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弱者への攻撃は自己責任論ではなく「全体主義」だ

2017年05月10日 | 社会・経済

くらし下流化ニッポンの処方箋

2017年5月3日 藤田孝典 / NPO法人ほっとプラス代表理事

 格差が広がり、貧困家庭が増えても、自分が当事者にならない限りその存在が見えにくい社会。生活の質を底上げし、分断を埋める方法は見つかるのか。「貧困クライシス」(毎日新聞出版、972円)の著者・藤田孝典さんと、芥川賞作家の平野啓一郎さんが、閉塞(へいそく)感あふれるニッポンの今と未来への希望を熱く語り合いました。
【構成/経済プレミア編集部・戸嶋誠司】

藤田孝典さん×平野啓一郎さん対談(その1)

  平野 藤田さんの「貧困クライシス」を読ませていただきました。細かなデータと問題点の指摘だけではなく、どこに助けを求めたらいいのか、どんな制度をどう活用すればいいかについても細かく書かれていて、とてもいいと思いました。

 自殺対策支援センターライフリンク代表の清水康之さんは、「報道は、問題を指摘するだけではダメで、どこに助けを求めればいいかをフォローしなければならない」と強調していましたが、これはまさにそういう作りになっていますね。本の形でこのようにまとまっていると、今後、自分が誰かに何かを相談されたときもうまく説明できそうです。

  藤田 ありがとうございます。僕は普段、NPO法人ほっとプラスで活動しています。学生時代から、ホームレスや生活に困っている方の相談を受けていて、生きにくさを抱える人たちが次々相談に来ます。

  そんな時、平野さんの作品を読みながら得るものが多いんです。みんなが生きにくさを抱えていて、「こうでなきゃいけないんだ」とか、「こう生きるべきだ」みたいなあるべき論に縛られ、生きにくくなっていますから。

  平野さんが提唱する「分人主義」--いろんな生き方があっていいし、いろんな考え方があっていいし、そのときそのときで人は変わっていくんだ--という考え方を、どう伝えられたらいいかなと考え、実践しています。

 ※分人主義……人間は分割不可能な個人ではなく、いくつもの顔を持つ、複数の「分人」が集まった存在である、という独自の概念

  社会を見る目線、人に対する関わり方に自分と共通点があると感じていて、ぜひご一緒に語り合いたいと思っていました。うちの子供は3歳ですが、平野さんのところも確か……。

  平野 うちは3歳と5歳です。下の子が同い年ですね。

  藤田 お子さんが生まれて、変わったような。

 子供ができて見えてきた社会の問題

  平野 今までよく分からなかった社会問題、いろいろな要素が、子どもができて分かるようになりました。待機児童問題とか、あと保育園の保育士さんたちの重労働と精神的なプレッシャー、低賃金とか。

  藤田 うちも待機児童で、最初は認可保育園に入れなくて、無認可に入れていました。まさか保育園に入れないとは思っていませんでした。

平野 うちは、最初は2人が別々の保育園に入れられました。送り迎えが大変で、僕は不平を言っていましたが、一方で、「入れない人もいるんだから、その人たちのことを考えればぜいたくだ」と、不平を言いにくい雰囲気がありましたね。

  藤田さんの本に書かれている「ひどい状況なのに、自分はまだ恵まれている」「がまんしなきゃいけない」という社会風潮と通底していますね。本当は制度が悪いのに、がまんさせられている。

  藤田 引き下げデモクラシーですね。下の人がいるから自分はまだましな方だと思う感覚。今まさに話題になっている「忖度(そんたく)」です。

  平野 忖度はいつか、外国の辞書に「SONTAKU」って載るんじゃないですか。「KAROUSHI」や「HIKIKOMORI」のように。

  藤田 本当は社会構造や政治を批判的に見なければいけないのに、市民全般に「何をやっても変わらないんだ」「しょうがないじゃないか」というあきらめ感がまん延しています。

  平野 人格攻撃のために批判するわけではなくて、改善したらどうかという意見の表明なんですけどね。僕は世の中のいろんなことにいつも不平不満を感じていて、ツイッターでつぶやくんですが、そうすると、思いもかけないリプライ(返信)があって驚きます。不便なら変えればいいのに、なぜか「がまんしましょう」「みんながやってることですから」という話がやってくる。

 藤田 貧困問題も同じですよ。当事者は生存権すらも脅かされていて、生きられない状況なのに、いろんなことをがまんさせられています。異常なほどのがまん強さです。制度がおかしいのに。人口減少や自殺率の高さを見ても、今は異常な社会という認識が必要で、平野さんのように小さなことでも指摘して声を上げる、抵抗していくことが大事だと思います。

 自己責任論よりもひどい「全体主義」

  編集部 不便をがまんしろと言われるだけでなく、「お前が悪いんだ、がまんが足りない、もっとがんばれ」という自己責任論も幅をきかせています。

  平野 自己責任論以上の深刻さを感じます。小泉政権時代に勝ち組・負け組を分けたがる新自由主義的な風潮、片山さつき的世界観がはやりました。でもあのころは、「金持ちは努力している」、貧しい人たちは「努力が足りない」と、富裕層を擁護し、貧困層を放っておく、という感じでした。

  しかし、昨今の風潮はもっと全体主義的です。「貧困状態の人は社会保障費を食いつぶし、人に迷惑をかけている」という発想。自己責任だから放っておくのではなく、むしろ積極的に彼らを攻撃する。これは全体主義の発想だと思います。

  藤田 貧困状態の人たちだけではなく、人工透析患者、健康でない人、高齢者、障害者も攻撃されていますね。

  社会にはいろいろな人間がいて、いろいろな役割があるはずなのに、相模原の事件もそうですが、社会の役に立つか立たないか、働けて税金を納められるかどうか、子どもを産めるか産めないかで人間の価値を決めてしまう。人間を経済原理でしか見ていません。

  平野 僕も税金を払っていますし、自分の税金をオリンピックに使われると思うと腹立たしいですが(笑い)、税金は社会のために使われていると思っていますし、そこに怒りはありません。しかし今、その税金が貧困状態にある人に使われるときにだけ、ものすごく損した気分になり、攻撃する人がいるのは不思議です。

 江戸時代のように民を食うや食わずの状態で生かしておくより、健康を管理して、国民の生活水準を上げた方が、自己責任論よりも国全体が富む、という考え方が近代化の基本です。それに対する批判的な検証も四半世紀ほど続きました。

  ところが今、自己責任論を言っている人たちはその前提すらなく、「愛国」でかつ「自己責任論」という奇妙な主張です。

  また、1人の人間を労働力としてしか見ていないことも問題です。貧しい人もまた消費者です。彼らに税金を投入するとほとんど消費財に回ります。投入したお金は社会に還元されます。それと、人は1人の人間であって、経済学だけでは測れない存在理由があります。誰かにとって大事な人であるとか、誰かの親であるとか。

  誰かが病気になったとして、健康に気をつけている人をまず助けるべきだという考え方もおかしい。不摂生の人は自己責任だから助けなくていいのか。そんなことを言い出したら、健康オタクの極悪人と、不摂生な善人のどちらを助けるかという、バカな議論になってしまいます。

  そのような歪(ゆが)んで偏向した考え方を炎上商法的に叫ぶ人たちがいて、それに同調する人たちもいて、うんざりします。話すと4日ぐらいかかりますよ(笑い)。

藤田 うんざりする気持ち、分かります。平野さんのツイッターやフェイスブックはいつも怒っているというイメージがありますが。

平野 そういう人間でないはずなんですよ。わりと温厚なので(笑い)。

藤田 僕も平野さんとまったく同じ考えです。生活保護受給者、障害者の方もそうですが、生活保護費も年金もその地域に還元されます。生活保護費は4分の3が国からの補助、4分の1が自治体負担です。その4分の1も地方交付税交付金で補われます。いわば、国家の再分配の仕組みなんです。それが地域に回るという考え方です。

  彼らがお金を使えば、それだけでも何かの役割を発揮することになる。「お金を使う」というプラスの側面をなぜ評価しないのかと思います。

 平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)/1975年生まれ、福岡県出身。作家。98年「日蝕」でデビュー。同作で第120回芥川賞受賞。「決壊」「透明な迷宮」「私とは何か『個人』から『分人』へ」など著書多数

  


  桜も見頃なのだろうけれどゆっくりと花見する時間もない。相変わらず風も強い。ビニールをかけてしまいたい。天気予報を見ると4時くらいから治まっていきそうなので、何とか狙ってはいたのだが、今日は断念。
 明日は一日雨模様。今夜はハウスのストーブなし。もうブヨが出てきた。