『幸福論』
アラン著、神谷幹夫訳、岩波書店(岩波文庫)、1998年
合理的・理知的なヒューマニズムに基づいた思想を展開していたフランスの哲学者アラン(1868ー1951)が、新聞に毎日連載し続けていた総数5000にのぼる哲学断章(プロポ)の中から、幸福に関する93篇を一冊にまとめたのが、この『幸福論』です。
数あるアランの著作の中で最も広く親しまれている本書は、ヒルティの『幸福論』やバートランド・ラッセルの『幸福論』と並ぶ「三大幸福論」としても名高く、岩波文庫版をはじめとしてさまざまな訳本が出されています。ひとつの項目が2〜4ページほどと短いうえ、語り口も実に平易なので、ちょっとしたスキマ時間を使って読むのにもぴったりでしょう。
アランは本書に収められたプロポの中で、気分や情念に囚われ、そこから生じる恐怖や怒りに振り回されることを、幸福を妨げる要因として繰り返し戒めます。そして、自らの意志によって幸福となることの大切さを説くのです。
数あるアランの著作の中で最も広く親しまれている本書は、ヒルティの『幸福論』やバートランド・ラッセルの『幸福論』と並ぶ「三大幸福論」としても名高く、岩波文庫版をはじめとしてさまざまな訳本が出されています。ひとつの項目が2〜4ページほどと短いうえ、語り口も実に平易なので、ちょっとしたスキマ時間を使って読むのにもぴったりでしょう。
アランは本書に収められたプロポの中で、気分や情念に囚われ、そこから生じる恐怖や怒りに振り回されることを、幸福を妨げる要因として繰り返し戒めます。そして、自らの意志によって幸福となることの大切さを説くのです。
「まちがっているのは、自分の考えが情念の言うなりになっていること、そしてどうにも手のつけられないような熱狂さで恐怖のなか、怒りのなかにとび込むことである。要するに、われわれの病気は情念によってもっと悪くなる」 (2 いらだつこと)
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。(中略)ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」 (93 誓わねばならない)
とかくわれわれは、ものごとを悲観的に捉えることを「高尚」だとみなす一方で、楽観的な姿勢をことさら低く見る傾向があります。それだけに、アランの「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という指摘には、目を見開かされるような思いがいたしました。
わたし自身マイナスの気分に囚われ、それに振り回されてしまうことがしばしばあったりしますので、それを克服する意志を持つことで、真の幸福を目指さなければいけないなあ・・・と自戒するばかりです。
もう一つ、自戒としなければいけないなあと思わされたのが「泣き言」と題されたプロポです。
このプロポでは、ものごとが何もかも悪くなっていくかのように考えたり、言ったりすることの弊害が語られます。「もっとも賢い人」が大げさな言い方で巧みに自分をだまし、悲しみや絶望に陥ることは「まるで精神のコレラみたいに」伝染する病気だと、アランは言います。
「ことばはそれ自体においてとほうもない力をもっている。悲しみをあおるやら、増大させるやらして、まるで外套でも拡げたように何もかも悲しみで包み込んでしまうのである。そういうわけで、結果だったものが原因となる。ちょうど子どもが、自分で友だちをライオンや熊の姿に扮装させておきながら、その姿がほんとうにこわくなってしまうようなものである」
これもまた「たしかにそうだよなあ」と思わされるものがございました。悲しみや怒り、そして恐怖を煽るような大げさなことばは、自分自身のみならず他者に対してもマイナスの影響を与えてしまい、多くの人がそれに取り憑かれ、病んだ状態となってしまうのです。まるでパンデミックのように。
そんな伝染性のある「精神のコレラ」にも効きそうなヒントを与えてくれるのが、本書のプロポの中でもわたしがとりわけお気に入りの「あくびの技術」。アランはこの中で、あくびは疲労のしるしではなく、「おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである」と、あくびがもつ効用と価値を述べます。
そして、やはり人から人へと伝染することによってひどくなる、自分自身へのさまざまな拘束からなる「伝染性の儀式」に対する「伝染性の治療法」こそあくびなのだと、アランは主張するのです。
「どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである」
この2年ものあいだ、長々とうち続いている新型コロナウイルスをめぐるパニック状態は、ウイルスそれ自体の広まりがもたらす害以上に、「専門家」と称される人々やマスメディアが発する大げさな物言いからくる不安や恐怖が、「精神のコレラ」のごとく伝染してしまったことにより引き起こされているように、わたしには思えてなりません。
アランが説いている「あくびの技術」は、そんなコロナパニックに対処するためのヒントにもなりそうです。おなかに深々と空気を送り込み、思いっきりあくびをすることで、不安や恐怖に対する「生命の報復」を見せつけてやることこそ、コロナパニックによる「精神のコレラ」に打ち克つ最良の治療法となり得るのではないか・・・と思いました。
以下に掲げる一節もまた、とても印象に残りました。
「社会の平和は、人と人との直接の触れ合いやみんなの利益の交錯や直接に言葉をかわし合うことから生まれるであろう。組合や法人団体のようなメカニスムとしての組織によってではなく、反対に、大きすぎも小さすぎもしない隣人の結びつきによって、である」
(32 隣人に対する情念)
コロナパニックにより、多くの「人と人との直接の触れ合い」が破壊され、奪われてしまいました。まずは、「大きすぎも小さすぎもしない隣人」との触れ合いや結びつきを取り戻すことで、少しずつであっても社会に平和を生み出していくことが大事なのではないか・・・そう感じました。
「精神のコレラ」に打ち克ち、真の幸福を実現するための羅針盤として、折に触れて読み直したい名著であります。
・・・と、ここまで書いたところで緊張がとけたからか、特大のあくびが立て続けに出てまいりました。さあて、今回はこのへんで終わりにして、お茶でも飲んで寝るとしようかなあ。
【関連おススメ本】
『幸福論』
バートランド・ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年
アランの『幸福論』などとともに「三大幸福論」と称されるうちの一冊。こちらもまた、実に平易かつ理性的な語り口による幸福への処方箋であり、座右の書としてわたしを支えてくれる一冊でもあります。当ブログでも以前、詳しい紹介記事を書いております。→【閑古堂アーカイブス】わたくしに生きる力を与えてくれた名著③ B・ラッセルの『幸福論』
本書の中であらためて、いまのわたしの胸に響くものがあった一節を。
「不合理をつぶさに点検し、こんなものは尊敬しないし、支配されもしないぞ、と決心するのだ。不合理が、愚かな考えや感情をあなたの意識に押しつけようとするときには、いつもこれらを根こそぎにし、よくよく調べ、拒否するといい。半ば理性によって、半ば小児的な愚かさによって振りまわされるような、優柔不断な人間にとどまっていてはいけない」
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