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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(2)-2(注・ネタバレしてます)

2009-03-29 01:16:30 | カリギュラ

エリコンに、カリギュラの気まぐれに合わせて貴族たちを無差別に処刑したり蹂躙したりすることに対する逡巡が全くなかったとは思わないが、第四幕第六場でケレアに、
「あんたたちは卑しい顔をしていて、においも貧相なにおいだってことがな。苦しんだことも、危険を冒したことも一度としてない人間に特有の、うすっぺらにおいだ。」
と吐き出すように、彼は元々貴族たちを憎み嫌ってきた。
(こうした台詞をぶつける分ケレアのことは、敵とみなしつつ人間性をある程度買ってたのだろう)

大切なカリギュラのためなら彼らを踏みにじることはエリコンにとっては大した問題ではない。カリギュラの行動にとりたてて正当性を感じなくとも、被害者である貴族たちもカリギュラを裁けるほどに立派な人間だとは思えない。
このケレアへの台詞を見ると、彼一流の皮肉でおどけたような態度を取っ払ってしまえば、エリコンが本来至って情の深い熱い人間であるのがわかる。
カリギュラやケレアが論理で武装するところを彼は皮肉と諧謔で武装する。

だがそれもケレアを筆頭とするクーデター計画の具体的証拠を押さえたあたりから次第に地金が見え始める。
悪意敵意を通り越した殺意からカリギュラを守ろうとするエリコンは明らかに余裕を失ってゆく。
カリギュラの月談義に相槌を打つのもそこそこに「いつになったら聞いてもらえるんでしょうか」「こんな芝居はやめましょう」(エリコンが本来カリギュラの幸福論に何ら共感をもっていないのが改めてよくわかる台詞である)というエリコンは、カリギュラの精神的苦痛をやわらげるための遊戯に付き合うよりも、差し迫った命の危険から彼を守ることに必死である。
ごく実際的な人間である彼は、カリギュラの絶対的味方ではあるが、理解者とはなりえなかったしなる必要もなかった。
(カリギュラの思想を理解できたシピオンにも結局カリギュラは救えなかったし、彼は味方にさえなることはできなかったのだから) 

しかしもしかしたら最期の瞬間、エリコンはカリギュラの魂を「救った」のかもしれない。
それまで自身の論理をひた走ってきたカリギュラは、セゾニアを手にかけ一人になったところで、はじめて「おれには月が手に入らない」「おれは行くべき道を行かなかった。おれは何物にも到達しない。おれの自由はよい自由ではない」とこれまでの行動を全て否定するような台詞を吐く。
死に行くセゾニアに彼は「法外な幸福を完成した」と語ったばかりだというのに。

そして繰り返しエリコンの名を叫ぶ。「エリコンはもう来ない。おれたちは永遠に罪人だ」。 
彼は「月をもってこないうちは、姿を見せるな」とエリコンに告げた。エリコンの帰還はすなわち月が手に入ったことを意味する。エリコンが来れば月が手に入る。カリギュラは彼が追い求めた幸福に到達できる。
そしてエリコンは戻ってきた。エリコンはカリギュラのロマンティシズムなど知ったことではない、ただ彼を物理的な死の危険から守るためにやって来たにすぎないが、エリコンを待ち望んだカリギュラには彼の思惑がどうだろうとエリコンが来たことが奇跡だったに違いない。
そして彼はこれまで不可能を求める自分の前に常に立ち塞がった影―鏡の中の自分の像を破壊する。ぎりぎりで不可能を手にしたカリギュラは「笑い、あえぎつつ」勝利の雄叫びを上げる。
「おれはまだ生きている!」。

エリコンは『カリギュラ』第一稿の時点では存在せず第二稿から追加されたキャラクターで(※3)、しかもラストでカリギュラを守ろうとするくだりは58年版で付け加えられたという(※4)
セゾニアともども変心したカリギュラをどこまでも支え、カリギュラが死の際でついに月を手にしたことを存在そのもので暗示するエリコン。彼の存在は、カミュが悲劇の青年カリギュラにかけた温情の象徴なのではないか。

 

※3-平田重和「カミュの「不条理戯曲」『カリギュラ』」(『文学論集』第56巻第3号、関西大学、2007年1月)。「解放奴隷のエリコンが現れるのは第二稿からである。」

※4-渡辺守章訳『カリギュラ』訳注(『カリギュラ・誤解』(新潮文庫、1971年)に収録)。「最終景におけるエリコンのくだりは、五八年晩で付け加えられた」。

 

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