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「お笑い」文化と「いじめ」

2017年10月26日 | 社会・経済

「いじめは楽しい」だから笑顔で行われる。

      ハフポスト  2017年10月25日

 ■入学直後に決まるスクールカースト

   3年前の春。高校の入学式の日は緊張していた記憶がある。それは、まだ学校に居場所がなかったからだと思う。しかしそんな宙に浮いたような感覚は、新学期が動き出すうちに、すぐに忘れていった。

 そして、忘れた頃にスクールカーストが出来上がっていた。

   スクールカーストとは、生徒間の序列であり、人をランク分けするインドの「カースト制度」になぞらえて言われるものである。

   たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

 一度スクールカーストが出来上がれば、どんなに不本意でも、どんなに努力をしても、卒業まで自力で変えることは難しい。

 1軍生徒は、大人しい3軍生徒に対して威圧的な態度で接し、過激な「いじり」で笑いを取り続けることで上位生徒としての地位を保たなければならない。

 他人を馬鹿にして笑い合い「私たちは仲良しのお友達」と"独りではない"ことを誇る2軍の女子生徒。1軍にはなれないが、3軍に落ちないようSNSで友達と写真を撮り「楽しさ」を演出するのに必死な毎日だ。

 3軍の生徒は、上位生徒に媚びへつらい「いじり」と名付けられた暴言を笑顔で受け止め続け、「みんな楽しそうに笑っている」という事実を理由に、それがいじめではなく、「友情」であることを主張する。

■いじめはゼロにすることは出来ない

 「みんな仲良くしましょう」「いじめは悪いことだ」と幼少期から教えられた。

 それが道徳的な教えであることは理解しているが、学校にいて肌で感じるスクールカーストを目前にすると、物事はそんなに単純ではないことが分かる。

 なぜなら、そこに「笑い」があるからだ。

 生徒が背負うスクールカーストの中では「誰かが誰かを傷つけることで『笑い』や『楽しさ』が生まれる」という現実がある。

 文部科学省のいじめの定義にはこうある

 “「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

 これは簡単にいうと「いじめられっ子がいじめだと思ったらいじめである」と私には解釈できる。

 被害者の主観に基づいて定義されており、被害者が「いじめ」だと訴えなければ、客観的事実である加害行為とは無関係に、いじめとして扱われない可能性があることを意味するのではないか。

 例えば、「いじられキャラ」という役割を負った生徒が、無防備に嘲笑や罵倒、暴力の対象となり続け、心身の苦痛を感じていることが常態化し、「いじられキャラ」としてのアイデンティティが確立する。

そして、継続的に攻撃を受けることによってクラスの「楽しさ」や「仲の良さ」に貢献していると自負するまでになる。「いじられることで笑いが起きるから」という理由で正当化され、被害も加害も見えなくなってしまうのだ。

  恐ろしいのは、傷ついているはずの被害者であっても「みんな楽しそうに笑っていて、仲がいい友達だから」と思うことで、いつの間にか加害行為を受けても被害者意識が心の奥深くに閉じ込められてしまう、ということである。

 ■嗜虐的な笑い

 ここで注目すべき点は、文部科学省のいじめ定義の不十分さ以外にもある。

 「笑い」や「楽しさ」は嗜虐(残虐なものを楽しむこと)的である。

   先日話題になった福岡での「高校暴行事件」を思い出して欲しい。私立高校の1年生の男子生徒が、講師に蹴るという暴行を加えたとする動画がLINEを通してどんどん広まって炎上し、生徒が傷害の疑いで福岡県警に逮捕された事件だ。

私もネット上で動画を見たが、印象的だったのは、生徒らは暴行を目にしながら拍手をして爆笑しているように見えることだ。

 この例では「生徒が講師に対して暴行を加えること」が見世物になっている。講師への暴行は珍しいことかもしれないが、このように「学校内で誰かが見世物になる」ことは日常茶飯事ではないだろうか。

 生徒が生徒を見世物として「いじって楽しむ」。生徒は深く考えていない。ただ純粋に楽しんでいるから大笑いできるのである。

 ■いじめはまるで「娯楽」

 突き詰めると、学校生活の中で「いじめ」は娯楽のようなものである。

 「他者を傷つけることで楽しんでいる」と思うと異常さを感じるかもしれないが、実は、この嗜虐的な「笑い」や「楽しさ」は何も福岡の高校だけにとどまるものではなく、多かれ少なかれ日本社会に広く当てはまり、また日本のお笑い文化に共通するところがある。

   7月24日付のlivedoor NEWSによると、7月22日に放送された「さんまのお笑い向上委員会」でザブングル・加藤歩が劇団ひとりの浮気疑惑を追及。「なんで大沢あかねさんと結婚したんですか?」「大沢あかねさん一点勝負ですか?」「何をモチベーションに!?」などと質問し、劇団ひとりが「本当に妻がかわいそう」と訴えた。

 たとえお笑い番組とはいえ、「大切な人」である奥さんをみんなの前で嘲るというのは酷い行為である。

 私は実際にこの放送を観たが、一笑もすることができなかった。却って、劇団ひとりさんと大沢あかねさんに対する酷い「いじり」にひんしゅくした。

 私のように第三者が「いじめではないか?」と思わせるような行為であっても、「ユーモア」や「お笑い」として容認されてしまう風潮がある。これはテレビだけではなく、学校においても同じである。

 ■「ユーモアならばなんでも許されるのだろうか?」

 日本のお笑い文化にも、福岡の高校の暴行事件にも、いじめ問題にも、共通している点は、「誰かが誰かを傷つけることで『笑い』や『楽しさ』が生まれる」という嗜虐的な「笑い」や「楽しさ」である。

 そうした笑いは日本では「いじり」と呼ばれ、「本人も笑っているなら問題ない」「楽しければいい」という考えに繋がる。

  いじめ問題の議論において「いじり」と「いじめ」の相違点ではなく、共通点を考えて欲しい。どちらとも程度に差があっても「誰かを傷つける」という点では同じなのだ。

 「誰かを傷つける」という加害行為が本当の問題であり、そこに「笑い」や「楽しさ」があるかどうかではない。たとえ「笑い」や「楽しさ」があっても加害行為がなくなったことにはならないのだ。

 さらに、本来は反道徳的であるはずの侮辱や暴力などの行為も、「楽しければいい」「笑っているなら問題ない」と肯定される風潮は道徳観の倒錯に繋がる。

 一方で、従来の嗜虐的(しぎゃくてき)な「笑い」が変化していく兆しもある

  かつて一世を風靡した「とんねるず」のような過激ないじりや、誰かを馬鹿にする芸風ではない「ブルゾンちえみ」や「サンシャイン池崎」、「平野ノラ」、「メイプル超合金」などがブレイクする時代になっている。

 この変化は「誰かを犠牲にして笑うのはもう嫌」という人々の気持ちの現れであり、日本社会に染み付いた嗜虐的な「笑い」や「楽しさ」のあり方に、道徳を交えて再考すべき時代に差し掛かっているのではなかろうか。

  私には「いじめっ子はいつも笑っている」というイメージがある。その笑顔の裏には、学校や社会に潜んでいる嗜虐性があるのではないだろうか。それがこんなにも日常に溶け込んでいるならば、それは決して異常なものではないだろう。私たちは嗜虐性を認めるべきである。いじめは「笑い」につながるからこそ、被害者も加害者もそれを認めにくい。笑いという人間の根本に根付く「楽しい感情」を呼び起こすからこそ、本気で防ごうと思っても、文字通り笑い飛ばされる。

  私たちは、そうした絶望的ないじめの本質をまずは認めた上で、この問題と向き合う必要があるのではないだろうか。


 わたしはあまりTVは見ない。「お笑い」と呼ばれるものはなおさらだ。嫌悪感すら覚え、すぐにスイッチを切ってしまう。こうして「お笑い」ー「いじり」-「いじめ」の構図が描かれると、「なるほど」と思ってしまうのだ。
 新しい傾向の「お笑い」もわたしは、まだ聞いたことがないので今度見て見ようかと思う。

 23日の積雪以後、いい天気が続いている。雪もすっかり消え、昨日は手前のハウスビニールを降ろし、今日は奥の長い方のビニールを降ろした。
 これからすべて解体し江部乙まで持っていく予定だ。できるかな?