読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

NHKスペシャル 終戦70年企画『きのこ雲の下で何が起きていたのか』

2015-08-06 23:45:29 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル 終戦70年企画『きのこ雲の下で何が起きていたのか』
初回放送=8月6日(木)午後7時30分~8時35分
音楽=羽毛田丈史
語り=伊東敏恵
製作=NHK広島放送局


70年前のきょう。一瞬のうちに広島市が焦土と化し、膨大な数の尊い命が奪われた、原子爆弾による惨禍。
その被害の状況を記録した写真は数多く存在しますが、原爆が投下された8月6日当日の広島市内の様子を記録した写真は数枚しかありません。そのうちの2枚が、この写真です。


(上掲の写真は、『写真集 原爆をみつめる 1945年 広島・長崎』飯島宗一・相原秀次編、岩波書店刊、より引用いたしました。なお、この写真集を紹介した昨年の当ブログの記事はこちらです。→ 【閑古堂アーカイブス】この時期に読みなおす、2冊の原爆記録写真集

爆心地から2.3㎞のところにある「御幸橋」(みゆきばし)に集まっていた、被爆した人びとを捉えたこの2枚は、当時中国新聞社のカメラマンであった松重美人さんによって撮影されたものです。自宅で被爆しながらも、辛うじてカメラを持ち出すことができた松重さんは、たどり着いた御幸橋で、被爆し傷ついた人びとの姿を目の当たりにします。その多くは、被害が大きかった爆心地から2㎞以内の “壊滅地帯” から逃げのびてきた人びとでした。
御幸橋での惨状を前にして、撮影していいものかどうか躊躇した末、松重さんはようやく最初の1枚を撮影しました。さらに人びとに近づいて2枚目を撮ったものの、カメラのファインダーは涙で曇って見えなくなり、それ以上撮影することはできなかった、といいます。
原爆投下当日の惨状を捉えた貴重な記録として広く知られてもいる2枚の写真ですが、これまで詳細な検証はなされていなかったとか。この『きのこ雲の下で何が起きていたのか』は、写真に写っていた人びとのうち、現在もご健在である方々や、当時その場に居合わせていた人びとを取材。得られた証言をもとにして、写真をCG技術により立体映像化することで、原爆によりもたらされた惨状を鮮明に浮かび上がらせようとした番組でした。

2枚の写真には、共通して写っている人がいます。セーラー服を着て後ろ向きに写っている女学生です。この女性は、今もご健在でした。
当時13歳だったこの女性は、爆心地から1.6㎞離れた動員先の職場で被爆。自身もガラスの破片で怪我を追っていた彼女は、顔に傷を負い血まみれになっていた友人とともに市中に向かいますが、火の海となっていて進むことができずに引き返し、御幸橋にたどり着いたのでした。
彼女にとって忘れることができない光景が、松重さんの写真には写されていました。松重さんが最初に撮った写真の真ん中あたりに写っている、黒いものを抱えた女性の姿。この女性が抱えていたのは、黒く焦げていて生きているのか死んでいるのかもわからない子どもでした。その子の姉と思しき女性は、腕に抱いていた黒焦げの子を必死に揺すりながら、
「起きてや、起きてや」
と叫びまくっていた、と。当時13歳だった女性は、その光景を振り返ってこう言いました。
「あれは忘れられないですね。死ぬまで持ってゆくんでしょう」

写真には、応急処置を受けている人たちの姿も写されています。写真に写されている人たちのうち、やはり今もご健在である当時20歳の男性によれば、当時やけどの応急処置として用いられていた食用の菜種油を塗られていたのだとか。しかし、その一方で油を塗られることもままならず、横たわり息絶えた人の姿も、写真にはかすかに写っていました。

写真からは、被爆した人びとが追ったやけどの状態も読みとることができました。
何人かの人たちは、皮膚が剥がれ落ちた状態で写っていました。日本熱傷学会の元理事である専門家によれば、「きわめて短時間で、ばっと剥がれるという、日常では考えられないやけど」といいます。これは “フラッシュバーン” と呼ばれる現象で、皮膚の中の水分が高熱で一気に水蒸気となって膨らみ、破裂することで表皮の下にある痛覚神経がむき出しになり、激しい痛みを覚えることになるというのです。先の専門家は、「おそらく、人間が感じる痛みの中で、最大の痛みを感じていたのではないか」と推測します。
写真の奥のほうには、皮膚の剥がれた腕を幽霊のように突き出しながら歩く人の姿も捉えられていました。また、その場に居合わせた方の証言によれば、熱さに耐えかねて橋から川に飛び込み、そこで亡くなった人が幾人もいた、といいます。

写真に写されている人びとを詳しく見ると、少年・少女たちの姿が多く写っていました。その多くは、戦場に出征していた大人たちに代わって勤労動員されていた子どもたちでした。8月6日に亡くなった人びとの中で、一番多かったのが12~13歳の子どもたちだったといいます。
爆心地から800mで被爆した女性は、避難する中で一人一人息絶えていく友人たちにどうすることもできないまま、辛うじて御幸橋へとたどり着きました。彼女は今も、友人たちが水を欲しがりながら息絶えていった場所に足を運んでいる、と。

セーラー服を着て写真に写っていた先の女性は、こう言いました。
「ほとんどが死んでおられるんですね、あの(松重さんの写真の)中の人たちは。自分が生きているのが申し訳なく思う。でも、こうして生かされているんですよね。こうやって伝えるためですかね・・・」

幾度も目にする機会のあった松重さんの写真でしたが、これほどまでに悲惨な状況が記録されていた写真だったということを、この番組で初めて知ることができました。
原爆投下から70年が経ち、当時を知る人びとも少なくなっていく中で(撮影した松重さんもすでに故人となっています)、写真に何が写されているのかを読み取ることが難しくなっていることは事実でしょう。
当時の記録をあらためて見つめ直し、それを伝わりやすい形で再構築していくことは、原爆が、そして戦争がもたらした実情を、貴重な教訓として次の世代に受け継いでいく上で、とても意義深いことなのではないか、と考えます。その意味でも、この番組の試みはとても良かったと思います。