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宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『アートで見る医学の歴史』 優れたアート作品集にして、最良の医学史入門書

2017-10-14 22:57:30 | 本のお噂

『アートで見る医学の歴史』
ジュリー・アンダーソン、エム・バーンズ、エマ・シャクルトン著、矢野真千子訳、河出書房新社、2012年


8月にアップした記事で取り上げた『描かれた病』(リチャード・バーネット著、中里京子訳)を版元の河出書房新社から取り寄せたとき、同じく河出から出版されていた、やはり医学とアートの境界をテーマにした作品集を一緒に取り寄せ、購入しておりました。それが今回ご紹介する『アートで見る医学の歴史』です。
数千年にわたる医学の歴史を物語る貴重な資料であり、かつ芸術としても素晴らしく面白い絵画や書籍、彫刻、工芸品、さらには電子顕微鏡写真など400点を一堂に集めて紹介したこの本。2012年に刊行されたときにも、かなり気になってはいたものの、その判型の大きさと価格の高さ(税別5700円!)から、おいそれとは購入できずにおりました。『描かれた病』を注文するとき、ふとこの本の存在を思い出し、えーい版元がおんなじなんだしここは思い切って買っちゃえ!ということで、清水の舞台から飛び降りるつもりで(いや、実際はそこまでおおげさではございませんでしたが)取り寄せて買いました。
2冊合わせると1万円近くになる大きな買いものでしたが、結果として得るものも大きい、いい買いものとなりました(自宅に持ち帰るときがちょいと一苦労だったけど・・・)。

購入して初めてわかったことなのですが、『描かれた病』も本書『アートで見る医学の歴史』も、イギリスの「ウェルカム・コレクション」という、医学の歴史を物語る芸術作品や物品、標本を集めた、膨大なコレクションをもとにまとめられた書物でありました。『アートで見る医学の歴史』の序章ではウェルカム・コレクションと、それを集めた人物であるヘンリー・ウェルカムの事績が詳らかにされております。
19世紀の後半にアメリカで生まれ、やがてイギリスに渡って製薬会社を起こして大成功したウェルカムは、医学の歴史を物語るための博物館の開設に着手。信頼できる収集家によるチームが組まれ、「料理本から槍、顕微鏡、魔除け袋、切断術用のこぎり、ピンクちらしまで、ありとあらゆるもの」を集めさせたといいます。医学にとどまらず、人類生存の歩みに関するあらゆるものを含む歴史を語るコレクションは100万点を超え、それは「ヨーロッパ屈指の国公立博物館の収蔵物に匹敵する規模」になっていたのだとか。ウェルカムの死後、遺言をもとに彼の名を冠した財団ができ、ロンドンの中心部にはそのコレクションを展示する文化センターが開設されているそうです。
医学以前には人類学に興味を持っていたというウェルカム。本書に収録されている品々も、そんなウェルカムの関心領域の広さを物語るように多種多様です。西洋医学に関するもののほかにも、インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」の男性図、象皮病にかかった男を象ったナイジェリアのブロンズ像、亀の形をしたアメリカ先住民のお守り、さらには日本の鍼治療の人体模型や、神道と仏教の神66体を飾った神棚なんてものまであって驚かされます。

本書には、アート作品としても面白く興味深い作品が豊富に収録されているのもさることながら、作品を解説したキャプションや、それぞれの項目ごとに記されている概説といったテキスト部分も充実していて、アート作品を楽しみながら医学史にまつわるさまざまな事象を知ることができます。
たとえば解剖学。古代においては人体の解剖はほとんどなされておらず、14世紀になってようやく、人体解剖により人体の構造を理解することの重要性が認識され始めたのですが、当時使われていた解剖図は、動物の解剖に基づいた古代のものの引き写しだったとか。そんな中で少しずつ、実際に切開作業をした解剖学者による解剖図も出版されていきます。
その代表ともいえる一冊が、イタリアの解剖学者ヴェサリウスが1543年に出版した図解つきの解剖学教科書『ファブリカ』。実際に人体を観察することに基づいた解剖学の基礎を確立したという、この書物に掲載された版画による挿絵は、人体の筋肉や骨格の構造が隅々まで緻密かつ正確に描かれていて出来栄えも実に美しいのですが、その構図がなかなかユニーク。あたかも生きた人間のように、筋肉や骨格をむき出しにした人体がポーズをとっていて、中には墓石に頬づえをつき、何やら思索にふけっているかのような骸骨の図、なんていう、ちょっと笑えるようなのも。
『ファブリカ』の挿絵を紹介したページには、ヴェサリウス自身によるこんなことばが記されています。

「絵は大いに理解の助けになる。文章がどれだけわかりやすく書かれていても、ひと目見るだけで理解させられる絵にはかなわない」

まさしく、誰の目で見ても理解することができる絵によって、多くの人びとが医学の成果や知識を共有し、それらを引き継いで発展させていくことができたということが、本書に収められた数多くの図版を見るとよくわかります。
人体の構造を探究しようとしたのは、解剖学者などの医学者だけではありません。本書には、ドラクロワやミケランジェロの手になる、腕や脚の筋肉の構造をスケッチしたものも掲載されております。彼ら芸術家の作品にみられる豊かな人物表現の背後には、解剖学的な知見に基づいた人体への探究心があったということがよくわかりました。

アート作品としても見ごたえがあるものの一つが、16世紀半ばのバイエルン地方の医師だったレオンハルト・フックスが出版した薬草集『植物誌』の挿絵。美しく彩色された版画によるそれらの挿絵は、植物の特徴を子細に描きながら、デザインの面でもセンスが感じられて見事なものです。この『植物誌』の最後には、挿絵を手がけた3人の画家の肖像画も載っているのですが、挿絵画家の肖像画が本に載ることはめったにないことだったとか。
現代の進歩した電子顕微鏡の技術により、卵子や胚、血液や血管、 がん細胞や病原体などのミクロの世界を捉えた画像もまた、アートとしてもなかなか見ごたえがあるものばかりです。とりわけ、アスピリンやビタミンCの結晶を捉えた画像の美しさたるや、見ていてため息がでるくらいでありました。また、豚インフルエンザやHIVのウイルスを無色ガラスの彫刻で表現した作品も、禍々しさと美しさを併せ持った魅力を感じました。ジェームズ・ワトソンとともにDNAの構造を見出したフランシス・クリックによる、二重らせんのスケッチも紹介されております。
その一方でちょっと笑ってしまったのが、中世後期の外科学の文献に載せられていたという「負傷人体図」とよばれるイラストの数々。身体に受けるであろうあらゆる外傷を一覧できる図で、戦争で負傷した兵士たちの治療に際しての利便性も高かったとのことですが・・・身体中に矢や剣、ナイフが刺さっている上に、ごていねいにも足元を犬に噛まれたりしながら突っ立っているヒトの図、というのがなんだかシュールすぎて、オドロキを通り越して笑いがこみ上げてきてしまったのでありました。

医学の進歩に貢献した医師たちの業績を物語る図版も、数多く掲載されております。その中でも特筆すべき存在といえそうなのが、ルネサンス期外科医の第一人者として称賛を集めたというパリの外科医、アンブロワーズ・パレでしょう。
軍医としても活躍していたパレは、因習的な方法に従わず、新しい治療法を試みた革新的な外科医だったとか。傷口に焼きゴテをあてるか煮え油を注ぐという、それまで切断術後の傷口をふさぐ方法として用いられていた「焼灼」(しょうしゃく)に代わり、パレは結紮糸(けっさつし)を使って血管を封じることで、切断術の成功率を向上させたといいます。また、当時としては画期的であったであろう、金属製の義足や機械仕掛けの手のデザインまでやったりしていて、その先駆性に驚かされます。
称賛を集める医師がいる一方で、時流に乗じて高価な薬や治療を処方することで批判や嘲笑にさらされる医師たちもいたわけで、本書には医師をテーマにした風刺画の数々も収められています。その中の一つである日本の歌川国芳による浮世絵は、天然痘になった顔に特殊な蒸気をあてたり、太った女の脂肪を木槌とのみで削ろうとしたり、果てはろくろ首の長〜い首を短くしようとしたり・・・などという難病治療の光景を、いきいきとしたユーモアとともに風刺的に描いた傑作です。

医学の進歩の過程には、病に対する不十分かつ非科学的な認識からくる、さまざまな悲劇や偏見があったということも、また事実でしょう。
精神疾患の患者たちを収容する病院であるロンドンのベスレヘム病院は、かつては病院というより監獄に近く、金持ちが入場料を払って監禁されている人びとを「見物」に訪れるような場所だったとか。本書には、当時のベスレヘム病院に収容されていた患者を描いた、金属の拘束金具をつけさせられ、鎖で繋がれている男性の絵が収録されています。精神疾患に対する無知無理解と、偏見の歴史の一端をあらためて見せつけられる衝撃的な一枚です。
また、夫を精神錯乱に追い込む「常軌を逸した性格」を有する「女性の頭部を再形成し再研磨する」鍛冶屋を描いた風刺画は、絵柄といい書き込まれた文章(巻末には書き込まれたすべての文章の和訳が記されております)といい、精神疾患のみならず女性に対する強い偏見が感じられて、まことにグロテスクなものがありました。
そんな病に対する認識の不足を埋める、患者側からの観点を反映させたアート作品も、本書は紹介しています。中でも、精神疾患の治療やセラピーを受けながら、そのときどきの内面を水彩により描き続けたロンドンの芸術家、ボビー・ベイカーの絵日記は、精神疾患の当事者の体験や思いを理解する上でも貴重な作品だといえそうです。

近代的な医学や科学の外にある、伝統的かつ呪術的な医学を物語る資料にも、面白く興味深いものがいろいろとありました。
北米の先住民族であるナバホ族の医術師や儀式を記録した、1900年代初頭のセピア色の銀塩写真は実に美しく、しばし惚れ惚れとしながら見入ってしまいました。また、人物の絵を囲むようにアラビア語による呪文が記されている、マレーの黒魔術の紙片も実にユニークなものがございました。
そのほか、病気の治癒や健康のまじないのために作られた彫像や面、お守りといった品々にも土着的な美しさがあり、民族&民俗学の観点からも興味深い資料になるように思いました。

古代から現代に至る医学の進歩の歴史と、伝統的かつ呪術的なものを含めた多様な医学の側面を物語る、数多くの貴重な作品や資料を網羅した『アートで見る医学の歴史』。優れたアート作品集としても楽しめるのはもちろん、最良の医学史入門書としても、まことに学ぶところの多い一冊でありました。

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