旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

前沢組同窓会(緩和医療グループ)の夜

2011-07-30 22:06:47 | 交友

緩和医療学会1日目の夜にホテルのバーに4人集まりました。

前沢軍団、前沢チルドレンなど呼び名はいろいろですが、昔コミュニケーショや身体診察の自主的勉強会をしていました。ゼミのようなものです。

北大に赴任して3年目くらいに、3名の医学部学生が「勉強会をしたい」ということで週1回の勉強会を始めました。舘野知己君、岡本拓也君、武藤晴達君。北大同窓会は76期と呼びます。この3人とも一度他の学部や他大学を出て北大医学部に再入学した人たちでした。

その後、この勉強会はほぼ毎年4~5年生あたりに引き継がれ、主に症例検討会をするようになり、ぼくが退職して今も続いています。木佐健悟君、村上学君が指導してくれています。

たまたま今回は三田(旧姓竹之内)礼子(あやこ)さんがあるMLで、ぼくの名を見てメールをくれたのでした。また、岡本君は7月5日に倶知安厚生病院に講演に来てくれました。小田浩之君からは去年の北海道在宅医療推進フォーラムで名刺をもらっていました。この3人が集まって同窓会を開きました。他にも大友宣君がこのグループに属するようです。今回の学会には参加されなかったようです。

平成12年に卒業した岡本君は京都大学法学部卒業、29歳で北大医学部に入学しました。札幌医科大学で臨床研修後、福岡の病院で緩和医療を学び、3年くらい前に北海道洞爺温泉病院のホスピスに勤務しています。町村部ではめずらしいですが、需要はあります。先日の講演では最期の療養場所の雰囲気づくり、緩和医療チームが活き活きと働いていることに感銘を受けました。とても誠実な人柄は同級生からも尊敬されていました。今も少しも変わっていません。

三田さんは勉強会2期で、1期の時から顔を出してくれていた酒井利幸君の同期で、彼に連れられて勉強会に参加してくれました。研修は佐久総合病院です。その後、国立国際医療センターなどで血液疾患分野の研修をし、よき指導者に恵まれ現在の救世軍ブース記念病院でホスピスを担当しています。小柄ですが、医療への情熱は熱く大きいです。学生時代はときどきクッキーを焼いてきてくれました。きっと良き妻も両立できています。

小田君は元建設省官僚です。都市工学を専門にしていました。16年勤務した後、北大医学部に入学しました。その翌年から学士入学制度がスタートしたので、彼は6年間勉強しました。NTT札幌病院で研修の後、市立札幌病院の緩和ケア内科で後期研修中。といっても実力・人間性ともに優れ、後期研修医は修了? 正規職員になったそうです。学生時代はぼくが担当していた文化系的授業(コミュニケーション技法)のよき理解者でした。ぼくは彼の質問「コミュニケーションはマニュアル化されたものでよいのか」に答えられなかったそうです(今回、指摘されました)。ぼくの方は彼のレポートに「この授業は打ち出の小槌のようでおもしろい話が次々と出てくる」とあったのを覚えています。教師とは勝手なものです。学生時代はぼくの薦めた地方町村の首長さんたちにほとんど会いに行ったのではないでしょうか。これから都会の病院の緩和ケア医よりも、もっと大きなスケールで仕事してくれることを期待してしまいます。

さて前沢組から、現在はっきりしている人だけでも緩和医療従事者が4人も出たのでしょうか?

ぼくは卒業4年目から、血液疾患患者を診るようになりました。いや、もっと前でしょうか。研修医のときにがん患者を多く受け持ちました。そして当時ターミナルイケアと表現した分野をライフワークにしようと考えた時期がありました。名作?「死にゆくものに看護は何かできるか」という文章を『臨床看護』という雑誌に載せてもらいました(1975年頃)。そうです。プライマリ・ケアでなく、ターミナルケアです。

人生は思い通りにいかないもので、この文章を当時自治医大学長の中尾喜久先生が読んでくださって、「前沢を地域医療教育の要に抜擢しよう」と考えられたのだそうです。と、高久史麿先生から聞かされました。

ケアという点で共通したものがあると中尾学長は直観されたのでしょうか?

ともかくも、自分が一度志したライフワークを4人もの医師が実践してくれている。「教師冥利に尽きる」と実感できた夜でした。

 

 

 


宮城県涌谷町長だった本間八郎さんご逝去

2011-07-30 06:34:45 | 交友

本間八郎さんがご逝去されました。2011年7月29日午後1時10分との連絡が友人からありました。

ちょうど1か月前の6月29日に涌谷町国保病院に入院中の本間さんを見舞いました。酸素を吸っていましたが、表情はおだやかでした。

1995年までの3期12年涌谷町長を務めました。

はじめてお会いしたのは1985年3月27日だったように記憶しています。東北自動車道には雪が降り、約束の時間より大幅に遅れて来られました。自治医大のロビーで本宿尚先生と待ち続けました。

ダンディで柔和な人というのがその時の印象でした。「町民の要望で町立病院を建てる。宮城県では20年以上自治体病院の建設はない。周りからは赤字を作るだけだからやめろと言われている。いろいろ勉強したら、地域医療の考えをしっかり持った医師に来てもらえば何とかなるとの確信を持った。ぜひ自治医大から医師を送ってほしい」

自治医大中尾喜久学長にもそのことを伝え、医師探しに大学が協力することになりました。ぼくも何度か涌谷町を訪ねました。

半年たった頃、町から「町長と東京で会ってくれ」という連絡があり、10月26日なぜか小さな旅館で会いました。「前沢さん。名月赤城山つう(っていう)歌知ってっか? 世の中にはな、男が男に惚れるつうごどがあんだど。俺はなあ、あんだに惚れだ。俺と一緒に心中してけろ」

町長議長議員たちが中尾学長に直接談判にも来られました。「前沢さんを涌谷に送り出してください」と迫られて、学長は烈火のごとく怒りました。「自治医大にはようやく地域医療の灯が灯ったばかりです。火種を持って行かれては困る」

その後、大学を辞める覚悟をし、1988年4月に涌谷町に赴任しました。「病人を作らない病院を作ってほしい」という本間町長と二人三脚で地域包括医療のモデルを作りました。当時広島県みつぎ総合病院の山口昇院長から大きなサポートを受けました。

町長引退後、いくつもの病気を克服してきました。3月11日の大震災ではご親戚が5人も亡くなられたそうです。こころを痛めておられました。

タバコ屋さんに生まれ、小牛田農林学校卒業後しばらくして宮城県庁にスカウトされたと言ってました。県庁職員から涌谷町助役になり、1983年涌谷町長初当選。決断と実行の人、首尾一貫した信念を貫き、人を大切にする姿勢は学ぶところ大でした。人物像は次のURLをご覧ください。

www.mskj.or.jp/chinika/9311cnk6human.html

本間八郎さんはぼくの人生の恩人です。こころからご冥福を祈ります。

 


超高齢化・多死化の時代への準備(緩和医療学会)

2011-07-29 18:34:08 | 学会活動

本日は午後から札幌市で開かれている第16回日本緩和医療学会学術大会(大会長は蘆野吉和先生)に参加しました。

自主的参加でなく、パネルディスカッションの座長を頼まれての参加です。黒岩卓夫さん、大島伸一さん、辻哲夫さん、島崎謙治さんがパネリスト。2時間半を一人で座長を務めたので疲労困憊です。

結論が出たわけではありませんが、医療を根本的に見直すこと、在宅医療を重視すること、多くの医師が家庭医にシフトすることが方向付けされました。

高齢者多死の大変な時代になること、財源が足りないこと、行政や住民の協力を得ることの難しさ。総合医群認定制度の整備を急がなければならないことを再認識したパネルディスカッションでした。


ケアマネジャーの成長

2011-07-29 18:21:44 | 学会活動

28日夕方はケアマネジャーのスーパービジョンの研究委員会があり、日帰り上京しました。

施設内ばかりでなく、地域で指導チームを形成してモデル的教育事業をしようということなのですが、記録や評価をどうするか、指導側の標準化はできるかなど問題は山積です。

学習者の自己評価はポートフォーリオの活用がよいのかと提案したのですが、どうなりますやら。

6月のケアマネジメント学会のミニ研修会では、「医師のようにきちんと臨床研修期間を設けないとケアマネジャーも成長できないのでは」という意見が耳に残っています。

介護保険制度施行11年たって研修の仕組みの抜本的改革が必要なのでしょう。

ケアマネジャー研修に関してご意見を寄せてください。


がんばらない あきらめない 争わない

2011-07-27 17:23:30 | 日記

今日は一日京極町勤務です。

午前中は町長、副町長との話し合い。午後は何人かの議員さんが訪ねてこられて地域医療について歓談しました。

鎌田實さんの本の題名ではありませんが、地域医療は一人でがんばり過ぎないで、周りの人が助けたい協力したいと思ってくれるような人間関係づくりがたいせつかなあ。

ビジョンは他の人に理解してもらえるように、具体的で合点のいく言葉で表現できないといけませんね。その点はまだまだ勉強不足です。信念も明確にしてあきらめないで貫きたいです。もう歳ではありますが。

ぼくは性格からして争いごとが苦手です。議論は自分が負けるためにあるのかなと思うくらい下手です。ディベートなんて審判団以外やる気になれません。つまりは口下手で、論理的な話術などもさっぱり身に付きません。いつも後悔の連続です。あのときこう言えばよかったと反省ばかり。翌日に良いアイデアが浮かんでくるくらい鈍い人間です。

ボーとしている間に電話が鳴りました。日本介護支援専門員協会の木村隆次会長からです。厚労省に申請していた「介護支援専門員の研修体系再検討委員会」立ち上げが、この協会に委託されたとのことです。いつものことで安請け合いで委員長職をやってもいいですよ、と言ってしまっていたのでした。額が大きいので、今になってガクガク震えています。優秀な委員がいるでしょうから、何とかなるかなあ。ケアマネジメント学会のスーパービジョン研究で、おおよその見通しはつけられたので大丈夫でしょう。抜本的改革案を提案して介護保険制度の維持に何とか貢献したいものです。