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俳優・勝地涼くんのこと。

『蜉蝣峠』(3)(注・ネタバレしてます)

2013-10-23 06:00:06 | 蜉蝣峠
いかにもコメディ、というよりコントのようなやりとりの連続で幕を開けるこの作品、その実内容は至ってヘビー、むしろヘビーだからこそふんだんにギャグやパワフルな歌と踊りを入れて暗くなりすぎないよう釣り合いを取っているように感じます。
なにせ「蜉蝣峠」というタイトルが示すように、主な登場人物は皆精神的な立ち位置が何とも不安定なのである。

まず主人公である闇太郎。彼は25年より以前の記憶を失っており、自分の出自もわからず行く当て帰る当てもない。その闇太郎を蜉蝣峠から連れ出す銀之助は不義密通の代償に男性器を切除されており、そのためにやがて女として生きざるを得ない状況に陥る。闇太郎は記憶がないゆえにアイデンティティーも欠落してしまっているが、銀之助の場合は男性器を失ったことに端を発するジェンダーの不安定さのためにアイデンティティーを揺るがされている。

ジェンダーが不安定なキャラクターはもう一人いる。中盤から登場し、女装した銀之助と恋仲?になるサルキジだ。やたらと男らしさにこだわり女っぽさとは対極にあった彼が実は女だと告白する場面には驚かされたが、サルキジ自身が言う通り、本当は女だからこそ意識してここぞとばかり男らしい態度を取っていたわけで、彼もまたジェンダー不安、アイデンティティーの危うさを抱えているのだ。一代目お菓子ちゃんの存在も含め、この舞台ではジェンダー不安が大きな牽引力となっている。

それをはっきり示しているのが闇太郎とお泪の子供時代のシーンだろう。当然二役とも子役というか別の役者が演じるわけだが、闇太郎の子供時代を演じるのはかたや女性である中谷さとみさん、お泪役はかたやサルキジ役の木村了くんである。
木村くんの出番は一幕も終盤になってからだから回想シーンのある序盤は体が空いているのは確かだが、闇太郎の子供時代でなくお泪のほうの子供時代を演じる必然性はなにか。宮藤さん、もしくはいのうえさんは意図的に作中人物のジェンダーを混乱させているとしか思えない。

また一方で、虚無的に生き酒に溺れ時に人を斬りまくる天晴は演じ手である堤さんが軍鶏の役も兼ねている。天晴初登場直後のセリフに「軍鶏になる夢を見た」とあることからも、あえて堤さんに軍鶏を演じさせたのは単なるファンサービスではなく、常に鬱屈している天晴の、日頃抑圧されている一面をあの軍鶏の姿と言動で匂わせているのだと察しがつく。記憶喪失、ジェンダーの混乱を抱えた闇太郎や銀之介たちに続いて登場する天晴もまたそのアイデンティティーに二重性、曖昧さを抱えているのだ。
そして無口ではないのだが本心は一向見せようとしない天晴と対照的に軍鶏はしゃべるしゃべる。この軍鶏が闇太郎にシメられやっと沈黙したところからようやく物語は動き出すのである。

このようにアイデンティティーに曖昧なものを抱えた人々――闇太郎・天晴・銀之助が初めて登場する場所が蜉蝣峠だ。
この「蜉蝣峠から物語が始まる」というのがまた秀逸である。導入部で闇太郎が陽炎について説明する中にあるように、「餓えと暑さで頭がおかしくなってくると人は幻を見る。おっかさんや生き別れた女や絞め殺して食ったであろう軍鶏の姿を見る」。
軍鶏はともかくとして、おっかさんと生き別れた女については後の話を見たあとだと予言のようにも響くのだが、つまりは人が自分の心の中に引っ掛かっている存在、見たいと思っているものを投影するのが陽炎=蜉蝣ということだ。
見たいものを見せてくれる、会いたい人に会わせてくれるがすべては蜉蝣にすぎない。蜉蝣峠での再会を期した闇太郎とお泪にとっては約束の地とも呼べる場所――その蜉蝣峠から物語が始まることによって、そこには幻のほか何もないことを観客は前もって知らされているのだ。この無慈悲な構成。ろまん街―漢字で書けば牢満街―の名を闇太郎は夢がないと言ったが、蜉蝣峠という場所、蜉蝣峠から物語が始まる構成にこそ夢も希望もない。
そもそも、主題歌?の「蜉蝣峠を上ったり下ったり」という歌詞が示すように、本来峠とは旅の中継地点であって目的地ではない。お泪だって蜉蝣峠でやみ太郎と待ち合わせた際には、いや闇太郎と約束した際にも、彼と再会した上でより遠方に逃げるつもりでいたはずだ。
しかし25年前に記憶を失いまっさらな状態で「蜉蝣峠」の名を吹き込まれた闇太郎はそこが目的地になってしまった。そしてそれ以上どこに行くこともできずに精神を淀ませ腐らせていったのだ。自分が誰かもわからないまま目的地になりえない場所を目的地としてしまった―そこに闇太郎の悲しさがある。
ラストでお泪は蜉蝣峠で闇太郎が来るのをいつまでも待つと宣言するが、その闇太郎がすでに死んだらしいことが観客には示唆されている。今度はお泪がかつての闇太郎のように来るあてのない人間を待ち続けて蜉蝣峠で身を腐らせていってしまうのだろうか。

もう一つ巧みなのは、この芝居が天保年間の物語と設定されているところだ(25年前の大通り魔事件が文政元年なので作品の舞台は天保14年≒1843年となる)。
闇太郎こと松枝久太郎は武家の出であり、没落した家を再興し武士として立身するため蟹衛門の口車に乗って沢谷村の一揆を強制鎮圧したし、天晴の父であるうずらの親分は天晴を侍にしようとの野心を抱きやはりそのために蟹衛門に接近、天晴は久太郎ともども沢谷村の一揆鎮圧に尽力している。沢谷村の悲劇、引き続いての大通り魔の大量殺人の背後には武士の身分への執着があった。
しかし彼らが知るよしもないことだが天保といえば江戸も末期、10年後-1853年のペリー来航をきっかけに開国か攘夷かで国を二分する騒ぎとなり結局幕府は瓦解するのである。久太郎が恨みもない百姓たちを殺してまで士官しようとしたことも、うずらが息子を武士にしようと画策したことも、彼らが執着した「武士」という身分それ自体が数十年のうちに消滅してしまう。
執着する値打ちのないものに執着し、あげくに多くの血を流し、久太郎は母と己のアイデンティティーを失くし天晴は父を失った。悲劇の根底にあった武士階級への執心もまた蜉蝣に過ぎなかった―舞台を天保に設定したのはまさにその虚しさを観客に伝えるための仕掛けだったのだろう。

皆がそれぞれに幻を追い、結局は何もつかめずに終わってゆく。その虚無感をパワフルなギャグと歌と踊りでコーティングした―一見暗さを覆い隠すようでいてその躁状態がやがて空元気に感じられるようになりなお虚無感を増す、口当たりは軽く中身は重い、そんなお芝居でした。

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