旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

足寄町の人材育成

2011-09-30 23:52:57 | 日記

今晩は帯広の北、十勝平野の北部に位置する面積の広い町(かつて日本一)足寄町に移動しました。

足寄町出身の有名人は誰でしょう?

松山千春。足寄町国保病院に1,000万円のオルゴールを寄付しています。

それに鈴木宗男。ただいま足寄町で会うことはできません。足寄高校野球部ではライトを守っていたそうな。

さらに石川知裕議員。控訴したのですね。

そうそうたる面々。

今晩は足寄町高齢者保健福祉推進委員会で足寄町にやってきました。池田駅に出迎えてくれたのは寺本圭祐さん。社会福祉士で包括支援センターを担当してます。名刺には螺湾ブキの写真。立っているのは松山千春君のようにてっぺんが光っています。

このぼくと話がしたくてわざわざ今日の運転手をかってでたとか。とほほ、申し訳ありません。来年は社会福祉士会の講演いたしますから。

さて肝心の高齢者保健福祉計画ですが、会議では住民代表の方々から積極的な意見が出て、さすが足寄町と思わされました。お金をかけて建物を建て、事業をして、稼働率、利用率がどうなのだ! 

そうですね。町の高齢者の半数にアンケートや聞き取り調査をして、生活実態や介護保険に対する意識は明らかにしています。それをグラフ化し、わかりやすい図にまとめています。職員の努力に拍手!

ただ、第4期も目標を立てがんばってきたのですから、その評価をまずきちんとしなければ次に進めないでしょう。5期は保険料が平均で1700円/月あげる予定ですから、町民が納得できる根拠を説明できないといけないですね。

それに倹約型の活動を考えないとうまくいきません。

そして町全体の目標と行政、医療介護福祉担当者、住民、それぞれの課題を明確に分けて示すことが大切でしょう。 

会議では発言しなかったのですが、 福祉施設拡充でなく住まいの工夫を! 社会参加ばかりでなく訪問系サービスを! その人材は住民自身。 今いる人材をどう生かすか!  真価が問われる第5期計画です。


京極町に東京があった!

2011-09-29 17:22:45 | 日記

おとといの夜から、京極町国保病院、つまりあのぼくの勤務先に48時間労働の当直・日中勤務をいたしました。

きょうの午後は慶和園という養護老人ホームに回診。乗せていただいた車からバスの停留所が見えた。えっ。

「東京」という地名があるではありませんか。

もう少し、走ると一面のひまわり!

羊蹄山のふもとはとても美しい。山も中腹の色が変わってました。もしかして紅葉。去年から住んでいるのに気づかなかった。ブログを書くようになると山をしっかり見るようになるのです(?)。

北海道にアイヌ名でない地名はめずらしい。京極町はそのひとつで、京極さんという子爵が土地を手放されて、そのことに対する感謝の意で「京極町」と名付けたと聞いています。

ただいま病院事務部の山崎孝子さんにお尋ねしたら、京極には北京極と西京極はないそうですが、南京極はあるのです。南京極小学校もあります。春に健診に行ったときは感激。先生の方が多いのじゃないかい。1学年は1~3名の生徒数。それでも小学校を統合しないのです。

山崎さんの話では彼女は「東京極」に住んでいるそうです。なーんだ極がごく小さく見えてしまっただけでした。願望が字を消すのですね。怖いです。

ひまわりは観賞用でなく、畑の地質を変えるために植えるのだそうです。種や油を取るのでもないそうです。

首都「東京」には向日葵畑あるのかな。10月1日東京でのライフケアの講演では、そっとひまわりを咲かせようと思います。歌は花の歌を。


被災地医療支援のための後期研修医派遣

2011-09-28 23:41:32 | 学会活動

ぼくが理事長を務める日本プライマリ-ケア連合学会は、東日本大震災に対してしプロジェクトを立ち上げ、現在も支援を行っていいます。

これまで宮城県気仙沼市、石巻市、東松島市でささやかな支援を行ってきました。ベースキャンプとして藤沢市民病院、涌谷町医療福祉センターにたいへんお世話になってきました。

東松島市における妊婦健診などまだまだ継続しなければならない支援を除いて、気仙沼市の在宅医療や石巻市のショートステイ事業や福祉型避難所の仕事は収束してきました。後期研修指導医や研修医の支援、またHOPEというアメリカ在住の日本人医師・看護師の支援、わが国の薬剤師会、栄養士会、リハビリテーション関係者などの協力により、被災地の皆様にわずかながら貢献できました。

これからの仮設住宅に住む方々に長期にわたるケアを課題にしていますが、派遣する人材難は当然出てきます。研修医の中には、自分は被災地に行きたいのだけれど、指導医に相談できない、相談しても許可が出ないなどの声が聞こえるようになりました。

研修医への直接の呼びかけも必要になり、理事会でも議論の上、指導医・研修医双方に依頼状を出したのですが、指導責任者の中には、熟慮して研修医は出さないと決めていたのに、研修医に直接働きかけられては困るという方も出てきました。

研修に責任を持つことは研修医の臨床能力や人間力を知り、守り育てることですから、派遣は無理と判断されることもあって当然と思います。

ただ被災地でプライマリ-ケアのマインドを持ってケアを組み立てる訓練は、なかなか得難い経験になりますので、一歩超えて進まねばならない面もあると信じます。

現在、被災地は震災後6か月が過ぎ、まだまだたくさんの健康問題を抱えているものの、長期のわたるケアの時期に入ってきましたので、柱になる指導医的な方が現地で働き、研修医が応援するという形が望ましいと思います。

幸い、2名の指導医クラスが現地で働きたいという申し出があり、理想に近いスタイルで支援が継続できればよいなと考えています。

皆様のご理解、ご支援をお願いする次第です。


いい加減な患者です

2011-09-27 20:20:09 | 地域協働

「先生、患者さんにそんないい加減な治療してるんですか?」

きのう受診したときに中川明子先生から言われてしまいました。

数年前から収縮期血圧が140を超えたり下がったり、なかなか降圧剤を飲む気になりませんでした。

大震災で血圧が160前後に上がるときが多くなり、倶知安駅前にある中川クリニックを訪れました。その時の血圧は180を超えた。明子先生は「マエザワという患者は血圧高く、脳の血管疾患を起こす」というイメージを持たれたのでしょうね。

クスリは真面目に飲みませんでした。震災から3か月が過ぎて、だいぶ落ち着いてきたのです。けっこうさぼりました。でも寝不足があると、血圧上昇、ときには不整脈も出ます。

90日もらった降圧剤も、そろそろなくなるので、このいい加減な不真面目患者は明子先生にお叱りを受けるのを覚悟で、再受診したのでした。

つい「ぼくはいい加減な医者ですから、いい加減にやさしい医者を演じてます」「じゃ、血圧測らせて」

何と女性の前ではあがり症のぼくですが、見事血圧は130台。

いい加減っていいでしょ、と胸張って帰りました。これからもいい加減に薬を飲みます。

でも夕方、飛び込んできた患者さんには悩んでしまいました。アルコール中毒、肝硬変があり、肝性昏睡を繰り返しているのです。低蛋白血症がありますから、外来ではアルブミン製剤をふんだんに使っている。

アル中にもそれぞれの理由があるのでしょうが、慢性自殺とも言われています。

いい加減さも度を過ぎるとこんなふうになるのでしょうね。

さて、わが不良性はどこまで通用するのでしょうか?


中島みゆきと地域医療

2011-09-26 23:36:27 | 日記

中島みゆきと地域医療なんて全く関係がない。そうだよな。

今から15年前、北大の総合診療部1年目だったかなあ。

総合診療部の外来に岩内町(北海道岩内郡)に暮らす女性が受診されました。いろいろ事情があるようでうつ的になっていました。表情がたいへん暗かったのを今でも覚えています。

カンファレンスの時だったか、博識のオダロー先生が「中島みゆきは岩内に住んでだことがあるんだ。彼女の歌の翳りは岩内の影響だと思う」と発言しました。みゆきさんの父親は産婦人科医だったことをその時知りました。

岩内町は、ぼくが住んでいる倶知安町の隣りが共和町で、その隣にあります。暗い町とは思いません。ただ、日本海沿岸の町の冬の厳しさはたいへんなものがあります。強い風や地吹雪で車を走らせるのも危険なほどです。

中島みゆきの父上は岩内協会病院の産婦人科医でした。詳しい事情を文藝春秋10月号の石井妙子さんの文章で知りました。

彼女の歌には命の哀しみがにじんでいるのですね。「時代」という曲が父上へのレクイエムだったとは。

お父様は若くして地域医療を志されたそうです。岩内で10年ほど活躍されたある日。運命が大きく変わります。

その後は帯広に移られて寂しい雰囲気の産婦人科開業をされていました。

みゆきさんの歌は地域医療従事者への応援歌だったのですね。よく聴いてみると。