旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

政次死す

2017-08-21 21:52:30 | 日記
きのうのNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」はご覧になりましたか?

なんとテーマは「嫌われ政次の一生」小野但馬政次の死を描いたものでした。

ああ自分は嫌われていたんだと苦笑しました。


これは、どこかで書いたような・・・

ぼくの名前の由来をあるとき母親から教えられました。「わたしの甥っ子、お前のいとこの名前をもらってきた」母の兄の次男が政次だった。ああ、小学校に入って「まさじ」にしましたが、本来は「まさつぐ」でした。

この次男坊は戦死したそうです。戦争に行く前は時計工をしていた。とても真面目な好青年だった。だから、お前も真面目に生きろよ、と期待して名付けた。

さて、小野政次ははりつけにされ、非業の死をとげます。この生き方が究極の愛の姿であるとか話題になっています。直虎と井伊家を命がけで、いや自分の命と引き換えに守ったのです。

ぼくも嫌われながらも、政次の一生を生き抜きたいと思います。


日野原重明先生とプライマリケア

2017-08-03 21:06:11 | 学会活動
ぼくは 3年間東京での研修を終え、栃木県にある自治医科大学病院の血液科シニアレジデントになりました。それから血液病学を勉強している間は、日野原先生との接点がなくなりました。

卒業して10年くらいしたときに、突然高久史麿教授(当時)からのお勧め(命令ではなく?)で大分県立病院三重療養所に赴任しました。9か月で自治医大にもどったときに、中尾義久学長が話があるので、学長室に行ってこいと言われ、恐る恐る訪ねました。兼務でいいので、新設の地域医療学教室のチーフをしてほしい、とのことでした。

手探りで始めました。自治医大第一期生の吉新通康君(現、地域医療振興協会理事長)が相棒でした。

このとき客員教授が5名着任されました。そのひとりが日野原重明先生でした。

吉新君が申請してくれた「わが国におけるプライマリケアの研究」がNIRA(シンクタンク)の補助金を受けることができ、米国、英国、北欧へ調査に行きました。ぼくは米国を担当し、聖路加国際病院におられた日野原先生にご助言をお願いしました。

そのとき米国東海岸の総合内科(general internal medicine)でなく、西海岸に活発な家庭医療学(Family Medicine)を視察するように助言をいただきました。あとでわかったのですが、川崎医大のスタッフには前者を勧め、ハーバード大学関連施設に短期留学したのでした。ぼくたちはシアトルのワシントン大学、UCSFのサンフランシスコ校、サンタローザ郡立病院家庭医療学センターを視察しました。

ワシントン州立大学にはWAMIプログラムがありました。この大学の医学部は当時、ワシントン州、アラスカ州、モンタナ州、アイダホ州、4週で唯一の医師養成機関であったのです。日本のへき地医療とは規模が違います。その後、確か7回ほどワシントン大学を訪ねました。終生の師と仰ぐ巣ミルクシュタイン先生とも出会いました。

サンタローザではその後長く友情を育むことになるジョナサン・ロドニックと会いました。

これらの出会いの詳細はまた、別の機会に記します。

日野原先生によってぼくの人生は大きく方向転換していきます。

日野原先生から教えられた最大のことは、プライマリケアの大部分は「地域住民のセルフケア」であるということです。これが涌谷町での活動の原点であったと思います。




日野原重明先生との思い出

2017-08-02 21:22:29 | 交友
105歳で天に召された日野原重明先生には公私ともにご指導を賜わりました。

想い出を少しずつ書き留めておきたいと思います。

まずは昨年京極町の広報に書いた文章です。

2マイル行く医療ー日野原重明先生の教え

 学ぶことは習うことでもあり、真似ることでもある。
 若い日に真似る人と出会うことで、人は大きく成長できる。
 医学部は6年間です。当時は教養、基礎医学、臨床医学をそれぞれ2年間学ぶようになっていました。部活は野球、アルバイトは家庭教師、水道工事など、勉強する時間が極端に短かったです。そのため、春休み、夏休みなど長い休みには病院実習に励みました。
 池見酉次郎『愛なくば』を読んで、心療内科医をめざそうとしたぼくは、九州まで実習に行くのは、交通費もかかって大変。関東周辺に誰か心療内科の指導者はいないものか探しているときに、日野原重明『病む心とからだ』(1958年)を見つけました。大学5年生の夏休み前でした。
 病気の人の心とからだを両方診ることのできる医師になりたいので、弟子にしてください、という内容の手紙を著者である日野原先生に書いたのでした。お返事をいただき、とある土曜日の午前中に会ってくださるとありました。夜行列車で上野駅に着いたのは朝の6時前、上野公園の西郷さんの銅像近くのベンチで少し寝ました。
 訪ねた先は聖路加国際病院内科部長室。日野原先生は「卒業して、まず5年間からだの勉強をしなさい。精神科の勉強はそのあとでよい」とアドバイスしてくださいました。その助言で迷わず、内科に進むことにしました。
 学生時代、この病院で3回実習しました。患者さんに対する日野原先生の接し方の流儀、病気に対する考え方、つまり臨床医としての基本のほとんどは、授業として受けた大学病院ではなく、日野原先生を真似ることで学んだものでした。
 この病院の研修医になるには競争が激しく、ぼくは合格できませんでした。別の病院で研修しているにも関わらず、結婚式に日野原先生はご出席くださり、「患者さんに1マイル行ってほしいと言われたら2マイル行く医師になりなさい」というメッセージをいただきました。
 以来50年、日野原先生は今年105歳になります。現役医師としてご活躍。この2マイル同行する医師とは、どういう医師になれという意味だったのでしょう。
 少しでも長くしつこく患者さんを診るということでしょうか。 1マイルは建前、2マイルは本音。患者さんの深い心を聴き取る医師になることでしょうか。2マイル行くことのリスクも知る医師になることでしょうか。病気の予防法を患者さんに伝える医師でしょうか
 いまだに本当の答えは見つけることができないでいます。

註:「もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」(マタイによる福音書5:41)