他力本願、自力本願という仏教用語がありますが、結局は人間は生かされているわけですので、自分で生きているようで結果は生かされていると考えています。これが、私の人生観の中心を貫いています。
自分で生きているが、結果は生かされている自分がいる。だから、自分の人生は自分で切り開いているように一見見えますが、広くは生かされている自分がそこにいるわけです。
ここでこうして文を書いているのは自分ですが、神(私はこれを自然の摂理ととらえていますが)はこの私をしかるべくしてここに導いておられるのだと考えています。そこに、自分の意思で能動的に活躍しているように一見見えますが、宇宙の遙か彼方から自分を眺めますと、生かされている自分がいるわけです。主体的に生きている自分と客観的に生かされている自分がここに存在する訳です。
寿命という言葉があります。辞書には「あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さ」と出てきます。これはもう人智を超えた神があらかじめ決めた命のようなことが書いてあります。まさに、いくつまで生きるかは神のみぞ知るです。だから、天命と言ってもよいかも知れません。
「人事を尽くして天命を待つ」私の好きな言葉の一つですが、まさに、これも主観を離れた客観の世界の言葉でしょう。主観と客観、自力と他力、不易と流行、陰と陽、理想と現実…いずれも別物のように相反する物のように思われますが、広く宇宙の目線からとらえれば、どちらも繋がっている物だと私は考えています。
そうして、最後は永遠の命に繋がって行きたいと思います。今、こうして毎日の健康でいられることに感謝します。
こうしているといつも浮かんでくるのが、幼少の頃から見ている父の般若心経を唱えている姿です。