緩和医療学会1日目の夜にホテルのバーに4人集まりました。
前沢軍団、前沢チルドレンなど呼び名はいろいろですが、昔コミュニケーショや身体診察の自主的勉強会をしていました。ゼミのようなものです。
北大に赴任して3年目くらいに、3名の医学部学生が「勉強会をしたい」ということで週1回の勉強会を始めました。舘野知己君、岡本拓也君、武藤晴達君。北大同窓会は76期と呼びます。この3人とも一度他の学部や他大学を出て北大医学部に再入学した人たちでした。
その後、この勉強会はほぼ毎年4~5年生あたりに引き継がれ、主に症例検討会をするようになり、ぼくが退職して今も続いています。木佐健悟君、村上学君が指導してくれています。
たまたま今回は三田(旧姓竹之内)礼子(あやこ)さんがあるMLで、ぼくの名を見てメールをくれたのでした。また、岡本君は7月5日に倶知安厚生病院に講演に来てくれました。小田浩之君からは去年の北海道在宅医療推進フォーラムで名刺をもらっていました。この3人が集まって同窓会を開きました。他にも大友宣君がこのグループに属するようです。今回の学会には参加されなかったようです。
平成12年に卒業した岡本君は京都大学法学部卒業、29歳で北大医学部に入学しました。札幌医科大学で臨床研修後、福岡の病院で緩和医療を学び、3年くらい前に北海道洞爺温泉病院のホスピスに勤務しています。町村部ではめずらしいですが、需要はあります。先日の講演では最期の療養場所の雰囲気づくり、緩和医療チームが活き活きと働いていることに感銘を受けました。とても誠実な人柄は同級生からも尊敬されていました。今も少しも変わっていません。
三田さんは勉強会2期で、1期の時から顔を出してくれていた酒井利幸君の同期で、彼に連れられて勉強会に参加してくれました。研修は佐久総合病院です。その後、国立国際医療センターなどで血液疾患分野の研修をし、よき指導者に恵まれ現在の救世軍ブース記念病院でホスピスを担当しています。小柄ですが、医療への情熱は熱く大きいです。学生時代はときどきクッキーを焼いてきてくれました。きっと良き妻も両立できています。
小田君は元建設省官僚です。都市工学を専門にしていました。16年勤務した後、北大医学部に入学しました。その翌年から学士入学制度がスタートしたので、彼は6年間勉強しました。NTT札幌病院で研修の後、市立札幌病院の緩和ケア内科で後期研修中。といっても実力・人間性ともに優れ、後期研修医は修了? 正規職員になったそうです。学生時代はぼくが担当していた文化系的授業(コミュニケーション技法)のよき理解者でした。ぼくは彼の質問「コミュニケーションはマニュアル化されたものでよいのか」に答えられなかったそうです(今回、指摘されました)。ぼくの方は彼のレポートに「この授業は打ち出の小槌のようでおもしろい話が次々と出てくる」とあったのを覚えています。教師とは勝手なものです。学生時代はぼくの薦めた地方町村の首長さんたちにほとんど会いに行ったのではないでしょうか。これから都会の病院の緩和ケア医よりも、もっと大きなスケールで仕事してくれることを期待してしまいます。
さて前沢組から、現在はっきりしている人だけでも緩和医療従事者が4人も出たのでしょうか?
ぼくは卒業4年目から、血液疾患患者を診るようになりました。いや、もっと前でしょうか。研修医のときにがん患者を多く受け持ちました。そして当時ターミナルイケアと表現した分野をライフワークにしようと考えた時期がありました。名作?「死にゆくものに看護は何かできるか」という文章を『臨床看護』という雑誌に載せてもらいました(1975年頃)。そうです。プライマリ・ケアでなく、ターミナルケアです。
人生は思い通りにいかないもので、この文章を当時自治医大学長の中尾喜久先生が読んでくださって、「前沢を地域医療教育の要に抜擢しよう」と考えられたのだそうです。と、高久史麿先生から聞かされました。
ケアという点で共通したものがあると中尾学長は直観されたのでしょうか?
ともかくも、自分が一度志したライフワークを4人もの医師が実践してくれている。「教師冥利に尽きる」と実感できた夜でした。