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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』(2)-6(注・ネタバレしてます)

2009-02-17 02:28:35 | カリギュラ
・第三幕。第二幕の地味なセットとは打ってかわって、ネオンを中心に派手派手しく軽佻浮薄なムードを醸し出す。
やがて登場するカリギュラヴィーナスとセゾニア・エリコンの香具師めいた口上を考えると、見世物小屋のイメージなのでしょうね。

・月川悠貴さん演じる歌手がBGM代わりにスキャット?を聞かせる。
カストラートを思わせる高く線の細い歌声と男装の麗人めいた外見が、倒錯的退廃的な雰囲気を煽っています。

・樽を転がした裏方の男に、エリコンが「えーっ!?」とツッコミを入れる。声の裏返し方がなんか可愛いですエリコン。

・銀髪の鬘と裾の広がったミニスカートでヴィーナスにふんしたカリギュラが登場。「ヴィーーーナスです」というここぞとばかり間延びした挨拶が面白い。
一人シピオンが心底あきれ果てたような顔をしてるのも笑える。

・セゾニアの口上が、貴族たちに復唱させながらどんどん早口になっていく。この舞台の中でわかりやすく観客の笑いを取っていた数少ない箇所。

・皆の前でヴィーナスを演じてみせるカリギュラ。
カミュが作家として沈黙していた時期も戯曲の翻案・上演に積極的だったのは、演劇は戯曲家だけでなく俳優や演出家のものでもあるので「戯曲家は孤独ではない」ゆえでないかと言われていますが(※10)、このヴィーナスも第四幕でのマイムも作・演出・主演すべてカリギュラ自身によるもの(明言されてないがそうとしか思えない)。
演劇に「同志的連帯」「友情」「集団的冒険」を求めたカミュが演技的人間であるカリギュラをこの3点をすべて否定した人物として設定した。そのことがカリギュラの孤独をより浮き彫りにしています。

・カリギュラが後ろ姿を客席に向けると、なんと衣装の尻の部分に二つ大きな穴が開けてあり、ほとんど丸見え状態になっている。
戯曲には「グロテスクなヴィーナスの扮装」とだけありますが、確かにこのうえなく戯曲の指定に叶った衣装ではある。
こんな衣装でも変に恥ずかしがったりせず、思い切りよく、というより当たり前のように演じている小栗くんは本当に適任ですね。

・「きみは神々を信じているのか」とカリギュラに問われ、「いや」と即答するシピオン。シピオンは普通に神々を信じてそうなイメージだったのでちょっと驚いた。
カリギュラのいう通り、神を信じないといいながら「冒涜」という表現を使うのには違和感があるが、神を冒涜しようとする一連の行為によってむしろ人間性を冒涜していることを責めているのでしょう。
そしてわざわざ神に対抗しようとすることで、逆説的にカリギュラは神をそれだけの値打ちのあるもの、本来不可侵なものと認めていることになる。神を否定したいならシピオンのように、無視するというのがもっとも効果的で誰も傷つけずに済む方法なのだが、カリギュラは「謙遜という感情」を持てないゆえにそうできない。
「権力と自由の道をまた少し前進した」と言いながら、彼は冒涜を働けるだけの権力があるために、軽やかな身の処し方が出来ずにかえって自身を不自由にしているように思えます。

・「世の中の敵意のバランスをとる(唯一の)方法は」「貧しさです」とシピオンは言う。この貧しさとは単純に貧乏を指すのでなく、訳注によれば「キリスト教における「清貧」」を意味するとのこと。
後にシピオンがケレアに「あの人から教わりました、なにもかも要求することを」と語ったのがこの「貧しさ」との対比になっていると考えれば、彼の言う貧しさとは無闇と求めないこと、いわゆる「足るを知る」ことなんではないかと思います。皆が今あるものをそこそこ満足して受け入れられれば、心の平安を保つことができる。
しかしカリギュラが「じゃあ、それも試してみようか」というのにシピオンはいい顔をしない。カリギュラが皆からさまざまの物を根こそぎ取り上げたうえで、「現状に満足しろ」と言い出すのは目に見えていたからでしょう。
そういえば3年前にカリギュラが制定した法律によってシピオンの父の遺産(シピオンが貴族階級なのか詩の才によってカリギュラに取り立てられた市井の青年なのかははっきり書かれてませんが、普通に貴族たちと同席していること、第一の貴族がシピオンに「きみの御父上」と父親にも敬意を払った表現を用いていることからして、詩才のある貴族の子弟なんでしょう)は全部カリギュラのものになっているはず。単純な意味でもシピオン貧乏かも。

・自分は「人の命を尊ぶから」三つもの戦争を断り、「理性的な暴君がおこすどんな小さな戦争でも、おれの酔狂な気まぐれより千倍も高くつくことが分かるだろう」と言うカリギュラ。
確かにどんな大義名分があろうと戦争による被害(とくに人的被害)は、カリギュラの虐殺の比ではない。カリギュラが時々口にする完全に反論の余地のない論理の一つ。
そういえば実際にカリギュラが殺した人間はどれほどいるのだろうか。確実なのは作中で手にかけているメレイアと第二幕第一場で言及されているシピオンの父とレピデュスの息子くらいか。
少なくともあのときケレア邸に集まった貴族たちの中で身内を殺されたことが話題に上るのがシピオンとレピデュスだけなので、実はカリギュラの言うとおり「ごく僅か」なのかも。
人数の多寡ではなく意味なく殺されることが問題なのだ、というなら戦争だってあれこれ理由をつけてはいるが大して意味のあるものじゃない(意味のある死なんてない)というのがカリギュラの言いたいところでしょう。

・カリギュラと二人になったエリコンは、しばし周囲をうろうろしてからカリギュラに声をかける。
いつも飄々としてさっきも香具師の真似事などしてたエリコンらしからぬ暗い態度は、カリギュラに対する陰謀の証拠を押さえたため。なのに内心死を望んでるかのようなカリギュラはまともに話を聞こうとしない。
「月を探しに」と一言言って部屋を出てゆくエリコンの声と表情に形容したがい悲しさが表れている。

・保身のため仲間を密告に来た老貴族を、三段論法めいた理屈を並べてカリギュラは退ける。
「裏切り者を生かしておくなど我慢できない」カリギュラが結局老貴族を無罪放免にしているのに驚いた。カリギュラの理屈に照らせば陰謀はなくしたがって彼は裏切り者ではない=殺す理由がない、という事になるのは確かだが、そもそも神に代わって理由なく人を殺すのがカリギュラのやり方ではないのか。
そういえばメレイアの時も冤罪で殺してしまったことに動揺していた。処刑を行うにはカリギュラなりの理由づけが必要なものらしい。このカリギュラ流の筋の通し方は続くシーンでケレアを処刑しなかったことでより強く表れてきます。

・衛兵にケレアを呼ぶよう命じたあとで、一人になったカリギュラは鏡の前で不安な内心を吐露する。
先にシピオンに「多くの人があなたのまわりで死んでいきます」と言われて「ごく僅かだ」と返していたのが「死人が多すぎる、死人が多すぎる」と憑かれたようにつぶやいている。自分の暗殺計画が進んでいる、自分に向けられた人々の憎悪をはっきり感じて弱気になったものか。
初めてエリコンに月の話をした時は「もしおれが眠ったら、誰がおれに月をくれる?」と自分自身の手で月を手に入れるつもりだったのが、少し前ではエリコンに「月を持ってくるまでは~」と言い、ここでも「だれかがおまえ(注・鏡の中のカリギュラ自身のこと)に月をもってきてくれたら~」と他力本願になっていますし。

(つづく)

 

※10-内田樹「アルベール・カミュと演劇」(岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)の解説)。「アルベール・カミュは一九五八年のインタビューで、彼がどうして演劇にこだわるのか、その理由についてこう語っている。 『私にとって忘れがたいものがいくつか存在します。例えば、レジスタンスや〈コンパ〉に見られた同志的連帯がそうです。それはもうずいぶん昔の話になってしまいました。けれども、演劇にはその友情と、集団的な冒険がいまだに残っています。私はそれが必要です。それが、人が孤独ではなく生きることのできるもっとも心暖まる方法の一つだからです。』 」

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