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昭和の名人として六人の噺家が選ばれている。
五代目古今亭志ん生
「志ん生さんはね、ぞろっぺいだとみんなが言いましょ?そりゃ、ぞろっぺいには
違いないが、芯の芯までぞろっぺいじゃあなた、到底芸人としてやっていかれる
わけがない。締まるとこはちゃアんと締まっていたんです。」と三遊亭圓生の志ん生観。
「志ん生は貧乏しても道楽がやまなくて落第亭主のように言われていたけど、一度だって
女房を離縁したことはない。生涯おりんさんと添い遂げた。そこへいくと真面目な
桂文楽にはおかみさんが何人いたんだからね、人間というのはおもしろいもんだねぇア」
とこれは、評論家宇野信夫の談。
まあ、最後にでてくる志ん朝の師匠であり、父親。
人物模写や心理表現を深追いする道を捨てて、それをなかば聴き手の想像に委ねるように
淡々と、あっさり語る道を選ぶ。
名人の道を放棄したはずの志ん生が大勢の聴き手を手玉に取り、
回り回って名人と言われるようになる。
案外現代的な落語話芸のあり方でもあると・・・。
自分の思いと違うところで、客は評価する、ここが芸事のおもしろいところでは・・・。
六代目三遊亭圓生
圓生さんでも同じようなことが、満州へ二年ほど行って帰ってくると、
「前よりうまくなった」という声に「馬鹿にされてると思った、ほとんど向うで演ってないのに、
うまくなる訳がない。」という圓生。
でも、実際に圓生の芸は変わっていたのだ。自分のことは自分が一番よくわかっていると
言い張る人がいるが、圓生は他人より遅れて自分の変化を覚った。認めるしかなかった・・・と。
八代目桂文楽
八代目桂文楽は、昭和戦後の噺家の中でいちばん先に「名人」と呼ばれた人だった。
ことばがきっちりと整っていて曖昧なところがなく、言語構成が日本庭園の樹木の
配置のごとく、まずは型として誰もが認識しやすい存在だった。
文楽の幇間は陽気にヨイショのしゃべりをしていながら、時折り口をつぐみかけるような素振りをみせる。
そこに実際、座敷で旦那の機嫌を取り結ぶ際の微妙な呼吸と駆け引きの妙が活かされている。
噺家きってのジェントルマン、文楽さん・・・絶句のあと客席に不首尾を詫びて中途退場。
それが最後の高座・・・・・・それ以降は、一切高座には上がらなかった。
三代目桂三木助
三代目桂三木助といえば、「芝浜」の演じ手として“ひどく”売りだしたと。
あえて“ひどく”とは、凶の要素をはらんでの売り出しだったと、著者の京須偕充氏は言う。
三木助の語り口は、ひとことで言えば淡々としたもので、節目で間をあまり大きくとることもなく
抑揚を多用して歌い調子に近づくこともない。引締まったリズムとテンポで地帯なく噺を運んだ。
少し小腰を屈めた小商人風の江戸前に思われたと・・結構、辛口批評で始まる。
三木助は超一流のことばの職人だが、噺家としての肚はそれに相応しい大きさになってなかったのではと、・・・・厳しいお言葉・・・そういえば、三木助さんの持って入りCDは「芝浜」だけですな。
五代目柳家小さん
早熟にして長命・・・
重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝に指定されたとき、役人に
「国宝になったあとであたしが何か悪いことでもしたら、国宝を取り消されるんですか」と
質問したという話がある。
「そういうことがない御方と信じて御指定申しあげました」といった回答があっただろうと。
芸人と役人が異種の人間でなくては、どちらの世界も先が覚束ない・・・・と。
晩年は、芸が納まって、以前の様なパーッとしたところがなくなったと。
自分で枯れたと思ったらおしまい、それは他人様(ひとさま)が仰ること・・と。
圓生さんの言葉。
同時代の噺家で、良きライバルだけに、厳しいですな。
三代目古今亭志ん朝
マネジャーは志ん朝さんのことを
「自分の人気、芸の現状と将来、自分の落語界でのポジションも自覚している。
他の噺家にない魅力も承知、自負もある・・・・・
でも凄いのは、それをひけらかしたりする人ではない。自信があればあるほど控え目にして
先輩を立てる、若い者の面倒を見る。そうじゃなくては野暮天で、人間として粋じゃないし、
都会的でもない。出過ぎたこと、目立つこともいや。そういう扱いを受けるのも困る、
そういう人だと」
かっこ良いな・・・私の江戸落語で一番好きなのは、志ん朝さんでおます。
生の落語は一回もなく、CDだけしか聴けないのは残念。
でも「火事息子」「厩火事」「三枚起請」「品川心中」「鰻の幇間」あたりはお気に入りでおます。
昔の噺家さん、それも東京の噺家さん・・・遠く、遠く、感じてしまいました。
落語は生き物、同時代に、同じ空気を吸って生きるライブ感、
一期一会の出会いを大切にしたいですな。
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