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俳優・勝地涼くんのこと。

カリギュラの幸福論(2)(注・ネタバレしてます)

2009-06-02 01:57:08 | カリギュラ

(引き続き『ストーンオーシャン』のネタバレを含む部分は反転)

一方のカリギュラも妹の死という悲劇を体験する。
この時彼はむしろ気が済むまで嘆き泣き喚けばよかったのである。あるいはシピオンに「人には宗教や、芸術や、愛がある」と語ったように、これらに救いを求めればよかった。シピオンやセゾニア、エリコンはそれぞれの仕方で彼を愛し、その心を慰めてくれただろう。
そうすれば時間はかかっても、カリギュラは口の中の嫌な味の代わりに、「大地から夜へとのぼってゆく、煙と木々と水の匂い」を再び感じ取れるようになったのではないか。
ケレアは「あの男は文学を愛しすぎた」と批判したが、むしろそのまま文学的感性に生きた方が彼のためであったかもしれない(※1)

しかし彼は運命への挑戦、極限までの論理の追及という無謀な戦いに捉われてしまった。理不尽な神の所行をより理不尽な形で真似ることで不可能を可能にし、それによって不死と幸福が手に入れられると彼は主張する。
妹の死をきっかけに絶望を知り哲学的問いかけに走ったすえ、到達した真理を万人に施すべく多くの人命を犠牲に供しながら不可能の楽園を地上に現出させようとする。
理想追求の過程で積極的に死を振りまくか死に無頓着であるだけかの違いがあるものの、彼とプッチの行動はよく似通っている。
プッチの「天国」理論がドイツの哲学者ニーチェの説く「超人」「永遠回帰」を踏まえていることはたびたび指摘されているし、カミュもまたニーチェの影響を受けているのは有名な話なので、ニーチェを介してカリギュラとプッチの幸福論は繋がっているのかもしれない。

ちなみにもう一つ彼らに共通するのが「愛情の欠如」である。万人の幸福を目的にしているわりに、彼らは救うべき対象である人間たちに愛を持っていないのだ。ゆえに彼らの行動は独善に陥らざるをえない。
プッチがはっきりその愛情を表明しているのはペルラとディオ(ともに故人)、神に対してのみである。それ以外の個々の人間に対しては、「天国」=人類救済のための障害物か路傍の石ころのような扱いをしている場面しか思い浮かばない。
彼は全人類に対して愛を持っているからこそ「天国」を目指したのだと主張するだろうが、一人一人への具体的愛情のない、ごく抽象的観念的な愛しか持たない人間は、大目的のために一部を切り捨て踏みにじることを躊躇わない。自身を善意の存在だと信じているだけ性質が悪い。
(カリギュラの愛の欠如については『カリギュラ』人物考(1)-2を参照)

ところでカリギュラは本心から「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」世界を実現できると思っているのだろうか。
プッチ神父はスタンド能力という常人を超えた力を駆使することで月ならぬ「天国」を手に入れた。カリギュラは超能力者ではないが、ローマ皇帝として地上で最高の、神に次ぐ権力を持っている意味では一種の超人と言えるだろう。
彼は人類の代表として人としての力の限界を見極めようとした。これまで人間の限界と思われていた地点を彼が越えれば、不可能と諦めていたことを可能にすれば、それが彼に続く人間たちの指標となる。人間の可能性の幅、生き方の自由度が数段拡大する。
「不可能!おれはそれを世界の涯(は)てまで探しに行った」。彼はその過酷な挑戦によって人類全体のレベルアップを図った―アポロ11号の月面初着陸が、現時点では人類の99%以上が月に行く可能性はないにもかかわらず人類全体の偉業と見なされたように―それは明瞭である。

確かにその権力を行使して無差別に処刑を行うことで、カリギュラは人間の命を奪うことは自在にやってのけた。しかし人間を不死身にすることはどうすれば可能なのか。
「天国」も不死や復活を可能とはしなかった。そもそも本家本元の神でさえ人間の復活も不死化も行えない(行わない?)ではないか。キリストによる死者や重病人の甦生、キリスト本人の復活は『新約聖書』で奇跡として語られているが・・・。
だからこそ人の不死も可能にしようとするカリギュラは本人のいうとおり「おれの望みは、今では神々を越えている。」のである。

(ちなみに歴史書(※2)によればカリギュラは西暦12年に生まれ41年に没している。西暦0年+αに生まれたイエス・キリストとは同時代人であり、カリギュラの存命中にはキリスト教も『新約聖書』もまだ存在していない。カリギュラは危険思想の似非宗教家として処刑されたイエスの存在自体知らなかっただろう。
カリギュラ=ヴィーナスが示すように当時のローマはローマ神話の神を祀っていたと思われるが、ニーチェの哲学の影響も色濃いこの戯曲の指すところの神は明らかにキリスト教の神のイメージである。)

しかし不可能を可能にする手段として「月を手に入れたい」とだけ言うカリギュラに、具体的方策があるとも思えない。彼が語の意味通りの不死など不可能だと思っていたとしたら、彼は「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」という言葉にどんな意図を篭めていたのか。
可能不可能はさておき、不可能を志向すること自体に価値があると考えていたのだろうか。「最後までそれで通さないから、何一つ手に入らない。最後まで理屈を通す、それだけで、たぶん充分だ。」という発言からすればそれはありえそうだ。
どのみち彼にとって現行の世界は我慢ならないものなのだ。失敗したところで今より悪い状態になりはしない。
そして彼が到達できるかどうかはともかく「不可能が王である王国」を目指したことで、確かに世界は変化した。カリギュラにとっても周りの人間にとっても。
ならば上手くすれば、「最後まで理屈を通」したあかつきには奇跡が起こりうるかもしれない。何せ今まで限界を極めた人間がいないのだから絶対に不可能だとは言い切れないではないか。

この発想は(彼がそう考えたのだとすれば)およそ非論理的なロマンティックな願望の産物である。論理を追求した結果ロマンティシズムに走るのでは矛盾もいいところだが、それがまさにカリギュラという青年の特性である。
そして彼は終盤は相当に迷い弱音を吐きながらも、自身の論理を死の瞬間まで貫徹した。死というゴールが与えられたことで彼は「最後まで理屈を通す」ことに成功した。
それによって彼は月を、永遠の生を手に入れたのだろうか。最期に彼は叫ぶ。「おれはまだ生きている!」と。

(つづく)


※1-東浦弘樹「カリギュラ、コタール、背教者、クラマンス―アルベール・カミュの描く悪魔的人物」(『人文論究』第五十四巻第一号、関西学院大学人文学会、2004年5月)。「カリギュラは文学を否定する。そこに彼の過ちがあった。他人に理解してもらうために頼るべきは、権力ではなく、文学ではなかったか。」

※2-スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。

 

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