中学時代ほとんど勉強しないで野球に明け暮れたぼくには高校入学後、野球部に入ってほしいという勧誘が数か月に及びました。でも入部しませんでした。
高校野球にはすごい憧れがありました。
わが母校である土浦一高は創立1897年。116年の歴史があるのですが、甲子園出場は1回のみ。1957年のことです。そのときの主将は安藤統夫さん(元阪神タイガーズ監督)。中学・高校の8年先輩です。
甲子園出場の時、ぼくは小学5年生。北関東大会で優勝。甲子園出場が決まって凱旋すると、土浦駅はものすごい数の人が集まり、駅から4~5㎞離れた高校まで提灯行列しました。ぼくもついて歩きました。
安藤さんは慶応大学に進み、卒業後巨人の誘いを蹴って阪神タイガーズで活躍します。当時の土浦界隈は早稲田ファン、巨人ファンが多かったのですから、安藤さんは反骨に生きたとも言えるでしょう。
安藤さんは確か三人兄弟の真ん中。末弟はぼくの中学時代の1年先輩で、すごい投手でした。地方大会ですが、優勝投手にもなっています。彼は法政2高に進みますが、甲子園出場はありませんでした。
安藤統夫さんが甲子園に行った時の監督は嶋田実さん。早稲田大学でかの広岡達郎さんの少し先輩でショート。嶋田さんが結核を患ったためにショート広岡が誕生したと聞きました。嶋田さんは幸運にも監督1年目で甲子園出場を果たしたのでした。安藤さんを育てたのは嶋田さんでなく、その前数年間監督をしていた木内幸男さんです。
かの有名な木内マジックで取手二高を甲子園優勝に導いた名監督です。木内さんの実家はすごい兄弟が多く、なんと弟さんとぼくは何度も対戦しています。彼は土浦一中。ぼくは土浦二中。彼も投手。ぼくも投手。いつも打ち取られていましたが、最後の試合だけ、三遊間ヒットを打たせてもらいました。彼にはその何倍もヒットを打たれたのだと思いますが、もう記憶にありません。
高校で野球をやっていたら、医学部進学はあり得なかったでしょう。歌手をあきらめ、野球選手をあきらめ、若い日に人生の挫折を何度も味わったことが屈折した今の性格を作り上げたのでしょう。
高校野球にはすごい憧れがありました。
わが母校である土浦一高は創立1897年。116年の歴史があるのですが、甲子園出場は1回のみ。1957年のことです。そのときの主将は安藤統夫さん(元阪神タイガーズ監督)。中学・高校の8年先輩です。
甲子園出場の時、ぼくは小学5年生。北関東大会で優勝。甲子園出場が決まって凱旋すると、土浦駅はものすごい数の人が集まり、駅から4~5㎞離れた高校まで提灯行列しました。ぼくもついて歩きました。
安藤さんは慶応大学に進み、卒業後巨人の誘いを蹴って阪神タイガーズで活躍します。当時の土浦界隈は早稲田ファン、巨人ファンが多かったのですから、安藤さんは反骨に生きたとも言えるでしょう。
安藤さんは確か三人兄弟の真ん中。末弟はぼくの中学時代の1年先輩で、すごい投手でした。地方大会ですが、優勝投手にもなっています。彼は法政2高に進みますが、甲子園出場はありませんでした。
安藤統夫さんが甲子園に行った時の監督は嶋田実さん。早稲田大学でかの広岡達郎さんの少し先輩でショート。嶋田さんが結核を患ったためにショート広岡が誕生したと聞きました。嶋田さんは幸運にも監督1年目で甲子園出場を果たしたのでした。安藤さんを育てたのは嶋田さんでなく、その前数年間監督をしていた木内幸男さんです。
かの有名な木内マジックで取手二高を甲子園優勝に導いた名監督です。木内さんの実家はすごい兄弟が多く、なんと弟さんとぼくは何度も対戦しています。彼は土浦一中。ぼくは土浦二中。彼も投手。ぼくも投手。いつも打ち取られていましたが、最後の試合だけ、三遊間ヒットを打たせてもらいました。彼にはその何倍もヒットを打たれたのだと思いますが、もう記憶にありません。
高校で野球をやっていたら、医学部進学はあり得なかったでしょう。歌手をあきらめ、野球選手をあきらめ、若い日に人生の挫折を何度も味わったことが屈折した今の性格を作り上げたのでしょう。