、都市文明のフロンティアラインを守っていくかを考えなければならない。そういう発想はこれまでなかったですから。
――たしかにそうですね。
内田 自然の力は本当にすごいんです。廃屋って、外から見るとそれとわかるほど荒れ果てますよね。人が住まなくなると、すぐに壁がはげ落ち、瓦が落ち、柱まで歪んでしまう。前に東京で見かけた廃屋は、半年後に通りがかったら竹が屋根を突き破っていました。その家に人が住んでいる頃にも、庭には竹林があったんでしょうけれど、竹が家の下にまで根を伸ばして、床を突き破るというようなことはなかった。人間がそこに住んでいるというだけで、自然の繁殖力は抑制されるからだと思います。
人口減少時代は、自然の侵略を防ぐことがフロンティアの仕事
昔はどんな神社仏閣でも「寺男」とか「堂守」といわれる人たちがいました。門の開け閉めをしたり、鐘を撞いたり、掃除をしたり、たいした仕事をするわけでもないのですが、広大な神域や境内に人が1人いるだけで大きな建物が維持されて、森に呑み込まれるということは起きなかった。これは文明を守るための、先人たちの知恵だったのだと思います。
僕の友人で祖父母の住んでいた集落が無人になったという人がいます。親族が近くに住んでいるので、祖父母の墓参りに行きたいと言ったら、もう道が通れないから無理だと言われたそうです。集落全体が「山に呑まれて」、道路も藪で覆われて、獣や蛇が出るので、怖くてとても墓参りになどゆけないということでした。人間が住んでいると、それだけで自然の繁殖力はかなり抑制されるのですが、ひとたび無人になると自然が堰を切ったように文明の痕跡を覆い尽くしてしまう。
――日本中の過疎地域で同様のことが起きているでしょうね。
内田 人間はフロンティアを開拓して、自然を後退させてきたわけですけれど、これからの人口減少時代では、自然の侵略を防いで都市文明を守ることがフロンティアの仕事になる。
いまの地方政策は、コンパクトシティ構想に見られるように、過疎地を積極的に無人化して、住人を地方の中核都市に集めて、行政コストを下げるという発想です。住人を1か所に集めてしまえば、交通網や通信網や社会的インフラの整備コストが一気に削減される。官僚たちはそういうことを机の上で電卓を叩いて計画しているのでしょうけれども、実際には里山が無人化すると、自然と文明の緩衝地帯がなくなる。そうなると、都市のすぐ外側にまで森林が迫り、野獣が徘徊するようになる。
文明を守るためには、自然と都市の中間に里山が広がっていることが絶対に必要なんです。里山は自然の繁殖力を抑制し、それを人間にとって有用なものに変換する装置です。行政コストがかさむからというような理由で里山を無人化してしまうと、たいへんなことが起きます。だから、できるだける里山エリアを無人化させない。里山というフロンティアを守る必要がある。単なる社会政策上の問題ではなく、文明史的な問題なんです。
全人口の5分の1くらいは、里山エリアに住んだ方がいい
経済学者の宇沢弘文先生によると、全人口の20-25%くらいは農村に住まなくてはならないそうです。いま日本の農業従事者は人口の1.3%です。農村人口というのは別に農業従事者のことではありません。自然の過剰な繁殖力を抑制するために里山に住む人たちのことです。宇沢先生が出した20~25%の農村人口という数字にはそれほどきちんとした統計的な根拠はないんじゃないかと思います。割と直感的な数字だと思います。でも、この直感を僕は信じます。全人口の5分の1くらいは都市ではなく、里山エリアに住んだ方がいい。そこで年金生活をしてもいいし、作家活動をしてもいいし、音楽をやってもいいし、陶芸をしてもいい。とにかく里山に「人がいる」ということが大事なんです。
――それは新型コロナウイルスのような危機に際して、里山がリスクヘッジになるということでしょうか。
内田 今回のコロナ禍で、都市が感染症に非常に脆弱であることがわかりました。狭い空間に人が密集して、労働、消費で斉一的な行動をとる。これが感染症にとって最悪の条件なわけです。SARS、MERS、新型インフルエンザ、新型コロナと、2002年から18年間で4回もパンデミックが起きました。自然破壊が進行して、それまで出会う機会のなかった野生動物と人間が出会って、人獣共通感染症が流行するようになったせいです。今世紀末までは世界の人口増は続き、アフリカや南米で自然破壊が進むことは避けられません。そうなると、数年おきに新しい人獣共通感染症が世界的なパンデミックとして襲来するということを前提にして社会制度を設計しなければならなくなる。都市に人口と資源を集中させて、都市機能がダウンするとたちまち国全体が麻痺するような脆弱な仕組みでは、これからあと定期的に訪れる感染症に対応できません。
感染症対策として一番効果的なのは「広がって居住すること」です。他人と空間的な距離をとって生活している限り感染リスクは低い。だから僕が「田園に帰ろう」というのは何も農本主義的な発想だけで言ってるわけではありません。文明史的な要請によるものです。
里山エリアに人口を移すというのは、1つは「日本の人口減」による自然の繁殖力の増大に対応するものであり、1つは「世界の人口増」による人獣共通感染症パンデミックに対応するものです。どちらもが同じことを要請している。
西部開拓者が理想像となった理由
アレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』には西部開拓期の開拓民たちの「異常」な行動が記録されています。幌馬車に乗って開拓地に来た人たちが森を切り開き、畑を耕し、家を建てた。しばらくすると、その土地を棄てて、また幌馬車に荷物を積み込んでさらに西部に向かう。経済合理性を考えたら、まるで間尺に合わないことをしているわけです。でも、彼らは取り憑かれたように西に向かい、また森を切り開き、畑を耕し、家を建てた。彼らを駆り立てた情念は何だろうとトクヴィルは自問して、ある種の「狂気」だと答えています。
僕はそれはちょっと違うのではないかと思います。西部開拓のフロントラインに立った人たちは、人間の力によって自然が屈服してゆくことを実感した。当時のヨーロッパにはもう本当の意味での自然は残されていなかったので、これは彼らにとって生まれて初めての経験だったはずです。手つかずの大自然が、人間の存在によってじりじりと後退して、そこが「人間の土地」に変わる。その経験がおそらくたとえようもなく強烈な全能感を開拓者にもたらした。そういうことではないかと思います。
だから、西部開拓者はそれ以後のアメリカ人にとって1つの理想像になった。それは彼らが自信と自己肯定感に満たされた人たちだったからです。それ以外の時代、それ以外の土地においては見出しがたいような堂々とした人間たちがある時期に集団的に発生した。それが「フロンティア」というものの効用だったのではないかと僕は思います。彼らの全能感を基礎づけたのは、圧倒的な自然の繁殖力を自分の手で食い止めて、そこを人間の土地にしたという達成の経験でした。自然と文明の境界線を守る「歩哨」としての役割を担っていたことが彼らに深い自己肯定感を与えた。
――里山にもまた、そういう文明史的な意味があるということですね。
内田 そうです。いま里山が過疎化・無人化してゆくときに、ここをもう1度「フロンティア」として再興する。その前に1つ大きな問題があります。それは所有者・地権者がわからないという土地建物がいま過疎地にはたくさんあることです。私有財産ですから、自治体といえども勝手に手は付けられない。でも、無住の家屋は防災上も、防犯上も、公衆衛生上も非常に大きなリスクです。だから、何とか再利用したいのだけれど、できない。
僕はそういう土地や建物はもう私有財産ではなく、公共財に戻してしまえばいいと思います。もともと土地というのは私有すべきものではないと僕は思っています。一時的に公共のものを借りて使用しているだけで、使用しなくなったら、再び公共に戻すということでよい。これらの無住の家屋や耕作放棄地をもう一度公共のものとして、地域の人々で共同管理する。
映画『シェーン』が示す土地をめぐる原理的な主題
――斬新な発想ですね。先生は本書のなかで、一定期間誰からの所有権も申請のない土地家屋をコモンにする「逆ホームステッド」法を提言していますね。
内田 ホームステッド法というのはアメリカ全土では1863年、南北戦争中にリンカーン大統領によって発令された法律です。部分的には40年代から施行されていました。国有地に定住して、5年間耕作に従事したアメリカ市民には無償で160エーカーを与えるという法律です。フランスから買ったルイジアナ、メキシコから奪ったカリフォルニアなど、北米大陸のほとんどが無住の地だったわけですから、そういうことができた。ヨーロッパの貧しい人たちがアメリカに行けば自営農になれるというので、毎年数十万単位で移民していった。西部開拓が可能になったのは、この法律があったからです。
法律そのものは社会主義的な発想のものだったと言ってよいと思います。マルクスも、この法律を高く評価し、彼自身テキサスへの移住を考慮したほどでした。でも、これはヨーロッパから移民を北米に呼び寄せ、大量の労働者の人海戦術によって荒漠たる草原を耕地に換え、併せて巨大な市場を形成するというと資本主義的にもきわめてクレバーな政策でした。いわば社会主義的発想と資本主義的な発想がホームステッド法では矛盾なく共存していた。
フロンティアの消滅は1890年ですが、それはもう移民たちに与えるだけの国有地がなくなったということを意味しています。わずか半世紀でアメリカのすべての「コモン」が私有地になったのでした。だから、西部開拓というのは実は大規模な「囲い込み」でもあったわけです。
『シェーン』という映画があります。主人公のガンマン、シェーンは農夫側の味方になって悪いカウボーイたちと戦うので、観客は農夫が「グッドガイ」で、カウボーイが「バッドガイ」だと思い込んで映画を観るわけですが、実はもう少し話は複雑です。この農夫たちはホームステッド法で土地を手に入れたニューカマーであり、カウボーイたちはそのはるか以前からこのエリアで放牧をしていた人たちだからです。それまで自由に出入りして、牧畜することができた「コモン」に、ある日政府発行の「土地権利書」を手にした移民たちが現れて、農地の周りに鉄条網を張り巡らして、「私有地につき立ち入り禁止」だと言い出した。「囲い込み」したわけです。
伝統的な「コモン」を守ろうとするカウボーイたちと、「囲い込んだ」私有地を死守しようとする農夫たちの間で殺し合いが始まる。『シェーン』は果たして土地はコモンなのか私物なのかという原理的な主題を扱った、意外に深い映画なんです。
「引きこもり」が里山の「歩哨」として暮らす
――てっきり農夫かわいそうと思って観てました!
内田 映画では農夫たちが勝つわけですけれど、その農夫たちも、それから半世紀後には大恐慌のときに銀行に土地を奪われて、都市プロレタリアートに没落していく。19世紀のイギリスで起きたのと同じことがそのままアメリカでも繰り返されたのでした。
西部開拓の時のコモンの私有化によってアメリカの農業生産力は劇的に向上しましたけれど、自営農となったと喜んだ農民たちも、やがて必然的に没落する。たしかにコモンを私有化すれば一時的に土地の生産性は上がるのですけれど、「土地の有効利用」を根拠として土地を私有化したものは、「それよりさらに高い生産性で土地を有効利用できる」という大資本家には理屈では勝つことができません。経済合理性を楯にして何かを奪ったものは、いずれ同じロジックで得たものを奪われるということです。
僕が提案する「逆ホームステッド」法は、放置された私有地や無住の家屋を自治体が接収して、コモンにして、そこに住んで5年間生業を営んだ人に無償に近いかたちで払い下げるというアイディアです。里山に再び人を呼び戻すためには、よい方法だと思います。
もう1つアイディアがあるんですけれど、それは「引きこもり」の人たちに「歩哨」をしてもらうというものです。
一説によると、日本にはいま100万人の「引きこもり」がいるそうです。その人たちに過疎の里山に来てもらって、そこの無住の家に「引きこもって」もらう。里山だと「そこにいるだけで」、里山を自然の繁殖力に呑み込まれることから守ることができる。部屋にこもって1日中ゲームやっていても、ネットをしていても、それだけで役に立つ。
それほどの給料は払えないでしょうけれども、人がいなくなった集落でも、お盆のときだけは戻ってくるから、家は廃屋にしたくないという人はたくさんいます。そういう何軒かの家からちょっとずつ出してもらえば、仕事になる。家賃は要らないし、物価だって安いし、気が向いたら、畑を耕して野菜だって作れる。
そういうミクロな求人とミクロな求職をマッチングする仕組みができれば、かなりの数の「引きこもり」が里山の「歩哨」として暮らして、かつて西部開拓者が経験したような達成感や全能感を経験して、メンタル的に回復するというようなことが起きるんじゃないか。そんなことをぼんやり夢想しています。
「逆ホームステッド」法くらいの思い切った施策を
――やりたがる人、意外に多いと思います(笑)。
内田 フロンティアを守るのに実はそんなに頭数は要らないんです。大伽藍を守るのに「寺男」が1人いて、寝起きしているだけで十分だという話をしましたけれど、西部開拓でもそうなんです。
映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』では、ダンバー中尉(ケビン・コスナー)が南北戦争で軍功をあげた見返りに好きな任地を選んでいいと言われて、フロンティアを選びます。フロンティアが消滅する前に見ておきたいという理由で。北米大陸全体が私有地に分割される前に、誰のものでもない大自然が広がっている風景を見たいと思った。彼が配属されたのはサウスダコタ州の砦なんですけれど、砦と言っても、あるのは丸太小屋だけ。そこに彼が1人で暮らす。砦ひとつで広大な辺境地域をカバーしている。軍務なんて実は何もないんです。そこにいるだけでいい。暇なので狼と踊っている。
この映画が教えてくれるのは、見渡す限り人煙の絶えた草原のただなかに人が1人いるだけで、そこが「フロンティア」になるということです。そこが文明の最前線となる。大自然に向かって、「ここは人間の土地だ」と宣言している人間が1人いるだけで、自然はそれ以上侵食してこない。その「歩哨」としての責務を果たしているだけで、ダンバー中尉は彼に課された軍務を100パーセント果たしており、そこから深い達成感を得ることができる。
農村人口を増やし、里山のフロンティアラインを守るには、「逆ホームステッド」法くらいの思い切った施策が必要だと僕は思います。土地は果たして私有すべきものなのか。私有してよいものなのかという問いを含めて、日本列島をどう守るかという課題を文明史スケールから捉え直すことが必要だと思います。
コモンの再生
内田 樹 文藝春秋 2020年11月7日 発売
冬支度。ボートを沼から上げました。薄い氷が張っています。
バラ、やっぱり開花まで行きません。
ここはネズミの害が多く、根元に網をまきつけてから支柱を立て縛ったり、保温資材で囲っています。今日はバラ・杏・梅・桃。明日はブルーベリーの予定。
今年最後のキノコ「ユキノシタ」